レキオ島唄アッチャー

与那国島はなぜ宮古島に属していたのか、その2

 多良間島と与那国島の交換
 その昔、多良間島は八重山の管轄で、与那国島は宮古の管轄であったが、「首里王府では地理的に不合理として今から467年前の文亀のころ(1501-1503)両島の管轄を交換したと文献に記されている」(喜舎場永珣著『八重山古謡(上)』)そうである。

 小池康仁著『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』は、この多良間島と与那国島の交換問題について、論及している。
 <牧野(清)によれば、与那国島はかつて宮古島に帰属しており、後に現在宮古群島に属している多良間島と交換されたことを示す口碑が与那国島に残っているというのである。牧野はこの説を支持するにあたり、以下のような根拠を挙げている。まず、多良間島は石垣島から東に35キロと宮古島よりも近く、肉眼でも確認できる距離にある。そのため古来より多良間島の住民は肥沃な石垣島の土地で水田を営むため、船で耕作に通っていた。

 また八重山の新城島の古い言葉や古謡が多良間島のものとよく似ていること、他方で多良間島の地名や人名などが八重山のものとよく似ていることから、多良間島から八重山への集団移住やその他双方の人的交流があったのではないかと結論付けている。また与那国島については、かつて宮古島城辺集落周辺の住民が集団脱島し、与那国島に移住したために、宮古島との結びつきが強くなって以来、宮古との交流が始まったのではないかという。
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                 オヤケアカハチの像(石垣市)    
 また与那国島には宮古系統の姓氏があることもその根拠として挙げられている。そして宮古の仲宗根豊見親による、1500年に行われた石垣島のオヤケアカハチ討伐の際には多良間島民が征伐軍の水先案内人をつとめたことなどから、この頃には既に宮古と多良間の間で政治的な関係が緊密になっていたとしている。その結果として琉球国の尚真王により、仲宗根豊見親の水先案内人を務めた土原春源が多良間島の島主に任ぜられた。このことをもって多良間島は宮古諸島に帰属することになったという。対して与那国島は宮古に所属していたといっても、1500年当時は女酋長サンアイ・イソバの統治時代で独立を保ち、実質的には交流があった程度だろうとしている。
 
 その10年後、西表島の慶来慶田城祖納当(けらいけだぐすくすないあたり)が琉球王府より与那国島の当地責任者に任命されているため、これを根拠にこの時期には、与那国島が完全に八重山に帰属することになったとしている(牧野清 1972)。>
 宮古島から集団脱島で与那国島に行ったというのも初めて聞いた。なぜ宮古島からは遠い与那国島が脱島先になったのだろうか。やはり、すでに与那国島が交易の中継地とされて、島の事情も宮古島の島民にも知られていて、移住先に選ばれたのだろうか。

  宮古出身の詩人で思想家の川満信一氏は、この与那国・多良間交換説について、下記のような自説を展開しているという。
 <もともと宮古島は仲宗根豊見親(※1)が首里王府へ朝貢を開始し、琉球国に服属する以前から、ルソン島やシンガポールなど南方地域との交易を展開しており、その交易をおこなう中で与那国島は12世紀以前から南方貿易のための交易拠点として宮古島の人々に利用されていた。つまり与那国島は南方へ行き交う船にとって、その航路における重要な給水、食料補給基地であり、商船や倭寇などが無人島に近い頃から寄港地として利用していた。そうしたおもな寄港船が宮古島の船であったために、宮古直属になっていたのではないかという解釈である。
 
 その結びつきを示す根拠の一つとして、上述の与那国島を支配した鬼虎はもともと宮古島の出身であり、彼が幼少の頃に与那国島の商人によって与那国島へ買われてきたという出自をあげ、そうしたことが示すように商業上の緊密な関係が与那国島と宮古の間に存在したのだという。そして多良間島は南方貿易の航路からはやや外れており直轄の必要がないため八重山に帰属していたが、次第に宮古の南方貿易が衰退し、宮古への王府からの支配が強化されるに従って与那国島の重要性が下がり、逆に宮古に隣接する多良間島を宮古に帰属させたという解釈がなされている。>
※1、1390年、宮古島の首長として中山王察度に初めて朝貢したのは与那覇勢頭豊見親とされる。
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                         仲宗根豊見親の墓(宮古島市)
 小池康仁氏は、与那国島と多良間交換説に対する川満氏の解釈は、「なお推論の域を出ていないと考えられる」としながら、宮古島にとって南方貿易往路の要所として与那国島が位置づけられるという状況は、「戦後私貿易時代の両島の関係と近似」しているとも指摘している(『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』)。

 川満氏は、宮古島が与那国島を「南方貿易のための交易拠点」としていたのは「12世紀以前」とする。そんなに早くから南方貿易に乗り出していたのか。史実とすれば驚きである。
 また、16世紀に与那国島の首長だった鬼虎が首里王府に従わず、1522年、王府の命で宮古の仲宗根豊見親(空広)軍により討伐されたが、鬼虎は、もともと宮古島の出身だというのも初めて聞いた。
 
 ちなみに「ウィキペディア」では、鬼虎について次のようにのべている。
 「鬼虎は元々宮古は狩俣の生まれであった。5歳の頃には既に5尺の身長があった。この頃宮古島に飢饉があった。ちょうど与那国の人が商売に来ており、鬼虎の形相を見て只者ではないと思い、米一斗で買って連れ帰った。長じて鬼虎は身長一丈五寸、勇力無双、智謀に長けた豪傑となり、与那国島の首長となった。」
 仲宗根豊美親軍が攻めた時の伝承も、宮古島出身をうかがわせるものがある。
 <軍勢を無事上陸させるため策略を用いた。すなわちまず美女が赴き、「宮古は飢饉で大変です。同郷のよしみで助けてください」等々と鬼虎を泣き落として取り入り、酒を勧めて大いに酔わせた。空広はこれに乗じて入港し、直ちに攻め入った(「ウィキペディア」)>
 これらの伝承は、どこまで史実を反映してるのかはわからない。だが、宮古島と与那国島がとても緊密な関係にあったことを物語っていて、とても興味深い。
   終わり
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与那国島はなぜ宮古島に属していたのか、その1

 与那国島はかつて宮古島に属していた
 
 与那国島はかつて宮古島に属していたという。琉球王府がオヤケアカハチの乱を征討した後、当時、八重山に属していた多良間島と与那国島を交換して、多良間は宮古へ、与那国は八重山に属するようになったことを、以前このブログでも書いた。 
 ただ、なぜ宮古島からは近い多良間島、石垣島などを通り越して、より遠い与那国島を宮古島が服属させていたのか、よくわからないままだった。
 先日、小池康仁著『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』を読んでいたら、この問題に対する一つの見解が紹介されていた。 小池氏も八重山の歴史と民俗に詳しい牧野清氏や宮古島出身の川満信一氏の見解を紹介しながら記述している。

 与那国島は貿易の中継地だった
 <八重山地域を専門とする民俗学者の牧野清によれば、先島地方は琉球国の形成期において、当初王府には服属していなかったという。宮古諸島は島面積の大部分が平地で比較的大きな山や森がないため、水に乏しく農業には不向きであった。そのため古代より交易によって社会を維持してきたといわれている。逆に八重山諸島は比較的大きな山が多く水に恵まれているため、古代より農業によって社会を維持することができた。このような違いから、宮古島は琉球国が形成される14世紀ごろには、既に主として東南アジア方面との貿易を運営していたという。そして、島の伝承によれば八重山を侵略し最西端にある与那国島を服属させ、貿易の中継地としていたというのである(牧野清 1972)>
                  与那国島地図

 <その後宮古は首里王府に朝貢を通じて服属するようになった。そして、沖縄本島で首里王府を形成した三山勢力は福建地方を通じた大陸との貿易によって成り立っていた。このような経緯から、琉球国の主に南方方面との交易は宮古を中心とした勢力が担っていた、と思想家の川満信一は指摘している(川満 2004)>
(小池康仁著『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』「序章琉球列島における共同体の連携」の「注7」から)

 宮古島には、古くから交易が行われていたことをうかがわせる保良元島遺跡(ぼらもとじまいせき)がある。14~15世紀頃の集落遺跡である。宮古産の土器の他・宋・元・明時代初期の中国製陶磁器片が出土している。
 <元史「温州府志―オンシュウフシ―」によれば「婆羅公管下密牙古人―ブラコウカンカミヤコジン―」が元の延祐4(1317)年、大小2隻の船で南方交易の途中、嵐に遭い中国福建省永嘉県に小舟が漂着した。小舟に乗った14人は救助され、泉南(当時の貿易都市)から密牙古方面に行く船があったので、無事に帰国できたという。
 婆羅は保良に、密牙古は宮古に比定されている。当遺跡には、元島御嶽やブンミャー跡「竜の家(やー)」と呼ばれる洞窟がある。
 当遺跡は集落跡にとどまらず、海外交易の拠点という可能性も残されており、宮古の歴史を解明する上でも重要な遺跡である。(「宮古島アプリ綾道=あやんつ」HPから)>
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     察度王に帰順した宮古島の与那覇勢頭豊見親逗留奮跡碑(那覇市)
 琉球と中国との交易は、1372年、中山王の察度(さっと)が、弟の泰期(たいき)を遣わし、中国へ朝貢したのが始まりだとされている。宮古島と見られる船の南方交易はそれより50年以上早いことになる。
 宮古島庶民史の著者で宮古島研究の第一人者 稲村賢敷は中国の記録を基に、「蜜牙古(みやこ)島人約60人がシンガポールまで交易に向かったが、暴風に巻き込まれ遭難し、12人が中国の福建省泉州の沿岸に漂着した」 と書いているという(「宮古島キッズネット」HP、「14世紀宮古島の人びとの航海術」)。
 稲村氏の指摘のように、宮古島の人々は14世紀に遠く東南アジア方面までの航路を知り、交易をおこなっていたとすれば、驚きである。
 宮古島から東南アジアまで交易に出かけていたとすれば、与那国島はその中継地として重要な位置を占めていた可能性があるだろう。
 琉球は、三山統一のあと、中国、東南アジア、日本、朝鮮との交易国家として栄えた。「琉球国の主に南方方面との交易は宮古を中心とした勢力が担っていた」(川満氏)というのは興味深い指摘である。

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F&Y、初孫お祝いライブ

 フォークユニット「F&Y」のライブが那覇市真嘉比の「ななまかい」であった。今回は、ふーみさんの長男君の嫁さんが前日に出産したばかりで、初孫お祝いライブとなった。
ー ツレが「happybirthday ふーみ じーじー 初孫ちゃん」の横幕をつくってお店で飾っていただいた。ふーみさんには内緒だった。
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 ななまかいに着いたときは、まだF&Yの2人は来ていない。しばらくして到着した。音響の設置をはじめようとして、お祝いの横幕に気付いた様子。思いがけないサプライズにビックリビックリだった。
 ライブ常連のHさんからはお祝いの花束が贈られた。
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 ライブが始まるとすぐ、みずから「カリー!」とノンアルコールビールを高く掲げ、みんなで乾杯した。
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 ミュージシャンの初孫誕生をみんなでいっしょにお祝いするなんて、やっぱり沖縄ならではでないだろうか。素晴らしいことだ。
 ライブはフォークから昭和歌謡までお馴染みの曲を演奏した。この日はF&Yとしては珍しく、孫のすこやかな成長を願う民謡「童神」も、歌った。いつもは「Mrジョークマン」のレパートリー。初孫誕生だけに実感のこもった歌だった。
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 ライブは、常連だけでなく、県外から初めてきたお客さんを交えて、大盛り上がりとなった。
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ふーみさんは、1カ月以内に長女さんも出産を控えて、一挙に2人の孫誕生となる予定だとか。「じーじー」となっても若々しい歌声は変わりないだろう。
 常連メンバーに囲まれて嬉しそうな「じーじー」である。
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按司には二通りの意味がある、その4

 古代部落マキョから、中世農村部落への変化――佐敷間切に見る
 稲村賢敷氏は、沖縄への鍛冶と鉄器の伝来は農耕業の発達を促し、社会の富が著しく増大するようになった。そして古代社会が、比較的急速に中世的農耕社会へと発達するようになると、新しい社会の支配者として、按司という勢力が現われたとのべている。
 その具体例の一つとして、尚思紹一党が根拠地とした佐敷間切(現南城市)の歴史的な変化を考察している。

 アツメクダと按司の支配
 <尚思紹一党の人々は伊是名島から移って、この豊穣なる佐敷平野に彼等の根拠地を定めるようになると、先ず最初に南方丘陵上にある古代部落マキョに居住する人びとを麓の平野に移して農耕民として定住させ、平地の開拓に当らしめて富国の方策を講ずることから始めたのではなかろうか。…
 尚思紹一党の人々に就いては、前項手登根の大比屋に就いて述べたように、日琉支(日本・琉球・中国)の間に交通、貿易して物資の交流に携わっていた人々であるから、古代部落マキョの居住者に農耕に必要なる器具を給与して、山麓にある広い平地の開拓に当らしめる。則ち原始社会から中世農耕社会への変化があったのではなかろうか。
 これは唯に与那嶺村のアツメクダ則ち古代部落の統合ばかりではない。佐敷地方に於いても、イズミクダの居住者は是を麓の平地に移して農耕民として生産業に従事せしめると共に、その古代部落の原位置は山上に在って要害の地であり、且つイズミクダという名称に依っても知られるように、水利にも恵まれた所であるために、此処に佐敷城を築いて彼等の根拠地としたものであろう。…
 注1・沖縄一千年史には手登根の大比屋は佐銘川大主の子にして、支那(中国)交通の功労者として歌われし人なり。
 注2・アツメクダとは、数個の古代部落クダを一つに纏めたという意味をもつもの。>
               佐敷グスク跡
佐敷グスク跡
 佐銘川大主は伊平屋島を逃れて佐敷に来て、大城按司の娘と結婚した。その息子が、尚思紹である。手登根の大比屋も佐銘川大主の子となれば、尚思紹とは兄弟となる。
 手登根の大比屋は、尚巴志にとっては叔父にあたる。日本・琉球・中国の間で交貿に携わっていたとすれば、尚巴志がヤマトから鉄器を買い領民に与え たという伝承の背景も、この手登根の大比屋が関わっていたのだろうか。


 <こうした佐敷地方に於ける、古代部落マキョから、中世農村部落への発達は、尚思紹一党の人々がこの地に彼等の根拠地を定めたことと密接な関係があるものと思われる。こうして尚思紹は此の地方で苗代大比屋(なえしろうぷひや)として尊敬された。大比屋は由来記に大ヒヤとも記されていて、古代部落の後期頃、マキョを代表した人物の称号として多く記されている名称である。…
 尚思紹の子尚巴志は始めて佐敷按司と称した人であって、是の頃から東部島尻に於ける尚巴志一党の勢力が強大になったように思われる。
 尚思紹から、その子尚巴志に至る頃(14世紀後半から15世紀の初め迄)、日本では足利義満が金閣を造営して栄華を極めた頃で、茶の湯の流行にともなって青磁類が珍重された。義満は又琉球に対する関心も深く、兵庫には琉球奉行を置いて琉球貿易を管理させた。こうした当時の日琉間に於ける貿易と、琉球の各地の遺跡から出土する多量の青磁磁片とを関係づけて考えるならば、当時日流支間に於いて物資の交流が盛んに行なわれていた事を知ることが出来よう。

 これはまた、沖縄側としては、鉄製器具の輸入であって、農耕のために必要なる鉄製の農機具が汎く普及するようになって、これまでマキョと称する血族部落内で、狩猟、漁猟を主として生活していた人々は、かなり急速に原始社会から農耕社会へと発達を遂げるようになり又一面に於いては武器の輸入又は製作もあって、これ迄各地に割拠していた弱小勢力は次第に強大なる勢力に合併されて、尚巴志の三山統一が割合に早く完成したのである。
 こうした佐敷半島内に於いて起った、古代社会から中世農耕社会への変化は、大小遅速の相違は地方に依っていろいろあったものと思われるが、沖縄本島内の他の地方に於いても起ったものと思われる(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>

  これらを見ると、尚巴志が佐敷で勢力を伸長した背景に、中国や大和との交易、鉄製農具や武器の輸入や製作、農耕社会の急速な発展などがあったことがうかがえる。

追記
 鍛冶の伝来と按司
 これまで紹介したことと重なる部分もあるが、稲村賢敷氏は、沖縄への鍛冶の伝来と按司の出現の関係についてのべている。その部分をついでに紹介しておく。 
 <鍛冶の渡来は農耕業の発達となり社会の富が著しく増大するようになった。こうして沖縄に於ける原始社会が、比較的急速に中世的農耕社会として発達するようになると、この新しい社会の支配者として、按司という勢力が現われて、古代部落のマキョの中にも次第に浸透していったようである。…
 古代部落マキョの生活は、その名称マキョにも示されているように血統を同じくする人々に依って出来た血族部落の生活である。マキョ又はマキウは、真人(マキウ)であって「まひと」とも称し、同一血統の出身者であるという意味である。従って其の組織又は支配する力となったものは血統であって、一族の始祖又はその継承者がこの同族部落の中心となって是を指導し、支配した。是を一般に根神(ネガミ)と称している。そしてこの血統部落は前に調べた通り、多くは山上にある狭隘なる地に設けられ、居住者は狩猟、漁猟が主な生業であったから、後世見られるような物質力を背景とする按司が現われる社会までには至らなかったのである(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>
 終わり
 

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アルテで「鳩間節」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが11日夜開かれた。今月のテーマは「昭」。昭和の年号以外にはほとんど使われない言葉なので、みなさん「昭和歌謡」、「昭和生まれ」などにかかわる選曲で演奏された。
 秀子さんは、夫さんのギター伴奏で「さくら横ちょう」を歌った。聞いたことがない曲だった。
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 比嘉さんは、大好きな岡林信康の「愛する人へ」をギター弾き語りで歌った。
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 徳門さんはピアノソロで「童神」を弾いた。挑戦する姿に感心する。
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 和田さんは、オリジナル曲をギターソロで演奏した。今回はご家族で参加された。
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 越智さんはトランペットで、「雨に咲く花」「慕情」の2曲を演奏した。ツレがピアノで伴奏した。「慕情」のトランペットの音色が美しい。
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 私は、「鳩間節」を歌った。これは昭和の歌謡界でたくさんヒット曲を作曲した渡久地政信さん(恩納村出身)の作品「お富さん」は「鳩間節」がベースにあると言われているから。
 古賀正男は朝鮮民謡がベースにあり、渡久地さんは沖縄・奄美民謡がベースにあると言われている。
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 「鳩間節」の元歌はゆっくりと歌う。舞踊曲として演奏されるのはテンポが速い。この速いテンポが「お富さん」とそっくりだ。ただ私が歌ったのは、ゆっくりした元歌である。なんとか歌い終えた。

 アルテギターサークルは「アンニローリ」など演奏。ベテラン揃いの熟練した演奏だった。
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 ミーシャさんはギター独奏で、滝廉太郎の「花」を演奏し、魅了した。
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 ツレはピアノソロで「渚のアデリーヌ」を演奏した。久しぶりの「渚」だったが、美しいピアノだったのではないか。
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 3人ユニット「きよ・たかフューチャリング上っち」は「ture love」を演奏した。急編成でぶっつけ本番のユニットだ。次回も是非と思ったが、今回限りでおしまいだという。残念!
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 シニア世代のピアノ音楽会に出ている川西さん夫婦が初めて参加。奥さんのピアノ演奏に次いで、夫さんが歌三線で「肝がなさ節」を歌った。とても伸びやかな声だ。
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 新田さんは、ギター弾き語りで、得意の桑田佳祐の曲を歌った。
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 今夜限りのちかちゃんバンドは、ピアノ、ドラム、ギターの腕達者揃いのファクトリーでは前例がないほどの豪華バンド。ちかさんは「人生の扉」を気持ちよさそうに歌った。
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 清美さんは、ひばりの名曲「津軽のふるさと」を宇都宮さんのピアノ伴奏で歌った。いつもの清美さんとは一味違う歌唱を見せてくれた。
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 最後は、糸数さんのギター弾き語りと秀子さんの朗読で卒業ソング「丘の上の白い校舎」を歌った。なぜか沖縄でとても流行ったという。糸数さんは、病気をされたそうで、珍しくマイクを通しての歌声だった。
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 寒い夜でエントリーが少ないかも、と心配したが、初めての参加者や初めてのユニット、バンドもあり、盛りだくさんの演奏会となった。しかも、午後7時開会で10時前に終わるという画期的なファクトリー。その分、おまけの演奏も楽しめた。
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按司には二通りの意味がある、その3

  按司の名称の由来
 稲村賢敷氏は、さらに按司の名称のもともとの由来についても考察している。
<沖縄諸島住民の始祖が、悠久の昔、この島々に来て居住した時、同一血族の人々だけで部落を作って生活した、というよりも寧ろ一人の母性から生まれ、そして育てられた人々が、マキョ又はコダと称する同族部落を作って生活した、是等の部落の中では「イチフク(一腹)マク」と称する部落の名称も、今まで残っている所もある。是うした部落では始祖又は其の継承者は絶対的権力者であって生んで下さった始祖は、生命の主(ヌシ又はアルズ)という意味で、マキョの居住者は是の絶対者に対して「アルズ」則ち所有者又は主人という意味の名称で呼んだものと思われる。基督教徒が教祖キリストに対して「吾が主」と称するのと、略近い意味を持った言葉であって、「アルズ」は後に詰まって「アズ」と称するようになったが、是が氏族の始祖に対する按司(アズ)神という称号の始めの意味でもあると私は考えている。>

 稲村氏は、もともと按司(アズ)という言葉の意味は「アルズ」であって、同族部落マキョの始祖に対する名称として起こったものだと見る。
  しかし、その後の社会の発達の中で按司の意味、支配者の名称も変容するようになる。
 <後に13世紀の中頃、牧港附近に伊祖の「てだ」と称する勢力が起こった。この地方は早くから海外との交通が開けていて、金属器具も他の地方より早く伝来し、従って農耕社会の発達も早かった。この伊祖のてだの勢力も始めは同族部落の支配者として起こったものであろうと思うが、他の地方よりも早く農耕社会が発達したために、その勢力は強大となり、遂に近隣の諸部落をも兼併して大きくなった事と思われる。オモロ歌謡の中に、それを思せるものが2、3ある。
             伊祖城跡、うらそえナビから
                  伊祖城跡(「うらそえナビ」HPから)
 オモロ15巻ノ15
一、ゐそゐその、いしぐすく あまみきょの、たくだる、ぐすく、
又、ゐそゐその、かなぐすく、
 大意 伊祖の城は、アマミキョが造った勝れた城であるよ、という讃辞である。
 註 伊祖の城は牧港の南にある丘上にある城で、その南麓には浦添村伊祖の部落がある。城壁や後方にある物見台の築造に当っては、金属器具が使用された事は明らかで、伊祖のかなぐすくという名称も生じたものであろう。

 オモロ15巻ノ16
一、ゐそゐその、いしぐすく、 いよやに、おそて、ちょわれ
又、ゐそゐその、かなぐすく
 大意 伊祖の御城よ、弥々広く、長く支配して下さるようにとの意

 この「いよやに、おそて、ちょわれ」という言葉の意味は、血族部落の「主(アルズ)」が、その血族門中の者を率いる意味とは少し違うように思われる。この襲(おそ)いが次第に広く強くなって、浦襲(うらおそ)いとなり、百浦襲(ものうらおそ)いとなる。この「おそてちょわれ」という言葉には、血族部落の線を越えて、同一血族ではない近隣の多くの部落までも支配するようになった勢力が歌われているように思われる。

 然し是の伊祖の勢力に対しては「ゐそのてだ」と称していて、按司とは称しなかったのである。是は当時各地に血族の者だけの部落マキョが多く、その支配者は「アズ」と称していた為に、数個の血族部落を兼併して、広い地方に亘って領有していた支配者に対しては、アズの上のアズであって、是を「てだ」と称したものと思われる。この「てだ」の称号は太陽(日神)を意味し、太陽のように、広汎なる地方を支配する勢力に対する名称であって、血族部落の線を越えて他の血族をも兼併する支配者の意で、王に先行する称号である。後暫くすると各地に是の伊祖のてだと同じく、血族部落を兼併して広い地方を支配する勢力が数ヵ所に現れるようになり、「てだ(日神)」という称号は適当でないので、血族部落の支配者に対する按司という名称が、この新興勢力に対して通用するようになり、今帰仁按司、大里按司、勝連按司等の称号が称せられるようになったものであろうか。
         島添大里按司の墓、計画書
        島添大里按司の墓(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 則ち按司(アズ)という言葉の意味は「アルズ」であって、同族部落マキョの始祖に対する名称として起こったものであるが、後に古代史の末頃になって、金属器具の使用が次第に普及するようになり、農耕社会が発達するようになって、武力に依る支配者が各地方に現れるようになると、この新興勢力の支配者に対しても按司(アズ)という名称が使用されるようになったと私は解釈しているのである。>

  稲村氏は、農耕社会が発達するなかで、いくつかの「血族部落を兼併して広い地方を支配する勢力が数ヵ所に現れる」ようになり、「血族部落の支配者に対する按司という名称が、この新興勢力に対して通用する」ようになったとのべている。
按司の語源については、歴史家の比嘉春潮氏も同様の見解だという。
<比嘉春潮氏の著書「沖縄の歴史」にも、按司の語源は「アルズ」であるという事が述べられている。私もこの説に同意する。
 そして是の名称の起源に就いては、古代血族部落マキョの始祖に対して、マキョの総ての物が所有者であるという意味で、アルズ、又はウプアルズと称した事が始めであり、詰まってアズ、又はアズ神と称するようになり、中世以後武力を以て城廓を築き、住民を支配するようになって権力者に対しても、絶対的支配者の意味で按司という名称が使用されたものであろうと思われる。>

  稲村氏は、著書の最後のところで、按司の語源と変容について、次のようにまとめてのべている。
 <沖縄のマキョと称する血族の集団社会、それは私が本書に於いて沖縄島の各地に亘って調査した結果について述べたように狩猟、漁猟の自然の恩恵に依って生活していた社会であって、血族の宗家を中心として血族部落をつくり、其の宗家の継承者は根神(ネガミ)と称してマキョの始祖の母権を継承して絶対的の権威を以てマキョを指導していた。この根神のことを「ウプアルズ」又詰まって「アズ(按司)」と称したのであるが、マキョの後期になって新興勢力として、血族関係とは別の生産器具又は武力を有する勢力が興ってマキョを兼併して次第に強大なる勢力をつくるようになって、血族部落の根神に対する称号であったアズ(按司)という名称も、次第にこの新興勢力の首領に対する名称として使用されるようになり、原義の意味は次第に忘れられて、この第二次的の名称として固定して、アヂ(按司)といえば領主の事であるとして名称の意味が固定したように考えられる(『沖縄の古代部落マキョの研究』)。>

 稲村氏の見解について、他の歴史家の評価がどうなのかは知らないが、この見解によって、琉球の歴史の上での按司の由来と意味、その役割、領主ではない場合にもその名称使われることの説明としてとても説得力があると思う。

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按司には二通りの意味がある、その2。始祖

 始祖を意味する名称にも使われた「按司」
 稲村賢敷氏は、さらに以下のように議論を展開している。
 <然し斯かる按司とは全然その意味を異にしたもので、この上津覇の嶽の碑に記されているように、上津覇按司、又は大湾按司という場合の按司という名称は領主とか城主とかいう意味は全然なく、上津覇門中(大氏族)、大湾門中(小氏族)の始祖に対する名称として使用されている場合があるのである。>

 <私は国頭村字比地のウンジャミ祭を調査した時字比地の各氏族が、それぞれ別個に拝所をもちそして其の氏族の拝所の祭祀は、各氏族の人々だけで執行しているのを見て、この拝所の神は何と申し上げるかという事を尋ねたことがある。是の人々はそれぞれ拝所でアズ神(按司神)と称して祭祀を行なっているんだという答えであった。この場合のアズ神は一族門中の始祖に対する名称であって、かの上津覇ノ嶽に祭られている、上津覇按司、大湾按司という名称と全く同じ意味であって、一族の始祖に対する名称である。彼の中世以後になって新しく起こった武力を有し城を有し又は世襲的官僚化した意味の按司(アズ)とは全然別個の意味に使用されている事は明らかである。…
             沢岻按司墓
               浦添市沢岻にある沢岻按司墓
 同一氏族の始祖に対して、上津覇門中の人々は按司神(アズガム)と称しており、又国頭村字比地でも彼等の始祖に対して按司(アズ)神と称して居り、宮古池間島でも按司神という名称に敬称に当たる「大(ウプ)」を冠して大按司神(ウパアルズ)が詰まって「ウパルズ神」という名称を以って称しているのである。…
 則ち按司という名称の意味として、一氏族の始祖に対する名称として、池間島の「ウパルズ」、狩俣部落の「てだの大按司(ぷーず)」、沖縄島に於いては中城間切、津覇村では上津覇按司大湾按司等の名称があり、国頭間切比地村では按司神と称している。これ等の用例から見て、氏族の始祖に対して、「アズ」又は「ウプアズ」という称号が用いられた事が考えられる。(『沖縄の古代部落マキョの研究』)>
 
 このように稲村氏は、「一氏族の始祖に対する名称として」も按司、按司神と称したことが「按司」の起原であることを明らかにしている。私が前に見た拝所の按司の名もこのような意味で使われていたのだろう。

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按司には二通りの意味がある、その1

 「按司」には二通りの意味がある

 初めて沖縄の歴史を学ぶ人にとって、最初当惑する言葉に「按司」がある。日本史ではあまり聞かない概念だからだ。稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』を読んでいると、「按司(アジ)」という言葉には二通りの意味があると述べている。一般には地方を支配する豪族、領主の意味で使われている。
 しかし、以前に那覇市内の地域回りをしていて、拝所に「按司」の名札を見かけて、「こんな場所に按司の名があるのはなぜだろうか。これは領主的なものではなさそうだが?」と思ったことがある。稲村氏の著書を読んで、「なるほど二通りの意味があったのなら、納得できる」と感じた。それで、稲村氏の按司についての論考を紹介する。

 その前に、「ウィキペディア」は按司について次のように説明している。
 <歴史的には、按司は農耕社会が成立したグスク時代の12世紀頃から琉球諸島各地に現れた、グスク(城)を拠点とする地方豪族の首長やその家族など、貴人の称号として使われた。元来、琉球には、王号や王子号がなく、その代わりに按司の称号が用いられていたのである。按司は、他に「世の主」、「世主(せいしゅ)」などとも呼ばれていた。>
按司のそもそもの語源についてはふれていない。

 按司の二通りの意味とは
 次に稲村氏の著書から紹介する。
 <按司(アズ又はアンズと訓ず)という言葉の意味は二通りあるように思われる。
 一般には国頭按司、今帰仁按司、勝連按司、大里按司として使用されているように、一地方の領主に対する称号として用いられていて、中世以後各地に勢力家が輩出して、領地を有し、城郭を築き、家臣を養い、武力を以ってその勢力を守るようになった人々に対して按司(アズ又はアンズ)という称が用いられたようである。そして是等の按司は16世紀の始め頃、尚真王の時に、地方にある彼等の領地又は城郭を引き揚げて、首里に居住することになった。そして其の旧領地には按司掟(アジウッチ)と称する領主の代官に相当する役人が居住して、中央の命令に依って政治を行なうようになった。これを一般に尚真王の中央集権と称しているが、この首里に引き揚げてからの地も彼等はやはり前と同じように按司(あず)と称せられた。

 即ち廃藩置県当時まで存続していた30余ヶ所の按司家は是であって、勿論城もなく家臣もなく武力は全然ない官僚化した世襲的の称号であって、唯封禄を受ける権利と、元の領地に対して若干の世襲的権力を有したに過ぎない。即ち置県前まで称していた今帰仁按司、宜野湾按司、義村按司等というのは、こうした人々であって、中世期に於ける武力を有する按司とは、その実力に於いて大きな相違があったが、やはり世襲的名称として按司と称したのである。是等は按司という名称の一つの意味として解釈していいように思われる。
 こうした中世期以後、武力を有し家臣を有し城を有し領地を有する按司と称する人々、又その後継者に当る人々で、城もなく家臣もなく武力は全く失って一の官僚的存在になったが、世襲的に若干の権力を与えられていた人々に対しても是を按司と称した。
                      長嶺按司碑
                        長嶺按司之碑(豊見城市)

 按司が領主とは異なる意味でも使われた
 続いて稲村賢敷氏は、自分の調査結果に基づいて、「按司」が領主とか城主の意味とは異なる名称としても使われていることを明らかにする。
 中城村津覇に「上津覇ノ嶽」があり、そこの小祠の碑には「上津波按司御嶽」と記されている。「上津覇門中の人々が、彼等の始祖則ち津覇コダの部落を創始した元祖に対する名称として、特に注意すべきである」という。この碑には「大湾按司次男呉屋(以下不明)」とも記されており、「是は上津覇門中から分れた小氏族の開祖(則ち分家始祖)大湾按司の次男呉屋云々という意味であろう」という。
 <この碑に記された、上津覇按司、大湾按司という名称は、後世一般に称せられる領主又は城主に対する名称として使用する「按司」とは異なり、一族の始祖に対する名称として使用されたものである。この始祖に対する名称として「アズ」と称したのが按司(あじ)という名称の起原である>

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按司と鍛冶遺跡、その5

 沖縄の鍛冶は日本から伝来
 稲村賢敷氏は、琉球の古謡集「おもろさうし」や先島に伝わる古謡を見ると、沖縄の鍛冶は日本から伝来したものであることを物語っているとのべている。

 「鍛冶の伝来と鍛冶のオモロ」
 <鍛冶が日本から伝ったものである事は、充分に考えられる事である。これに就いては鍛冶のことを謡ったオモロがあるから、先ずこれに就いて調べることにしたい。

 久志村字久志のオモロ(略)
 <この中に謡われている鍛冶道具の名称に就いて調べて見たいと思うので紹介した訳である。次に鍛冶の道具の名称に就いて、日本語、国頭地方々言(前述のオモロに依る)宮古地方の方言(多良間島に伝わる鍛冶神の民謡)を対照して見ることにしたい。(写真)
 この鍛冶に使用する諸器具の名称が、日本、国頭、宮古を通じて、総て日本語の名称を使用しているという事は、鍛冶が日本から伝わったことを証する重要なる史料であると考えていいように思う。
               鍛冶道具の名称、稲村賢敷著

               

 多良間島に伝わる鍛冶神のニーリ(略)
 <この「ニーリ」には鍛冶の伝来に就いてはっきりと日本から伝来したことが歌われている事は注目すべきである。則ち鍛冶神は始めて日本島に生まれて、多くの鍛冶道具を造り、是に依って日本島を育て且つ教え、更にもっと弘く育てたいために、船を浮かべて、鍛冶道具を荷積みし、沖縄島に御出になり、沖縄の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて宮古島に御出になり、宮古島の北から南に弘め、更に弘く育てたいために、船を浮かべて多良間島に渡られたということを述べている。>
鍛冶神はさらに八重山にも渡り、最後は与那国島に渡ったとされる。これでけはっきりと鍛冶の伝来のルーツと経過を伝えた古謡があることはとても興味深い。

 <宮古で鍛冶を伝来した諸神は、
(1)友利村嶺間御嶽神名あまりほう泊主(倭神であると記されている)
(2)平良市船立御嶽神名金殿、しらくにやすつかさ、(久米島から渡来した)
(3)伊良部村長山御嶽神名倭神金殿神、
(4)伊良部村比屋地御嶽神名あからともがに(久米島から渡来した)
(5)多良間村運城御嶽神名うえぐすく金殿(やまと神、ニーリに謡われている神)
等の五箇所である。
 是等諸神はいずれも、神名を金殿と称し、「日本(やまと)又は北方(久米島)から渡来し」、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え農業神として、御嶽を建てて御祭りしたと伝えられている。島立の神則ち祖先神とは別個であって、宮古島の開基と鍛冶の伝来とは別個で、時代の差違あることを物語っている。>
 以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。
 終わり

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暖冬異変?花のチャンプルー

 久しぶりに近くの漫湖公園に散歩に行った。カンヒザクラが見ごろだと思ったから。
 公園に着くと、もう満開の木もある。でもあまり咲いていない木もあるので、全体では6分咲きぐらいだろうか。
 それにしても今年は開花が遅い。例年だと2月上旬が満開の時期。だから桜まつりは2月11,12日に終わったが、その時はほとんど桜はなかったはず。
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 今年は暖冬だからだろう。沖縄のカンヒザクラは、寒いところから咲きだし、桜前線は南下する。この分では3月に満開になりそうだ。
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 満開の木には、メジロが止まって蜜を吸っている。花からは花へ、木から木へ飛び移りながらくちばしを入れている。このメジロたちは、桜の季節の時以外はほとんど見かけない。どこにいるのだろうか。
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 あまりにも桜開花が遅いので、奇妙な現象が起きている。他の花は、暖かいと開花が早くなるのが通常である。いつも3月くらいに咲く、火炎木が真っ赤な花を咲かせていた。花びらがとても大きい。カンヒザクラと同じ時咲いているのは初めて見た。
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 コスモスも当たり前のように咲いている。こちらは沖縄では1月でも咲くのは普通。毎年、カンヒザクラとコスモス、ヒマワリが同時期に咲く。
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 今年はなんとツツジも咲いていた。3月に入れば、山原でツツジ祭りが始まる。2月に咲くのは少し早いのではないか。
 本来、ツツジや火炎木はカンヒザクラよりは1カ月以上遅れて咲く花である。それが、一方は暖かくて遅く咲き、一方は暖かくて早く咲く。なんとも奇妙な花風景である。これも、暖かいことが、花にとって咲くのが遅くもなれば、早くもなるという花の特性のなせるわざである。
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 もう一つ、名前を知らない花も可憐な花を咲かせていた。
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 トックリキワタも暖冬の影響を受けている。ピンクの花は秋から年末にかけて咲くが、花の終わった後、3月後半から4月にかけて野球ボールくらいの大きさの実をつける。それがもう2月初めから実がなっているのだ。
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 この実が割れると中から真っ白い綿が出てくる。奇妙な花木である。カンヒザクラとトックリキワタの実が同じ時に見られるというのは、沖縄に来て初めてである。。
 暖冬は過ごしやすいが、もともと沖縄の冬は本州でいえば晩秋くらいの気候である。冬は冬らしく寒さがある方がいいのかもしれない。ただ、プロ野球のキャンプにとっては、今年は雨はほとんど降らなくて、選手たちにとってはとってもよいキャンプ日和が続いたと思う。
 漫湖公園の川べりのウォーキングコースを歩いていると、水際のマングローブがまた大量に伐採されていた。あまりマングローブが増えると、土砂がたまるとか、ゴミが堆積するなどの理由で無慈悲に伐られる。
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 心配なことは、ウォーキングコースに沿ってカンヒザクラが植えられて、花を咲かせているが、マングローブが茂っていれば、吹き寄せる潮風の防風林の役割を果していた。でも木がなくなると、潮風にモロニさらされることだ。台風の時期には、暴風が直撃する。いまでも、せっかく植えられたカンヒザクラの木が育たずに枯れる木がある。大丈夫なのか、それが気になった。
 水際を見ていると、ダイサギが浅瀬でエサをついばんでいた。漫湖は潮がひくと野鳥がよく集まる。ラムサール条約に登録されている大事な河口近くの湖である。
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