レキオ島唄アッチャー

「底」の字がつく民謡の不思議、その7。「赤また―節」

 「赤またー節」
 八重山民謡に「赤またー節」がある。西表島古見、小浜島、新城島、石垣島宮良の豊年祭には、アカマター(赤面)・クルマター(黒面)の遠来神が現れる。この祭祀のことを歌ったのがこの曲である。ただし、この曲には「底」の文言が直接出てくるわけではない。でも、この祭祀そのものは「底」とかかわりがあるので書いておく。
 「赤また―節」は、遠来神を迎える村びとと役人の関わりを歌ったものといわれている。
 歌詞の初めの部分だけ、喜舎場永珣著『八重山民謡誌』から訳文で紹介する(少し簡略にした)。
♪小浜島の慣習は 豊年祭アカマタの行事には よく遊びよく踊る習わしだから お許し下さい 島のお役人様
♪昔からの習俗で 古い時代からの風習であるから 祭祀行事前はよく働いて アカマタの踊りの時は 見事な踊りをして遊ぼう(以下省略)
 
 この曲は、アカマター・クロマターが訪れる島の豊年祭には、遊び楽しむのが昔からの古い習慣だから、どうぞ許してくださいと役人に懇願している。さらに許しが出たら、今年の豊年、来年の豊年を祈願して踊り遊ぶこと、これからも「心が変わらないで下さい」と懇願する内容である。アカマタ神は豊年の神であるから、人頭税を完納するためにも、島民にとっては、絶対に欠かせない神事だった。
 かつて王府が「豊年祭と時にアカマタ・クロマタといって二人が異様ないでたちで神のまねなどをする。良くない風俗なので今後は止めること」と禁止したことがあった。しかし、かえって村人の張り合いをなくし、不安の種になるなど逆効果となったため、禁止令は解除された歴史がある。詳しくはこのブログの「変容する琉球民謡、あかまたー節」を見ていただきたい。

      
 <この「アカマター神」の名称もまた小浜島では「ニロー神」と呼ぶが、石垣地方では「ニール神(ピトウ)」とよぶ。勿論全身草や蔓などで仮装して来訪する神である。すなわち賓客(神)である。宮良村では「ニール神」または「ニーロ―神」と尊称し、以前は今日のように「アカマター」などとは俗称しなかった。この「ニールピトゥ」は「根の国」「底の国」の人の意で、沖縄本島地方における「ニライカナイ」の神を意味していよう。>
 
 <川平部落では旧暦「2月タカビ」の日に、「ニランタ大親」をスクジ御嶽で迎える儀式がある。この儀式はこの1年間風干の災害がなく、五穀豊穣であることを祈願する儀式であるが、その際の祝詞の一節に、
「授けられるなら、天の大世をどうぞお恵み下さい。二ラン底・タラースクの世をばお願いします。…」
という文句がある。この祝詞中の「天の大世」も「二ラン底世」も豊年太平の世を意味する文句である。>
 
 喜舎場永珣著『八重山民俗誌上』の「赤マタ―神事に関する覚書」では、このように解説している。「アカマター神」は、本来は「ニロー神」「ニーロ―神」「ニール神(ピトウ)」などと呼ばれる。「ニールピトゥ」は「根の国」「底の国」の人の意で、「ニライカナイ」の神を意味しているという。
 石垣島川平の旧暦「2月タカビ」の儀式の祈願で唱えられる祝詞中の「天の大世」も「二ラン底世」も豊年太平の世を意味する文句であるという。
 
 アカマタ・クロマタは、なびんどうと呼ばれる場所を出て、家々をまわる。新城島では、親組の他に子組が出て、それぞれ別々にまわり、終わりには落ち合って、森のなびんどうに帰るという。
 <なびんどうは鍋の底のところの意。ニイレスクとも呼ばれる。一番底の国と考えられている。すなわちアカマタ・クロマタはニイレスクから来る人。福の神として拝まれている。福の神の入った家は、来年は豊作という(本田安次著『沖縄の祭と芸能』)>。
やはり、アカマタ・クロマタが来るニイレスクは一番底の国と考えられており、豊年をもたらすニライカナイの神に通じている。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その6。長山底ぬあやぐ

 宮古島の「長山底ぬあやぐ」
 
 宮古島にも底つく民謡がある。「長山底ぬあやぐ」という。
 歌詞と歌意を紹介する(仲宗根幸市『島うた紀行』<第二集>)
 ♪長山底(ながやまずく)んなイラヨーマーン
 ま茅の花まい ずぴなぬ花まい 総木綿花(さらむむいんぱな)
 じうしちや大親夫人(うぷややんま)  吾(ばん)たが島参い(すまんみゃい)
 木綿花摘(む)ら
 (長山底(伊良部の地名)の真芽の花も、ずぴな(不詳)の花も、すべて木綿花にみえる。さあ、私たちの島に行って木綿花を摘みましょう)
 注・「砂川国夫の宮古民謡解説集」HPでは「ずぴな」を「新芽」と訳している)
       
       砂川国夫氏の歌う「長山底」

 ♪長山底行きイラヨーマーン
 備後編笠(びぐあむがさ)や 被(かぶ)い居(お)とり
 木綿花摘ら 
 じうしちや大親夫人 長山底参い(んみゃい)
 木綿花摘ら
 (長山底に行き、ビクの編笠をかぶって、木綿花を摘みましょう 。さあ、奥様、長山底へ行って木綿花を摘みましょう )
 
 <伊良部島から大親(平良、下地、砂川三間切の頭職)屋敷に勤めている下男が、自分のふるさとの長山底はいま木綿花が真盛りで見に行きましょう、と大親の夫人を誘っている歌(仲宗根幸市『島うた紀行』<第二集>)>
 長山底はあくまで地名である。

 ちなみに、伊良部島には大和からの鉄の伝来を伝える長山御嶽がある。
 <男神かね殿と唱え祭る、この人鉄を持渡ったために金殿と唱えたとの事である。
 昔当島には鉄がなく耕作のことも牛馬の骨を細工してやっていましたが、大和人が渡来して鉄を持渡り、長山という所に住居して農具を持ち出し村人たちにも分け与えたので耕作は思うように行き五穀も満作して人民も豊かに生活するようになったので、作物の初を供えて大和人の跡を祭るようになり御嶽ができたと言い伝えている。(城間武松著『鉄と琉球』、元資料『擁正旧記』から>



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「底」の字がつく民謡の不思議、その5。つぃんだら節

 「つぃんだら節」
 黒島からの強制移住をテーマとした哀歌「つぃんだら節」には、移住先の石垣島野底の地名が出てくる。「底」の文字の用例としては通常かも知れないが、地名に使われた「底」について、深い意味があるらしい。外間守善氏は<沖縄古語でも、「スク(底・城)」の意味は「遥かに遠い所」>だとのべている。後から詳しく見たい。

 <石垣市字野底。野底村の創建は享保17 (1732 ) 年で、黒島からの寄人による(『八重山島年来記』56 ・57 頁)。黒島と野底の関係は、この寄人による村の創建以前から、黒島の人々が舟を操って野底に出耕するという形で存していた。(波照間永吉著「八重山歌謡にみる地名」)>
 「つぃんだら節」は次のように歌われる。
 ♪とぅばらまとぅ我(パ)んとぅや ヤゥスーリ 童(ヤラビ)からぬ遊びとーら 
 ※ツィンダラ ツィンダラヤゥ
 かなしゃまとぅくりとぅや くゆさからぬむつぃりとーら 以下ハヤシ省略
 ♪島(スィマ)とぅとぅみで思だら ふんとぅとぅみで思だら 
 沖縄(ウクィナー)から仰(ウィ)すぃぬ 美御前(ミョーマイ)からぬ 
 御指図(ウサスィ)ぬ
 ♪島分(スィマバ)がりでうふぁられ ふん分がりでうふぁられ
 うばたんがどぅけなり 野底(ヌスク)に分ぎられ
           
    高嶺ミツさんが歌う「つぃんだら節」は何時聞いても感動する
        
 歌詞の意訳は次の通り。
 ♪貴方と私は子どものころから遊び仲間 貴方と私は幼少からの睦まじい仲だった ※かわいそう、かわいそう
 ♪島のある限り 村のある限りと思っていたのに 沖縄(首里王府)からのご意思 
 国王からの命令だった
 ♪島分けで分けられ 村分けで引き離され 私が海を渡り 野底に連れてこられた
  注・「つぃんだら」をここでは「かわいそう」と訳しているが、私が習った八重山民謡の先生は「孫のことを、“つぃんだら”というから、可愛いという意味がある」とのべていた。ただ、この曲の場合は「かわいそう」が適訳だと思う。

 黒島に住む男・カナムイと乙女・マーペーは恋仲だった。しかし、村の道を境にして、移住する者と残留する者が決められた。マーペーは移住させられ、カナムイは島に残された。マーペーが移されたのが石垣島の北部の野底である。
 マーペーは、故郷の黒島にいる彼を見たいと思って、険しい野底岳に命がけで登った。でも、野底岳の南西には、沖縄で最高峰526㍍の於茂登岳(オモトダケ)がそびえ立ち見えない。それでも、毎日毎日人目を忍んで山に登り、神に祈った。祈りながらマーペーは次第に石と化していった。いまも山にはその岩があるという。
 <この黒島からの寄人によって創建された野底村は1934 年、ただ一人だけで村を守っていた老女(野底マーペーアーパの名で呼ばれていたという) とともに廃村となった(『八重山歴史』245 頁、波照間永吉著「八重山歌謡にみる地名」から)>
 マーペ―の悲話があるからだろうか、野底の地名の響きにも何故かもの悲しさを感じるのは私だけだろうか。


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「底」の字がつく民謡の不思議、その4。山原ユンタ

 「山原ユンタ」
 八重山民謡の「山原(ヤマバレー)ユンタ」にも「底の家」の言葉が登場する。
  山原(やまばれー)は、石垣市川平の北東にあった古い集落だという。この曲は、次のような歌詞である。()は歌意。
1、山原の 底の屋の ヌぢずゲーマー 
 囃子 ヒヤサッサー ヤーラドーハーイ ヨーハイナー(以下省略)
 (山原村の 底の屋と云ふ家に ヌぢ ゲーマが{女名})
2、ヌヂぬゲーマの とンギャーマの 生レー居ン 
 (ヌぢゲーマと云ふ乙女が、飛び切りの娘が居りました)
5、アン丈ナーの 十月三日の 月の夜
 (あんなに照り輝いた 13夜のお月様であるから)
7、山原も 底の家も 降レー遊サバ
 (山原村にも 底の家にも、降りて行って遊ばう)
 歌詞は『宮良當壯全集11』から引用した。歌詞は21番まであるが以下は省略する。
 
  この曲の歌詞は次の筋立になっているそうだ。
 <山原村の底の家にたいへん器量のすぐれた「ヌズギャーマ」と称する娘がいた。若者が15日の明月に小躍りして「底の家」(集会所)に行くというのを、年寄りは今夜は神日撰りだからやめなさいと諭した。若者はそれに耳をかさず、自分のしぶ張りの三味線を持参して山道を通っていきヌズギャーマと出会い白い砂浜で青春を謳歌した。(「ユンタ・ジラバ・アヨー探訪」HP)>
 ここでは、7番の歌詞にある「底の家」を「集会所」と解説している。
 當山善堂氏は、「シュクノヤー(宿ぬ家=集会所)」としている。
          
 少し引っかかるのは、「底の家」が女性の生れた家であると同時に遊びに行く家ともなっていることである。
當山氏は、「宿ぬ家」について、次のように解釈している。
 <シュクヌヤー=「宿の家」で、「宿泊ないし休憩する場所」の意。「公けの宿泊専用の家」というよりは、大きな民家の一角が必要な時に「宿泊・集会用」に一時的に開放されたものであろう。歌詞集によって「シク・スク・シュク」などの表記に「底・宿」の字を当てるが、ここでは「シュク=宿」を採用した。(編著『精選八重山古典民謡集(4)』)>
 民家の一角も宿泊・集会用に使われたということであれば、一見矛盾するように見えた歌詞の内容も理解ができる。
 
 一方、「底の家」は屋号だという解釈もある。宮良當壯氏は次のように解説している。
 <「底」と称する屋号は、平民村には可なりある。その宗家が大底屋(ウフスクヤー)で、分家には小底屋(クースクヤー)、東底屋(アーるスクヤー)、西底屋(イーるスクヤー)、後底屋(シースクヤー)、前底屋(マイしクヤー)、…などがある。底は低地を意味することは勿論であるが、時に城(グスク)の借字であることがある。グスクは石垣で、初めて石垣を築き繞(注・めぐ)らした家の屋号にすることがある。(『宮良當壯全集11』)>
 そういえば、苗字でも大底、仲底、成底など底のつく名がいくつかある。


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アルテで「県道節」を歌う

 毎月恒例のアルテミュージックファクトリーが10日夜開かれた。今月のテーマは「金」。開演当初は参加が少なかったが、だんだん増えていった。県立芸大生の飛び入りもあり、結局20組ほどが演奏した。今月も自分にかかわるものだけ書いておきたい。

                 
2018 3月 ファクトリー写真⓸
  私は、民謡の「県道節」を歌った。
 「琉球藩が廃藩置県で明治12年沖縄県となり県道工事がはじめられ人夫達が炎天下道路工事の肉体重労働に耐えながら仕事のきつさ資本家対労働者の階級差別などを歌にしたものである」(由絃会『民謡工工四(1)』から)。とても歌詞が面白いので紹介する。
 1、県道道作て 誰が為になゆが  世間御万人(ウマンチュ)の 為になゆさ
 (県道を作って誰のためになるの 世間一般の人のためになるよ)

 2、監督やでかし 立っちょて手間とゆい 我した人夫の達 牛馬のあちけ
 (監督は幸せ者だ 何もしないで立っているだけで給料を貰い 我ら労働者は牛や馬みたいに扱う)

 3、監督の位の 眼鏡(ガンチョ)までかけて 我した畑装(ハルスガ)い  ましやあらに
 (監督の身分で眼鏡までかけて、そりよりも我らの仕事着が良いのではないか)

 4、二才小(ニセグヮ)ハイカラや 分髪と金歯 姉小(アバグヮ)ハイカラや 晒し袴
 (青年たちのお目かしは分け髪と金歯、お姉さん達のお目かしは晒した袴を着ける事である)

 5、如何な監督ぬ 頑張(ハマリ)よいしちん 頑張なよ臣下 時間暮らし
 (どんなに監督が頑張れよ頑張れよと言っても、そんなに気張るな、終業の時間が来るまで、適当に浪費しなさい)

 6、立っちょて目ぐるぐるしいね  手間小引かりんど  手間小引かりね  胴のど損どや
 (立って居てキョロキョロしていると、給料から引かれるよ、引かれると自分が損するだけだよ)
 (由絃会『教本の解説上巻』から)
 
  県道を建設した当時の現場の雰囲気と情景が目に浮かぶようだ。眼鏡や分髪と金歯なども、当時としては庶民には普及していなくて、威張っていた監督を象徴する姿なのだろう。
 「金歯」という言葉が出てくるので、「金」のテーマに合っているし、テンポが軽快で歌詞も面白いので選曲した。動画はアップしないので、歌に興味のある方はYouTubeにあるので検索して見てください。


 ツレは、越智さんのトランペットとコラボして「銀色の道」を演奏した。ピアノ弾き語りで「空と海の輝きに向けて」(荒井由実の曲)を歌った。

        DSC_3008.jpg
 ピアノ独奏では,「ベネチアのゴンドラ」を弾いた。いろんな方から「いい演奏でした」という声をかけていただいたようだ。

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    写真は、演奏する「三代目りゅうたんboys&chica」

   エントリーが終わってからも、ギター弾き語りが続くなど、楽しい演奏会だった。
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「底」の字がつく民謡の不思議、その3。与那国ぬ猫小

 「与那国ぬ猫小」
 次は「与那国ぬ猫小」(ユナグニぬマヤグワ)である。
 ♪与那国ぬ猫小 鼠だましぬ ニ才だましぬ やから 崎浜よう 主の前はり
 (与那国の猫は 鼠をだますのが 上手な奴だ 若者をだますのが上手な奴だ
 崎浜 お役人様)
 こんな歌詞で始まる。問題は次の歌詞である。
       
 ♪底ぬ家ぬ 犬小(スクぬヤーぬ イングゥ) 中ぬ家ぬ 猫小とぅ(ナカぬヤーぬ マヤグワとぅ)きざん橋 行かゆてぃミャウいぃば ガゥてぃばし
 (底の家の 犬と 中の家の 猫が 石橋で出会って 猫がミャウといえば
 犬がガゥと言って)

  「底ぬ家」について、仲宗根幸市氏は「与那国目差の官舎」(『島うた紀行』<第二集>)とする。「目差」は村の助役のような役人のこと。當山善堂氏も「底ぬ家・中ぬ家」を「役人の官舎の呼名だという」と述べている(『精選八重山古典民謡集(三)』)。
 この曲は、表面的には猫と犬の話に見えるが、実際は「与那国役人とその賄い女(妾)たちの裏面を痛烈な皮肉をこめてすっぱ抜いた風刺調の歌。与那国目差の妾を犬、祖納目差の妾を猫にたとえている。与那国の役人及び、その妾どうしの仲の悪さを比喩したもの」(仲宗根幸市『島うた紀行』<第二集>)とされる。


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「週刊レキオ」でシニアピアノ音楽会紹介される


 「琉球新報」の副読紙「週刊レキオ」3月8日号で、ツレが発起人となった「アルテシニア世代のピアノ音楽会」が紹介された。同紙に「島ネタchosa班」という読者からの依頼に応えて調査する企画がある。そこで、「ピアノ演奏を披露する場所がどこかありますか」という問いに応えて取り上げられた。 
                          週刊レキオ2名前消し
 2月16日に開かれた「シニア世代のピアノ音楽会vol8」に記者さんが取材に見えていた。この時は、ツレのピアノとのコラボで私も歌三線で「童神」を歌った。夫婦で演奏する写真が掲載されている。
          週刊レキオ名前消し
  ピアノを習っている方はかなれいるそうだが、気楽に人前で演奏できる機会は少ない。この記事を読んで、自分も演奏してみようという方が少しでも増えると、ピアノ音楽会はもっと盛り上がるだろう。

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「底」の字がつく民謡の不思議、その2。「古見ぬ浦ぬブナレーマ」

 「古見ぬ浦ぬブナレーマ」
 古見は、「古見ぬ浦ぬブナレーマ」でも同じように歌われている。
♪古見ぬ浦ぬ シタリヤゥイサ ぶなれーま ヒヤシタリ イラヤゥイユバナヲル
 美与底ぬ(以下囃子略) 女童
♪うりぅじぅんぬ なるだる 若夏(バガナチゥ)どぅ 行くだる
♪自分(ナラ)―上納布(カナイ) 取り持ち 十尋布(トゥイルヌヌ)抱き持ち
(當山善堂著『精選八重山古典民謡集』から、以下省略)
          
                      この曲を歌っている大底朝要さんも名前に「底」の字がつく
 この曲は、西表島の古見の乙女ブナレーマが人頭税で織った布を上納するために、自分の舟で蔵元のある石垣島に渡る様子が歌われている。
 女性たちは、海岸の仮小屋で泊まり、蔵元へ納めた。「この間、役人にたいしての世話役を強制的にさせられて帰るという習慣であった」と伝えられる(喜舎場永珣著『八重山の古謡』)。
 ついでに、八重山民謡の歌詞は、「古見」を別称の「美与底」と歌うように、同じものごとを別の表現で繰り返す対語の歌詞が多い。例えば黒島の民謡「てぃんだら節」は「黒島にいた間は さふ島(黒島の別称)にいた間は」と歌う。八重山民謡の魅力の一つでもある。 


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「底」の字がつく民謡の不思議、その1

 八重山民謡を歌っていると、「美与底」という言葉に出会ったときは戸惑った。字が読めないし、意味が不明だから。「みゆしく」と読む。例えば「古見ぬ浦のブナレーマ」に出てくる。歌詞の解説を読んでも、「古見の異称」としか説明がない。これでは、異称だということはわかっても、何を意味するのかまったくわからない。そんなとき、外間守善著『南島文学論』を読んでいたら、「スク」と呼ばれる地名について論述されていた。なにか、少し「底」の字がついている意味が分かってきたような気がする。
 八重山民謡では、「底」の言葉がどのように使われているのかを見ておきたい。

 「古見ぬ浦節」 
 まずは、八重山民謡の名曲「古見ぬ浦節(くんぬーらぶし)」である。古見は、西表島の東側にある古くからの集落である。
 古見ぬ浦ぬ 八重岳(やいだぎ) 八重重び 美与底(みゆしく)
  いてぃん 見欲しゃーばかい
 (古見の浦から見はるかす八重岳よ 八重に連なる美与底よ 何時までも眺めていたいものだ)
 「美与底」を「美与城」と書く人もいる。発音は同じである。「底」(しく、すく)は「城」(グスク、スク)とまるで異なる言葉のように見えるが、通じるものがあるらしい。
 西表島はまだ行ったことがない。18世紀半ばの古見は、人口700人以上を数える大きい村だったそうである
           
 波照間永吉氏は、この古見と歌の関係を次のように解説している。
 <西表島東部にある集落。八重山でも有数の古邑で、古くは八重山の文化・経済の一つ の中心地として栄えたが、現在は激しい過疎の波にあらわれ、寒村化してしまった。古見は北方に470m の古見岳、西方に421m の御座岳をひかえ、これらの山に連なる山岳がすぐ背後まで迫っている。また、村の前後には前良川、後良川の二河川が流れている。このような立地を「古見の浦」(『南島歌謡大成IV』節歌43 ) は、「古見の浦の 八重嵩。八重かさひ 美よ底/ いつん みほしやわかり」〈古見の浦の八重嵩、八重に山の重なっている美与底。いつも見たいものだ〉と歌っている。(「八重山歌謡にみる地名」)>
 美与底とは、古見村の同義語で対語として使われている。字句通りみると、景観が美しいところだろう。「底」とあるから、海も美しいという意味なのかと思ってしまう。でもそうではないようだ。



 

         


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上陸記念碑に見る万次郎の足跡、その4

 万次郎、封建時代の日本に民主主義を伝える国際人として活躍、そして開国へ
 

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 幽閉されていた万次郎たちは、琉球王府の役人により取り調べを受けました。その際、通事牧志朝忠は、特にジョージ・ワシントン伝記に興味を持ちました。伝記には、アメリカの民主主義社会の制度や人権尊重について書かれていました。そのようなことから、万次郎が封建社会の日本に持ち帰りたかったのは、アメリカで体験した民主主義の思想だったとも考えられています。

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 その後、万次郎は
11年ぶりにふるさと土佐に帰りました。ペリー提督が黒船を率いて現れた際、幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せました。万次郎は、開国への熱い思いを込めて、老中らの前でアメリカの事情について話しました。

 その後の万次郎は、翻訳、測量、捕鯨などを主な仕事としていました。明治新政府になっても、普仏戦争の視察として海外出張を命ぜられたほか、東京大学の前身「開成学校」の英語教授に就任するなど、国際人として活躍しました。


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 追記
 「上陸之碑」の披露式典には、多数のマスメディアが取材に来ていて、テレビや新聞で報道された。沖縄での万次郎への関心の高 まりがうかがえた。「琉球新報」2月20日付けは社会面で大きく報道した。


      img152.jpg 



 
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