レキオ島唄アッチャー

「カニクバタ」は異名同曲がいくつもある

  琉球放送(RBC)の人気長寿番組「民謡で今日拝なびら」で年末の2017年12月27日、興味深い放送がされた。番組に「にんぐるまーと」という曲のリクエストがあった。上原直彦氏は、これをきっかけに、この曲が宮古島と沖縄本島で歌われる3曲の旋律がとても似ているといって、3曲を比較して流してくれた。

 「にんぐるまーと」は、沖縄本島で歌われる「遊び歌」で、歌詞は即興で歌うのをよしとするので、歌う人によって歌詞が異なり、決まったものはないという。

 「にんぐる」は、日本語の「ねんごろ(懇ろ)」からきていると思われる。「ねんごろ」は、「大切、丁寧、睦まじくする様」をいうので、「男女が情を通じる、愛人」という感じではないかと話した。



 「帽子くまー」というアダン葉の帽子を編む情景を歌った曲では、「にんぐる小(ぐゎー)どぅ すんなあ」(愛人になるか)と歌う。同曲中で妻は「とぅじ」と言っており、「にんぐる」は妻とは異なる「愛人」を意味しているようだ。

 伊江島の歌「ましゅんく節」でも「ヨーテ なにんぐるにんぐるにんぐるにんぐる 抱ちょて」と歌う。『由絃会教本の解説』では「めいめいの愛人、恋仲同士が向き合って」と説明している。

 与那国島を代表する名曲「ドゥナンスンカニ」でも、「なんたはままでぃんや とぅじにうくらりてぃ やてぃくあがりざき にんぐるぬ たまち」(波多浜までは妻に送られて 屋手久(地名)東崎は彼女の持ち分だ=「与那国島の自然と伝統文化」HPから)と歌われており、「にんぐる」の言葉は、与那国まで使われたことが分かる。


 上原氏は、宮古民謡の「かにくばた」がとてもメロディが似ているとのべ、放送ではまず国吉源次さんの歌で「かにくばた」を流した。

 次に、「にんぐるまーと」を嘉手苅林昌さんの歌う50年ほど前のレコードを流した。メロディは本当によく似ている。曲の旋律が似ているだけではなく、決定的なのは、軽快で特色ある「歌持ち」(前奏)がソックリであること。さらに、「にんぐるまーと」の題名が入った特異な長い囃子がほぼ同じである。これは、まさしく異名同曲というべき存在である。


      
      「民謡で今日拝なびら」2017年12月27日放送

 上原氏は、「どちらが先なのか詮議できないが、メロディは沖縄的(沖縄本島的)、琉球旋法である」と言う。民謡のはやり歌は、宮古と沖縄本島は交流があるから「ごっちゃになったのだろう」とものべていた。

 注・琉球旋法
 通常、琉球音階と同じ意味で使われるようだ。
 琉球音階はよくレとラを除いたド・ミ・ファ・ソ・シ・ドの5音で構成されると聞く。でも「沖縄において伝統的にもっとも多く使われてきた音階は、この5音にレを加えたド・レ・ミ・ファ・ソ・シ・ドの6音で構成され、山内盛彬により嬰陰旋法と呼ばれている音階」(ウィキペディア「琉球音階」)だという。

 

 ラジオ番組では最後に、松田弘一さんの歌う「高離節」を流した。こちらは、「かにくばた」「にんぐるまーと」ほどには弾まないが、特色ある前奏の旋律も歌の旋律もよく似ている。やはりほとんど異名同曲と言ってよいと思う。

 上原氏は触れなかったが、実は八重山古典民謡にも宮古の「かにくばた」(兼久畑)と同じ曲名の歌がある。これはどう見たらよいのだろうか。それを含めて、次回から、曲名ごとにもう少し踏み込んで見てみたい。



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「花と食のフェスティバル2018」に行ってきた

 今年も「花と食のフェスティバル2018」が奥武山公園セルラースタジアム那覇周辺で開かれたので行って来た。
 いつも一番寒い時期に開かれる。今日は日中少し日差しがあり、あまり寒くなかった。
    写真は寂しそうだが、たくさんお客さんが見えた。
  
                            
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 JAが中心になっているので、まずは野菜、果物の直売がお目当て。レタス、紅じゃが、セロリ、ブロッコリー、ホウレン草を買い求めた。まだこれから会場を見て回るので、野菜を預かってもらった。このサービスがいい。
 写真のようにセロリの株が大きい。これで200円くらい。いま野菜が高い時、沖縄は一番野菜が豊富なシーズンなので格安で買えるので嬉しい。

                          
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 たくさんの出店があり、どこでも試食ができる。インフルエンザ対策のため、マスクしていったが、さすがに食べたい試食品が多いので、ほとんどマスクを外して食べ回った。一番おいしかったのは、南風原町のミニトマト。楕円形のトマトでとても甘く、トマトらしい味わいだ。
   写真は残念ながらない。

                       
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 泡盛酒造所の店では、車なので試飲はできなかった。ただ、スーパーで売っている泡盛が昨年秋から急に一斉に値上がりしたのでその理由を尋ねてみた。なんと酒造所では値上げしていない。酒税法が改正になったわけでもない。大手スーパーは泡盛を安く仕入れて安く売っていたが、酒小売店はそんなに安く仕入れできないので店頭価格で差があり、小売店から悲鳴が上がっていた。自民党がそのアンバランスを是正するようにさせたので、スーパーの泡盛価格が一斉に値上げしたということらしい。小売店の気持ちはよくわかるが、財布にはひびく。
       
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 回っていると、おばあちゃんが椅子に座っている。これは本物ではなくて、伊計島名物の人形の「東江おばあ」。「写真をどうぞ撮ってください」の呼びかけに応えて、ツレも撮った。どうみても血の通ったおばあちゃんに見える。 

 いつも必ず寄るのが、お肉を販売する「まーさん市場」。今回は、手前で女性スタッフが「まーさん市場に{いいね}を押せば200円引きの割引券をあげます」というので、ツレがスマホから「いいね」を押して割引券をいただいた。
 ツレはさっそく、鶏肉の味付けパック3袋GETした。おきなわ和牛の切り落とし(300g)もお安く買えた。
   鮮魚市場のお店では、天ぷらが人気。お魚、もずく、パセリの三種の天ぷらがあり、列ができていた。三種のミックスを買い求めた。
 早速、帰ってから夕食で、炒めた味付け鶏もも肉、天ぷらを美味しくいただいた。

                    
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 食べ物だけしか買っていないが、お花もたくさん出ていた。色彩が鮮やかだ。
 沖縄は、カンヒザクラが那覇市内でも咲き始めた。梅もコスモスも咲いている。寒い時こそ、花だよりのシーズンでもある。 









 






 


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中部に支配を広げた伊覇按司とその子孫、その2

 「ムートゥヤ・ナキジン(元は今帰仁)」
 伊覇按司系統の発展を、こんどは伊敷賢著『琉球王国の真実』から紹介しておきたい。
『具志川市誌』とは多少異なる伝承や初代伊覇按司の次男の息子で名高い護佐丸などについても記されているからである。

 伊覇村に逃げた今帰仁子
 <今帰仁按司丘春には仲宗根若按司のほかに名護按司・大宜味按司・先代大湾按司・先代山田按司の4名の息子がいて、「仲北山」落城後は方々に散って再起を待っていた。…
 1374(文中3)年、戦で深手を負った「仲北山」城主仲宗根若按司は、…息を引き取った。…父の遺体を葬ったあと、8男今帰仁子(ナチジンシー)は美里間切伊覇村に逃げた。…
 今帰仁子は美里大主(大里林昌公)に認められて婿となり、伊覇(伊波とも書く)城を築き初代伊覇按司となった。伊覇按司と妃・真鶴金の間には3男1女が生まれ、長男は伊覇按司2代目・次男は山田按司・三男は大湾按司となり「仲北山」の再興を誓い合っていた。伊覇按司の娘真鍋金は尚巴志に嫁ぎ、後の尚泰久王が生まれた。>
伊敷氏は、初代伊覇按司について、仲北山城主の仲宗根若按司の8男、今帰仁子が伊覇村に逃れ、美里大主に認められて 娘の婿となり、初代伊覇按司となってとしている。
            伊波城跡、うるま市HP  
                              伊波城跡(うるま市HPから)

    伊覇按司系統の発展 
 <「仲北山王」仲宗根若按司の息子の8男、今帰仁子は名護・読谷山経由で越来間切(後の美里間切)嘉手苅村に逃れ美里大主(ンザトゥウフヌシ、林昌公)の婿になり、長じて伊覇城を築き伊覇按司初代となった。伊覇按司の息子や孫たちは、読谷山間切や勝連間切など沖縄中部に城を築き勢力を広げていった。
 伊覇按司初代の長男は、伊覇按司二代目を継ぎ、次男山田按司は読谷山間切読谷山村(後に山田村になった)に山田城を築き、三男の大湾按司は読谷山間切大湾村に大城を築いた。>
 伊覇按司の息子や子孫は、読谷山間切や勝連間切など沖縄中部に勢力を広げたという。

 <(伊覇按司の)長女・真鍋金は尚巴志に嫁ぎ、越来王子(後の尚泰久王)を生んだ。伊覇按司初代には、他にも楚南按司など外子がいて、8人の息子がいたとされる。
 伊覇按司の次男の山田按司は、長男・伊寿留(イズルン)按司、次男・読谷山按司護佐丸(ゴサマル)盛春、三男・大城掟親雲上清信を生んだ。次男の護佐丸は父の跡を継いで読谷山按司になったが、座喜味城を築いた後に中城に移り中城按司になった。長男の伊寿留按司は中城山頂に伊舎堂村を創り護佐丸を補佐していたが、護佐丸が滅んだ後に百姓になり伊舎堂村も海岸近くに移動し、富豪の屋号伊寿留安里の祖になった。三男の大城掟は護佐丸滅亡後、中城間切大城村から那覇に移り住み金丸の革命を成功させた人物で、安里村を拝領し安里大親と名乗った人物である。それ以前の安里村は第一尚氏の領地であった。>

 <護佐丸は逆賊として成敗されたので、その一族は方々に隠れたが、第二尚氏になって政権に復活し、子孫の毛氏は沖縄各地に繁盛してその数は3万人ともいわれる。
 伊覇按司2代目は尚巴志の義兄弟となって北山攻めや南山攻めで活躍し、弟や息子たちを各地の城主として配置した。安慶名大川按司をはじめ幸地按司・勝連按司6代目・玉城按司・高瀬按司・瀬長按司などが、北山や南山滅亡後の新しい城主になった。>

 伊敷氏によれば、安慶名大川按司初代には4名の男子がいて、次男、屋良大川按司と「後南山」から逃げてきた兼城若按司の娘との間に生まれた子が、阿麻和利加那であるという。4男の喜屋武按司の子が鬼大城(ウニウーグスク)と呼ばれた越来親方賢勇で、後に阿麻和利を討伐した武人である。鬼大城と阿麻和利は、又従兄弟という関係に当るという。
 伊敷氏によれば、中城城と勝連城で対抗した護佐丸と阿麻和利も同じ伊覇按司系の一族となる。
 <「仲北山」の遺児の今帰仁子から広がった伊覇按司一族の発展は、尚巴志王と姻戚を結んだことにより発展し、沖縄中に子孫を残した。それで、後世の人は「ムートゥヤ・ナキジン(元は今帰仁)」というようになった…(『琉球王国の真実』)>



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中部に支配を広げた伊覇按司とその子孫、その1

 金満按司が具志川に住んでいたことを書いたとき、父親である奥間大親系の勢力は伊覇按司に亡ぼされたことを紹介した。では、伊覇按司とはどのような人たちで、具志川を始め中部にどのように勢力を広めたのだろうか。

以下、伊覇按司系の治政(安慶名大川按司系)を主に『具志川市誌』から紹介する。

 伊覇按司
  <西暦1322年(注・1374年ともされる)怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされた仲昔今帰仁按司の地方へ四散した子孫の一人は、遠く美里間切伊覇村(楚南村ともいう)に逃げ、伊覇村の女を妻にして、8男一女をもうけ、中南部地区の各城主に成功した。そのうち8男が初代伊覇按司である。安慶名大川城の築城は今より600年前であろう。初代伊覇按司は具志川地域更に勝連地域まで支配下に入れて按司を支配する世之主への欲望があった。そのために血縁である天願按司を先ず支配下においた。そして沖縄唯一の長い川天願川を背に田場平野を見下ろす安慶名お嶽に城を築き、5男を配し、初代安慶名大川按司とした。>

 怕尼芝に亡ぼされた仲昔今帰仁按司の子孫の一人が伊覇村に逃げ、伊覇村の女性を妻にして生まれた8男が初代伊覇按司だという。そこから伊覇按司系の勢力が広がる。


 <初代安慶名大川按司は3男を後天願按司として具志川地域の津口であり、要衝である具志川城に配し、4男を喜屋武城に配した。そして江州地区(江州村、宮里村、高江州村)を除く、具志川地域を支配したその後凡そ百
四十年間の治政であろうか。それらの廃城は地方の按司達が首里に移住したいわゆる尚真王世代弘治年間(西暦1488年―1508年)のことであろう。>


      
安慶名城跡、うるま市HP2

        安慶名城跡(うるま市HPから)

 江州按司の治政

 伊覇按司系統の支配
 <初代伊覇按司は天願城を支配下に入れ具志川地域に安慶名城を築き、東進への拠点とした。たまたま5代勝連按司の勢力衰頽するや、好機至れりと、5代勝連按司を打ち亡ぼし6男を配して6代勝連按司となす。然し乍らこの6代勝連按司は凡庸で無力であったため、元按司の旧臣浜川大主に亡ぼされて、伊覇系の勝連按司は一代でつきた。そして伊覇按司の東方への勢力範囲は具志川城、喜屋武城を前線とする具志川地域に止まったようである。(『具志川市誌』)>


 按司時代の末葉(第一尚氏時代)の具志川地域の各城主の政治姿勢

 <具志川地域の各城主は勝連城主と同盟を結び、中山の譜代城であった越来城、中城城及びその輩下の知花城、池原城、安谷屋城、新垣城に対抗していたといわれている。たとえ今帰仁城の出先である伊覇城の血縁であったとしても伊覇城の努力(ママ、「勢力」の誤りか)は中山に対しては弱かった。(以上『具志川市誌』)>
 勝連城をめぐっては、阿麻和利が10代目勝連城主望月按司を倒し、勝連按司11代目になったという。(伊敷賢著『琉球王国の真実』から)

 


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具志川にも住んでいた金満按司

 

 奥間大親とその子、泰期(金満按司)について、このブログでも書いてきた。『具志川市誌』を読んでいると、具志川にも足跡があることを知ったので、紹介しておきたい。

 喜屋武按司の系図

 『具志川市誌』によると、喜屋武城は奥間大親系が二代にわたり支配していたが、今帰仁系の伊覇按司に滅ぼされたという。

<資料一、二(注)から判断すると編者の推論であるが、喜屋武城は奥間大親系が二代にして伊覇按司に亡ぼされ、伊覇按司の次男を三代喜屋武按司となし、世子が無かったので、安慶名大川按司の三男が四代喜屋武按司となる。四代にして廃城となったとおもう。>

 注・その資料とは、次の系図である。

資料一「市内字仲嶺徳田家の家譜」は、奥間大親――五男喜屋武按司――喜屋武若按司となる。若按司のあと栄野比大屋子、大城賢勇と続くが、按司ではない。按司は二代で仲嶺按司に移っている。

 資料二「琉球祖先宝鑑」は、奥間大親の子は、察度王、天久按司、金満按司、喜屋武按司とされ、金満按司の下に五男我那覇親方、六男饒波親方の名がある。
              具志川市誌  


 金満按司については、以下のように記している。

 △豊見城村饒波村の饒波お嶽の上後方に金満お嶽があって、豊見城村字高安村及饒波村の祖先を祭っているとの事。金満お嶽の祭所を俗に金満御殿と言い、金満按司一家を奉祀している。金満按司とは泰期のことである。

金満按司に就いては、在所は宜野湾真志喜村の奥間と言う家で、この按司は唐、大和を往復せられ、金、銀、多く求めて国頭間切奥間村に治金(ママ)術を初めて伝えたといわれる。

又牧港附近を根拠として日本商船と交易して資産をつくりその郷党の間にも信望があったため、その子が饒波に養子に入ったのだろうという。

△金満按司は泰期のことで察度王世代に数回使節として渡明せる按司である。第1回の渡明は1372年で尚巴志が生まれた年である。

 △泰期は具志川市天願村にも一時期住いしたとのことであるが、それは金満按司となる以前であっただろうという。(首里長嶺将秀氏による) 

△島袋源一郎著沖縄の歴史P83に察度王、天願泰期(方言タイチ)を明に使いし臣と称して表貢を奉り云々とあって泰期が或期間天願村に住いしたことがあるとおもわれる。

 泰期が、ある時期に、天願村に住み、「天願泰期」と呼ばれていて、金満按司となる以前だったとしている。

                  泰期(3)  

                            読谷村残波岬にある泰期像

 伊敷賢氏も著書『琉球王国の真実』のなかで、奥間大親の子・泰期を「天願金満按司泰期」と呼んでいる。

 1438(永亭10)年、故郷伊是名島から宜名真村に逃げてきた24歳の松金(後の尚円王)を、奥間村の奥間カンジャーに助けられたという伝説が残っている。…

 言い伝えによると、奥間カンジャーの父親は小禄金満按司で、小禄金満按司の父は天願金満按司泰期であり、天願金満按司の父親は奥間大親である。奥間大親は天女(実は恵慈王の次女)との間に察度王を生んだ人であり、天願金満按司は察度王の腹違いの弟である。小禄金満按司は1405(応永12)年に従兄弟の武寧王が尚巴志に滅ぼされたので、息子の奥間カンジャーと共に、祖父の故郷の国頭間切奥間村に逃げたのであった。>

 
<中山察度王となると、泰期は側近として活躍し金満(カニマン)按司と呼ばれた。1378(天授4)年、察度王が明国に朝貢を始めると、泰期は使者となり明に渡航して宝物を持ち帰った。泰期は始め小禄間切小禄城主だったが、小禄城を息子の小禄金満按司に譲り、自らは天願按司(ティングァンアンジ)となり大和とも交易した。北谷金満按司も泰期の息子である。>

伊敷氏は、泰期は察度王の使者となり、明に渡航した。小禄城主だったが、のちに息子に譲り、天願按司となり、大和とも交易したとしている。確かに、泰期は中国、大和との交易で知られる。中国との交易には、西海岸が便利だが、大和との交易は東海岸の港が好適だ。泰期が天願按司になったのは、大和との交易のためだったのだろうか。そう考えれば、なぜ天願按司だったのか、その意義がよくわかる。交易品の中には、鉄器や鍛冶にかかわる物も含まれていたのだろう。

泰期は、国頭の奥間村で鍛冶屋を営み、奥間カンジャーの祖となった。

 

伊覇按司

始めのところで、奥間大親系が伊覇按司に亡ぼされたと書いたが、伊覇按司について簡略に説明する。詳しくは別途、改めて書くことにする。

14世紀、怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされた「仲北山」城主の仲宗根若按司の8男・今帰仁子(ナチジンシー)が美里間切伊覇村に逃げてきて、美里按司の婿となり、初代伊覇按司となった。伊覇按司は、具志川地域、勝連地域に支配を広げたとされる。

 


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整骨院で腰痛を治す

 昨年からたびたび腰痛が起きるようになった。若い時代は、同僚が腰痛に悩まされていても、まったく無縁の健康体だった。それが、昨年2月、重いものを持ち上げる作業をしたことをきっかけに、腰痛が出るようになった。
 昨年10月くらいからは、たいしたことをしていなくても、1カ月に1回は再発するようになった。知人のKさんが、「知っている整骨院がありますよ」と言ってくれたが、張り薬を腰に張るなどして何日かすれば治るので行かなかった。
 年が明け新年会に出た際、慣れない椅子に座っていただけでまた腰痛になったので、こうれはもうくせになっているので、なんとかしなくてはと思った。
 ネットで見てみると、腰痛がくせになるということはなく、治ったと思ってもまた痛くなるのは、腰が悪くなっているからだと整骨院の方が解説していた。これを見て、もう整骨院に行くしかないと思って、Kさんに知り合いの整骨院のことを聞くと、Kさんがすぐ予約を取ってくれた。

 市内牧志にあるN整骨院に行った。先生は見るなり「背骨がゆがんでいますね。筋肉もこわばっています。でも治療すれば治りますよ」と言ってくれた。
 背骨がゆがんでいると、背骨で重力を分散する力が弱くなり、結果、周辺の筋肉へ負担をかけ、筋肉に疲労がたまり、炎症を起こし、腰痛が発生する。さらに長期化すると、骨や軟骨にまで影響を及ぼし、骨や軟骨の変形が起こし椎間板ヘルニアが発症する(「diamond男の健康」)という。
 整骨院で何回か治療をしてもらうと、ゆがみが直ってきているとのこと。3,4回通ったところで、昨年腰痛の引き金になった草刈り・清掃の作業があったので、また再発しないか少し不安があった。ところが、作業中少し無理な姿勢をとることがあったけれど、まったく腰痛は起こらなかった。やっぱり腰がよくなっているのだと実感した。
 腰痛の原因は、姿勢の悪さからくるそうだ。先生は私が待合室で待っている姿を見ても「やはり姿勢がよくないですね」とおっしゃる。長年の知らず知らずのうちに悪い姿勢がくせになっているのだろう。
 先生が「よくなりましたよ」と判断してくれるまで通うことにしよう。

 腰痛以外にも、寝ている時に足のふくらはぎがつることが多発し、どうしようもない痛さだった。それも治療を始めて以来、起きていない。マッサージなどの効果だろう。
 加えて、整骨院は保険適用となるので、とっても割安な医療費というのも年金暮らしには大助かりである。
 知り合いの整骨院を紹介してくれたKさんに感謝したい。当初は嫌がっていた私に通院を強くすすめてくれツレにも感謝したい。


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尚徳王の家族の伝説、その4

 尚徳王の次男も王位に就いた「中和」伝説

 

第一尚氏をめぐっては、尚徳王が最後の王ではなく、第二王子であった中和がわずか1年ほどであったが、王位を継いだという説もある。わがブログ「第一尚氏の最後の王は尚徳ではない」で紹介した。興味のある方はそちらを読んでほしい。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』で高瀬恭子氏が「第一尚氏最後の王『中和』」と題して論述している。

 高瀬氏は「尚徳の死後、その第二王子の中和が僅か1年ほどではあったが王位にあった」ということを、同じ時代に書かれた『朝鮮王朝実録』によって検証している。


 琉球国の正史『中山正鑑』などでは、尚徳王は21歳で即位し、死去した時、数えの29歳で、残された子は1人で10歳未満の幼い子だったとされてきた。しかし、尚徳即位の1461年、琉球に滞在した朝鮮漂流民の肖得誠が帰国した際の取り調べで、尚徳は33歳で、子どもは15歳くらいの長子ほか4人いたと証言している。尚徳の年齢が12歳も差があり、子どもの年齢、数もまったく食い違っている。

朝鮮で編まれた申叔舟撰『海東諸国紀』では「成化7(1471)年の冬、琉球国王の使として禅僧の自端西堂が来朝した。自端の言うには、…尚徳の名は大家で、兄弟は無い。今の王の名は中和で、まだ号は無く16歳である。宗姓丹峯殿の主女を娶っている。王弟の名は於思で13歳、次弟は截渓といい10歳である。国王の居るところの地は中山といい、故に中山王と称している、と。」


 つまり、尚徳には4人の子がいたが、1470年に尚徳は既に死去していた。
長子は死没したのか、残された3人の子のうち、年長の中和が新王として即位していた、ということである。

もし中和が即位していたとしても、クーデターで第一尚氏の王統が倒され際、中和王はまだ即していない王子(次男)として王妃とともに殺されたのだろう。乳母と三男だけが逃げのびたという伝承につながっている。高瀬恭子氏著「第一尚氏最後の王『中和』」では、そこまでの論述はない。

いずれにしても、尚徳王とその子どもをめぐっては、まだまだ多くの謎がある。
   終わり

 



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アルテで「かたみ節」を歌う

 今年初めてのアルテ・ミュージック・ファクトリーが13日夜、開かれた。
              DSC_2492.jpg
   新年の恒例で、幕開けは「かぎやで風節」。三線のお仲間の3人に新たにKさんが加わり、4人で演奏した。
 今月のテーマは「変」。エントリーした16組がそれぞれ、「変な曲だから」「変奏曲」など、テーマに沿って演奏した。
     今回は、出演したみなさんの写真を撮っていないので、自分にかかわることだけを書いておきたい。


 私は、新春なので八重山民謡の正月の定番曲「鷲ぬ鳥節」を最初に演奏した。続いて八重山民謡の「かたみ節」を歌った。
 私の前にも、民謡をマンドリンで演奏する「カーペンターズ 」が、この曲を演奏したが、本来は歌三線の曲なので歌ってみた。演奏がまったく異なるのでダブり感はなかった。
 「かたみ節」は、歌詞の中で、愛情で深く結ばれた男女が「100歳になっても変わるなの、元の心」と歌うので、テーマに合っていた。       

     DSC_2506.jpg 
 演奏の後、「工工四(楽譜)を見ないでよく歌えるね」との声があったが、後から動画で見直してみると、「鷲ぬ鳥節」の最後で歌詞を間違えていることに気づいた。ライブは怖い。
  ツレは、ピアノで新春らしく「春の海」を演奏。続けて弾き語りで「部屋とYシャツと私」を歌った。風邪で喉が痛み、声がかすれている中での懸命の歌声だった。
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 第2部でもピアノソロで、ブラームスの「ワルツ変イ長調」を演奏した。夜更かしするのは風邪によくないので、まだ演奏者が残っていたけれど帰らせてもらった。
 来月のテーマは「愛」。民謡でもたくさんあり過ぎて選曲に困りそうだ。



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尚徳王の家族の伝説、その3

屋比久大屋子の後裔には、雍氏の他に明氏など後世、第二尚氏政権に仕えた士族も多い、とされるが、その明氏の系譜が「ウィキペディア」にアップされているので、紹介しておきたい。


 首里王府に仕えた後裔、明氏

<明氏亀谷家(みんしかめやけ)は、照屋親雲上長太を元祖とする明氏安次冨家から分かれた琉球士族。門中の間では、琉球王国の第一尚氏王統第七代国王・尚徳王の三男・屋比久大屋子の流れを汲んでいると信じられている。
 尚徳王の世子・佐敷王子、次男・浦添王子は第二尚氏の尚円王への世替り(クーデターという説もある)の折、殺害された。三男はこのとき三歳、乳母に抱かれ先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に佐敷間切・屋比久の地頭となり、屋比久大屋子と称する。明氏はその後裔である。一世長太(照屋親雲上長太)は第二尚氏王朝・尚清王に仕える。二世長孫は長太の次男で、明氏の直系は、兄・上江洲親雲上長均の家系である明氏安次富家で、長孫は分家独立し、先祖の遺領、奄美阿鉄の地頭になり(阿手津親雲上)、かつ第一尚氏王朝以前(屋蔵大主、鮫川大主時代)の地である伊平屋島の按司掟に任じられた。また四世長頼(亀谷親雲上)の時、王孫の由緒をもって王府より王城の地首里移住を許される。これより、この子孫は首里士族としての道を歩む>


 この「ウィキペディア」の「
明氏亀谷家」の項に掲載されている比嘉朝進著『士族門中家譜』によれば、照屋親雲上長太は、屋比久四男である天久大屋子の長男とされる。つまり尚徳王からすれば、曽孫にあたることになる。だが、『明姓家譜(亀谷家)』では、長太は屋比久大屋子の四男とされていて、違いがある。いずれにしても、尚徳王の後裔であることは確かである。

 尚徳王の三男が落ち延びた先が佐敷というのは、尚巴志の発祥の地であるから合理性があるように思われる。この地なら安全に守られる環境があったのかもしれない。それにしても、第二尚氏のもとで、三男は追及されるのではなく、佐敷間切・屋比久の地頭となり、その後裔である照屋親雲上長太は尚清王に仕えたというは興味深い。首里王府もわりあい寛容だったのだろうか。







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連日の誕生祝いに感謝


 1月8日は70何回目かの誕生日だった。今年は、予想もしていないお祝いが続き、感謝感謝である。
 7日は自宅で家族で誕生日祝いの食事をして、ツレから上等財布のプレゼントをいただいた。
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     前日に祝っていただいたのは、8日はアルテ新年会が赤田カフェであったから。
 ところがアルテでもchikaさんの粋なはなからいで、1月生まれの方3人の誕生祝いをしていただいた。
  この日は初めてお会いする方たちも多数参加していたのに、みなさんに祝っていただき望外の喜びである。
  得意のギターやピアノの演奏、それにあわせて歌い、楽しい新年会だった。

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 10日は毎月恒例となっているフォークユニット「F&Y」のななまかいライブがあった。
 新年初ライブで、常連さんをはじめたくさんのお客さんで大盛り上がりだった。

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     こちらでも、F&YとSSカンパニーの常連のみなさんが、サプライズで誕生祝いをしてくれた。ケーキだけでなく、泡盛や大吟醸の日本酒までプレゼントをいただいた。
 この日は私の他にも2人、誕生日の人がいて、F&Yが3人のため「happybirthday」を歌って祝ってくれた。
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  70歳を過ぎても盛大に誕生祝をしてくれるなんて、沖縄の人たちの優しさ、あたたかさに心から感激した。
 ライブで青春時代の歌を私より若い世代の人たちといっしょに楽しむことは、気持ちを若く保つ上でとっても大事なことだと思う。音楽を通じて、たくさんの人たちと出会い、交流し、楽しい時間を共有することは、とても素晴らしいことだ。今年も大いに楽しみたい。


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