レキオ島唄アッチャー

第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その2

禅僧が「今の王の名は中和」と証言

この琉球の正史とは異なる尚徳王とその子どもについて証言は、漂流民の証言だけではない。しかも、尚徳の後継王の名前まで明記された史料がある。高瀬恭子氏は、『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の論文で、次のようにのべている。

<肖得誠らの見聞と符合する史料がもう一つ存在する。朝鮮でほぼこの時期に編まれた申叔舟撰『海東諸国紀』の次の記事である。

「成化7(1471)年の冬、琉球国王の使として禅僧の自端西堂が来朝した。自端の言うには、尚巴志より上代はよくわからない。尚は姓で巴志は号、名は億載である。尚金福の名は金皇聖、尚泰久の名は真物という。尚徳の名は大家で、兄弟は無い。今の王の名は中和で、まだ号は無く16歳である。宗姓丹峯殿の主女を娶っている。王弟の名は於思で13歳、次弟は截渓といい10歳である。国王の居るところの地は中山といい、故に中山王と称している、と。」>



 <ところでこの自端が国王の使として琉球を出発したのは、成化6(
1470)年であったようである。即ち肖得誠らが尚徳やその王子たちを見た天順5(1461)年の9年後のことである。

自端の言う16歳の中和、13歳と10歳の2人の弟は、肖得誠らの見た尚徳の4人の子のうちの幼い3人であろう。長子は死没したのであろうか。

この全く関係のない2人、自端と肖得誠の証言に尚徳の複数の子どもたちが登場し、しかも年齢的に整合していることは、その史料の語ることが事実であることを示している。そしてその事実とは、尚徳が天順5(1461)年に33歳で、4人の子があったこと、成化6(1470)年に尚徳は既に死去しており、残された3人の子のうち、年長の中和が新王として即位していた、ということである。

尚徳が成化5年に29歳で死去し、幼い世子1人が残されたという『世鑑』などの記事は、クーデターによって新王統を樹立した第二尚氏が、自らのために都合良く事実を改竄したものであろう。>

 

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               首里城の歓會門
  国王の年齢と子どもの数や年齢は、王府の歴史を見る上でとても重要な事柄である。琉球に滞在した朝鮮漂流民の
肖得誠の証言と禅僧の自端西堂の報告で、尚徳王の年齢と子どもの数と年齢が、王府の『中山世鑑』など正史の記述とまったく異なることは、正史記述が疑わしいことを示している。漂流民は証言に際して、なにも偽る必要がないことである。自端の報告は同時代の証言であり、その両者の証言が一致していることは、真実性が高いことを示している。

これまで第一尚氏の8代目「中和」の存在が正当に評価されないばかりか、無視をされてきたのはなぜだろうか。

 

この禅僧の自端西堂らが「琉球国使を騙(かた)る偽使である」という説があるという。自端は日本の禅僧だが、琉球を訪れたところ琉球国王が人物を見込んで、成化3(1467)年に朝鮮に遣使し、成化7(1471)年に再び遣わした。当時、琉球は朝鮮の政情を把握し、交易の実を挙げるための業務は日本人に依存していたという。

「成化6年に尚徳の名で発出された文書も、使者の1人も変更になったものの、自端らはまぎれもない琉球国王使であった」と高瀬氏はのべている。


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第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その1

琉球が3つの小国に分かれていた三山時代に琉球を統一した尚巴志が打ち立てた第一尚氏の王統は、第7代の尚徳をもって終わったというのが、琉球史の定説とされる。しかし、どうもそうではない。尚徳の子どもが8代目国王を継いでいたという見解があることを最近知った。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』を読んだ。その中で高瀬恭子氏が「第一尚氏最後の王『中和』」と題して論述している。

 著者の3人は、琉球王府時代の外交文書を収録した『歴代宝案』の第1集、『明実録』の琉球国関連史料、『朝鮮王朝実録』のうち中国では明代に当たる部分の琉球国関連史料を、読み下し文とし注解を付して世に送ってきた方々である。

 

朝鮮漂流民の証言
 
  高瀬氏著「第一尚氏最後の王『中和』」から要約して紹介する。

高瀬氏は「尚徳の死後、その第二王子の中和が僅か1年ほどではあったが王位にあった」ということを、同じ時代に書かれた『朝鮮王朝実録』によって検証してゆく。

尚徳は即位の後、君主としての徳を修めず暴虐無道で民をしいたげ、朝貢しなくなった喜界島に親征し、その後驕慢ますます激しく、国政は乱れ、遂に在位9年にして死去した。その時法司(注・三司官)は、残された幼い世子を立てようとしたが、国人が反対し、世子は殺害され、固辞する御鎖側官金丸が推挙され、尚徳の世子尚円として明に請封し、第二尚氏が始まった。

この所伝は、琉球国の正史『中山正鑑』などによるものであり、実際のところは金丸のクーデターであった、というのが現在の定説となっている。



        
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                       尚徳王御陵跡(那覇市識名)

 ここで問題としたいのは、尚徳が成化5(
1469)年に死去した時、数えの29歳で、残された1人の幼い世子が殺害されたとする点である。

ちなみに『中山世鑑』は世子の年齢について「世子ハ未ダ十歳ニ満タズ、七八歳ノ間」「幼稚ノ世子」と記し、『蔡鐸本世譜』は「幼稚之世子」を乳母が「擁抱」して逃れたとし、『蔡温本世譜』は「時世子幼冲」で、王妃と乳母が世子を「擁着」して隠れたと記している。


 <ところが、宮古島に漂着して、天順5(
1461)年の4月から7月まで琉球の王宮に留まり、その年の12月に琉球国の使者に伴われて朝鮮に帰国した漂流民肖得誠らは、朝鮮当局の取り調べに際し、次のように述べているのである。

「(一、)国王の年は33歳である。一、国王には子が4人ある。長子は15ばかりで、ほかは皆幼い。長子の外出の際は、軍士十余人がつき従う。王子たちは国王とは共に住まず、別の所に居る」。

漂流民の滞在した天順5(1461)年は、『世鑑』などに、21歳で尚徳が即位したと記されている年で、漂流民の供述とは大きく異なっている。



 同じ取り調べの中で肖得誠らは、王宮の南の回廊わきの部屋に住み、日々国王のお目通りを賜わり、手厚い供応を受けていた、と述べている。つまり彼らは王宮で、つぶさに国王を実見する機会を持っていたのである。国王と王子たちについて彼らの語るところをもう少し辿ってみよう。

「国王が現在居住する宮城の南に旧宮がある。その層閣や城郭のさまは、普段住んでいる宮と同じである。時々往来し、23日あるいは45日、旧宮に逗留する。国王が外出する時は、軍士役300余人が甲(よろい)を付け騎馬で侍衛する。手にする武器は、弓矢や槍や剣で、鉤(かぎ)のような形のものもある。軍士らは国王の前後に列をなしてゆく。国王はある時は轎(かご)に乗り、ある時は馬に乗る。侍衛の軍士は歌を唄うが,その節廻しは朝鮮の農民が歌う俗謡のようである。年少の3人の王子は前方を、長子は後方から国王に付き従う」。>

 

これまで『中山世鑑』では、尚徳が21歳で即位し、死去したのは数え29歳で、残された子は1人で10歳未満の幼い子だったとされてきたが、尚徳即位の1461年、琉球に滞在した朝鮮漂流民の肖得誠が帰国した際の取り調べで、尚徳は33歳で、子どもは15歳くらいの長子ほか4人いたと証言している。尚徳の年齢が12歳も差があり、子どもの年齢、数もまったく食い違っている。これは何を意味するのだろうか。

高瀬氏は「その記述のうちの幾つかは、のちの第二尚氏時代の王府の記録である『琉球国由来記』や16世紀以降の冊封使の記録とも一致し、漂流民の見聞の信憑性を証している」とする。









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一年ぶり、大盛況の「風は南から」SSライブ

 沖縄随一のGSバンド「SSカンパニ―」による「Comeback to 風は南からライブ」が23日夜あり、大盛り上がりだった。
 糸満市のライブハウス「風は南から」は昨年3月で営業を終え、いまは箱貸しのライブハウスになっている。SSの熱烈ファンでつくる「糸満カラーズ」が、「糸満のSSファンのため是非、復活ライブを」と主催して、Comebackライブとなった。ツレが、手作りで仕上げた横幕が正面を飾った。


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 ライブは、待ちかねていたように、まだ開店前のリハーサル最中からお客さんが入ってきた。

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 開演時間にはほぼ満席の状態。久しぶりにお会いする方もたくさんいた。
 ベンチャーズナンバーで始まったライブは、お馴染みのGSナンバーを次々に演奏。
 バンドメンバーもそれぞれ歌い、リーダー真ちゃんの長男、ドラムのマット君が「好きさ、好きさ、好きさ」を歌い出すと、ステージ前は総立ちで盛り上がる。

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 後半に入り、演奏が熱を帯びると、もう乱舞、乱舞が止まらない。

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   いつも「人間汽車ポッポ」を踊るSSオリジナルの「佐敷幼稚園」になると、会場いっぱいに列がつながり前に進まない。最後の「また逢おうね」では、手をつなぐみなさんの輪が二重になるほど。これまで「風は南から」のライブを数々見たけれど、こんな光景は始めてだった。
 みなさん、心ゆくまでGSサウンドを楽しんだ様子。「次はいつやるの」ともう次回に期待する声が出た。

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 糸満カラーズの女性たちは、SSカンパニー特製の赤いTシャツ姿で、お客さんの接待から応援まで大活躍だった。
SSComeback風南 

 大盛況だったライブのあとの打ち上げ。バンドメンバーと糸満カラーズの人たちの笑顔が素敵だった。

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危険な中央分離帯に反射板設置された

  那覇市の首里を通る環状2号線(県道82号)を夜間に車で走ることがよくある。
 交差点などの中央分離帯に事故防止の反射板がないところが何か所かある。わずかに高さ10㌢㍍ほどの分離帯が黄色く塗られているだけ。分離帯のあることが夜間はわかりにくい。この路線は道路がカーブしている上、下り坂ではスピードが出やすい。
 もしカーブを少し膨らんで曲がると、中央分離帯に衝突する危険がある。用心して走るが、通るたびに「これは危ない!」と痛感していた。なぜ分離帯の反射板がないのか、不思議だ。
 よく見ると、初めは反射板があったのに、反射板が倒れて修理されずに放置されている。ということは、反射板があっても衝突事故があったことになる。反射板がないままでは、事故が再発することは目に見えている。激突すれば、命にかかわる悲惨な事故になりかねない。

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          環状2号線。下り線はスピードが出やすい 
 この問題を「琉球新報」の「読者の声」欄に「この路線は交通量がとても多い。早急に点検して事故防止の反射板を分離帯に設置していただくように切望する」と投稿して、2月に掲載された。なんとか、悲惨な事故が起きる前に設置してほしいと思っていた。先日、夜間にこの道路を車で走る機会があったが、私が要望した区間の交差点を通ると、中央分離帯で闇夜に反射板が見えた。他の交差点でもすべての分離帯に反射板が設置されていた。

 
2017423琉球新報 

 「新聞投稿に早速動いていただいて、反射板を設置していただいた県道管理の関係者に厚く感謝したい」「反射板のおかげで、夜間に分離帯に激突する事故は、減らせるだろう。ありがとうございました」と感謝の投稿をして、早速、4月23日付けで掲載された。県民の声を反映する新聞投稿の力を改めて感じた次第である。


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テッポウユリが咲きだした大石公園

   那覇市識名の大石公園でテッポウユリが見ごろだと聞いたので、散歩がてらに出かけた。日差しがよく当たっている場所は、もうよく咲いている。とっても甘い香りに付近に漂っている。
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 このユリは、沖永良部島の和泊町から球根の提供を得て花を咲かせていると聞いていた。今回は、同島の知名町からも寄贈されたという看板があった。
 テッポウユリの名所といえば、伊江島だが、22日、23日とユリ祭りが開かれるようだ。でもまだ3分咲きだとのこと。大石公園はもう少し咲いているだろう。アマリリスはもう盛りを過ぎた感じだ。
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 大石公園のユリ祭りは、今月末の29,30日だという。そのころは満開だろう。公園で出会ったおじさんが「祭においでよ。楽しいよ。ヤギを闘わせるのもあるよ」と誘っていた。ヤギの闘いは「ヒージャーオラセ」と呼ばれる。前に一度公園でも見た記憶がある。

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 ユリの咲く花壇を過ぎると、ヤギを飼っている小屋がある。まだ野外には出なくて、ほとんどのヤギは小屋の中にいた。


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 近づくとエサを欲しそうに顔を出していた。可愛いヤギだが、頭にはもう角がはえてきている。
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 ヤギ小屋には、保育園、幼稚園の子どもたちが遊びに来て、ヤギと触れ合って喜んでいる写真がたくさん掲示されている。こんな町中の公園で、気楽にヤギにふれられる場所はあまりない。親子で楽しめる公園である。

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仲尾次家の歩み

仲尾次家の「系統の歩み」を比嘉朝進著『士族門中家譜』から紹介する。

 <1世思嘉那
 1782年、台風や干ばつで上納米が欠乏、国庫の銀子が不足し、王子らが薩摩へ赴く旅費に支障をきたした。思嘉那(68歳)は銅銭16万貫文(かんもん)をもって国用に応じた。尚穆(ぼく)王は志を褒め、新家譜を与えた。
 また、1789年、徳川家斉就位に慶賀使者(96人)を遣わす費用が足りず、再び銅銭18万貫文を献じて国用に備えた。これで譜代(元来の士)に引き立てられた。享年77歳。>
 省略
 <5世 仲尾次親雲上政隆
 今帰仁間切中城地頭、那覇総横目(目付)、那覇船改め奉行(検査長)。1825年の干ばつで餓死者が続出。3千貫文を寄付し、1838年尚育王即位には国費不足のところ、銀1万貫文を無利息で貸与した。
 家譜は1854年で途切れているが、実は禁令の一向宗信者ということで、石垣島へ流罪となった。島では、台風でこわれた宮良橋(橋長50m)を私費を投じて再建。地元役人一同の放免嘆願書が王府を動かして放免。>

 仲尾次家は、干ばつによる飢饉の際や国庫の銀子不足、大和への旅費の不足などの際に、資金を寄付したり、無利息で貸与するなどした。
 本来は百姓(平民)は系図を持たない無系であるが、王府から家譜を与えられ、さらに譜代(元来の士)に引き立てられたという。

 政隆の先祖は、薩摩からきた中村宇兵衛だというが、宇兵衛もそのスーツは京都にあるという。「東本願寺沖縄別院」HPから紹介する。
 <(政隆は)那覇泉崎に生まれる。その先祖は、京都から薩摩の久志浦に移住したといわれ、代々真宗の門徒であった。4代前の中村宇兵衛が薩摩から琉球に移り住み、琉球の妻との聞に5男をもうけ、その長子が仲尾次家を称した。政隆は若くして官職につき、大和横目、那覇総横目などの要職を歴任している。そして官職の身でありながら、当時琉球で禁制となっていた真宗をひそかに信仰していた。さらに政隆は自身の信仰だけに留まらず、念仏講を結成し那覇の遊郭で遊女たちを中心に積極的に布教活動に取組んだ。
 しかし、信者が増え次第に人目につくようになり、1853年政敵によって密告され、信徒らとともに拘留され取調べをうける。結果、政隆は八重山へ無期の流刑、他の信徒もそれぞれ処罰された。配流地の石垣島では、流人の身で宮良橋を再建し、その功により赦免され11 年ぶりに那覇に帰された。享年62歳。伊波普猷(いはふゆう)は、その著書のなかで「仲尾次政隆は近代沖縄の宗教的偉人」 (『浄土真宗沖縄開教前史ー仲尾次政隆と其背景』より)と評している>。
 これによると、京都から薩摩に移り住んだ先祖は、代々真宗の門徒だったという。政隆が浄土真宗の門徒だったというのは、偶然のことではなく、先祖からの長い系譜があったことがうかがえる。

 八重山民謡で歌われた仲尾次政隆について見てきたが、政隆という人物像だけでなく、彼の家系から、当時の時代背景とさまざまな事情がわかってとても興味が尽きない。
 終わり
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石垣島に配流された仲尾次政隆

 仲尾次政隆の家系

 石垣島に配流された仲尾次政隆は、どのような家系の人物だったのだろうか。
 比嘉朝進著『士族門中家譜』から紹介する。
 <宇氏・仲尾次家――女の立ち口
 1世 思嘉那
 父は久米村の髙良仁也(ニヤー)、母は読谷間切楚辺村の比嘉仁也の娘次良(ジラー)。仁也というのは新参士や役職(地方役人)についた百姓(平民)が、叙位されるまでの無位の期間の称号。
 夫の中村宇兵衛は薩摩久志浦の人で、家は富み船を持ち、琉球から薩摩への貢納米運送を手がけ、思加那(ママ)を旅妻にした。5人の男子をもうけ、中村は3男のみを連れて帰り、薩摩の家督を継がせた。
 中村は多額の金を思嘉那に与えて帰った。思嘉那はその金を元に商売をし富豪になった。息子たちとその子孫も頑張り、富み栄えていった。>
  
  仲尾次家の1世の思嘉那の夫は、薩摩の中村宇兵衛で、琉球から薩摩へ貢納米を運搬していて、思嘉那を現地妻にしたという。仲尾次家は、薩摩人の血をひいていることになる。

 「門中のエピソード」として『士族門中家譜』は、次のように記している。 
 <戦前、泉崎町にある仲尾次家は、高さ2㍍を超す石べいが数十㍍ぐらい連らなる大邸宅で、写真に残っている。
 また、5世政隆が禁制の浄土真宗の信者だったため、石垣島へ配流となったが、家族は新造「仲尾次船」を仕立てて見舞いに行き、ついでに貿易も行ったしたたかさ。しかし、個人資産を増やしただけではなく、王府への献金や学校の建立、築橋など、もうけたお金を社会に還元した。>

 仲尾次政隆が配流された石垣島で、橋を造ったことは聞いたことがあった。配流の身分で、なぜそんな事業ができたのか、不思議に思っていた。でも家譜によれば、とても資産家だったようだ。仲尾次家が、わざわざ船を仕立てて見舞いに行き、援助するとともに、したたかに貿易も行ったという。さすが商売に長けている。
 ただし、資産を増やしただけではなく、社会に還元したという。 

 
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「フォークの日」スペシャルライブを楽しむ

 4月9日は語呂合わせで「フォークの日」。スペシャルライブが北谷町のライブハウス「モッズ」で開かれた。
  このライブは4年前から始まったが、昨年は来れなかったので2年ぶりになる。


 トップバッターの欣之介は、自作の「普天間通り」など歌った。大城よしゆきの名で歌っていた時代のヒット曲。ギターは上手いし、声もよく出る。

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 yamakoさんは、「西原街道」など歌った。初めの2曲は、弟「ひーふーみー」さんがカホーンを叩いた。カホーンを叩くその名に「もしかして」と思っていたらやっぱり。ラジオのヘビーリスナー「牛乳屋のひーふーみー」であるとお姉さんから紹介があった。

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 ユキヒロは、オリジナルの新曲「うちなーんちゅ」など歌った。この新曲は、ウチナーンチュあるある、の歌詞で、みなさんうちあたい(思い当たる)する内容ばかり。ステージを激しく動く パフォーマンスで笑わせた。


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 いつもはトリをつとめる城間健市は、4番目に登場。いつものように爆笑トークで笑わせながら「大空と大地の中で」など歌った。「この歌は声質が合わないと思っていた」と言いながら、さすがの圧巻の歌唱力である。



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 トリは今年、ユニット結成10周年を迎えた「F&Y」。ふーみさんがこの1か月間に長男、長女に相次いで子どもが生れ、お孫さんが一挙に二人誕生した。ライブサブタイトルには、「ジージーふーみ」のお祝いも付け加えられた。 このライブの主宰者・良明さんからお祝いが贈られ、ふーみさんも嬉しそう。

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 この日は、ドラム、ベース、バイオリン、キーボードが入ったバンドがバックをつとめ、モッズならではの迫力あるサウンドが魅力。F&Yはフォークナンバーに加え、昭和歌謡の「tokio」(沢田研二)を歌った。ミリタリールックのパフォーマンスが大受けだった。
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 アンコールでは、出演者がそれぞれ歌い、さらにフィナーレでは全員勢揃いで「夢の中へ」など歌うと、ステージと会場は一体となった。

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 超満員の会場は最高潮の盛り上がりだった。

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アルテで「安里屋節」を歌う

 毎月恒例の「アルテ・ミュージック・ファクトリー」が8日夜、開かれた。今月のテーマは「里」。みなさん、故里や安里など、里に関わるテーマで充実した演奏をして楽しませてもらった。
 トップバッターの「カーペンターズ」は「金武湾月夜」。なんか歌謡曲ぽい歌だが民謡だという。初めて聞いた。
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   秀子さんは、剛さんのギター伴奏で「この道」を歌いあげた。
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 宮国さんは、ギター弾き語りで「交差点」を歌った。大好きだという長渕剛のヒット曲だ。 
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 絹枝さんは、「里の秋」をウクレレで演奏した。「ピアノで上手く弾けないから」とのことだが、ウクレレですぐ演奏できるのがいいですね。
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越智さんは、ツレのピアノ伴奏で「瀬戸の花嫁」をトランペットで演奏した。のびやかな音色で、トランペットにピッタリだった。
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 タカさんは、ギター弾き語りで「約束の丘」を歌った。カッコいい。
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 私は八重山民謡の「安里屋節」を歌った。竹富島の安里屋に生れた美女・クヤマさんの実話をもとにしている曲。島に来た2人の役人の現地妻に望まれるが、2人とも断る。夫をもつなら島の男がいいと歌う。でもこれは、石垣島などで歌われる歌詞。竹富島では目差主(助役)は断るが与人(村長)ならOKという真逆の歌詞で歌われる。その詳しいことはわがブログ「愛と哀しみの島唄」で書いているので興味のある方はそちらを読んでほしい。
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 ゆったりした曲調なので、間違えずに歌い終えた。
 シニアピアノ音楽会に参加したTさんがファクトリーにも初参加。「芭蕉布」をピアノで演奏した。
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 アルテギターサークルは、今回は2人の合奏だったが、ふーみんさんが「悲しき雨音」など2曲を歌った。
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ツレはピアノ独奏で「ゴンドラの船頭歌」を弾いた。何度目かの挑戦だが、歌うようにピアノが流れていた。本人も「満足できる演奏」だったようで何よりである。
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 清美さんは、ピアノ伴奏者が来れなくなったのでギター弾き語りで「防人の歌」を歌った。ギター演奏と歌声がよく合っていて、聞き惚れる演奏だった。
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 新田さんはピアノ弾き語りで、彼女が故郷を思い出すという曲を演奏した。「スワロ―テイルバタフライ」という曲。
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 カオルさんは、ギター弾き語りで「4月になれば彼女は」を歌った。
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  カオル&タカは、ギター弾き語りでオリジナルの「夢見る安里」を歌った。ライト兄弟より早く空を飛んだとされる人物をテーマにした芝居「飛べ安里」があるが、同じテーマで作られた曲。よい曲だと大好評だった。
 ツレはピアノ弾き語りで、中島みゆきの「ホームにて」を歌った。テーマにピッタリの曲。ピアノ演奏と歌がよく合っていた。
 由美子さんは、オカリナで「里の秋」を演奏した。
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 東明さんは、ピアノで「シェリトリンド」を演奏した。
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chicaバンドは「ロード」を演奏した。チカさんが見事なハーモニカも披露し、楽しい演奏だった。
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 糸数さんは、ギター弾き語りで「昴」を歌った。病気をされる前のような、張りのあるテナーを聞かせていただいた。
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 それぞれ聴きごたえのある演奏が続き、これぞファクトリーという感じだった。
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八重山民謡「宮良橋節」に歌われた仲尾次政隆

仲尾次さんへの感謝を唄う「宮良橋節」

 八重山古典民謡に「宮良橋節」がある。最近、練習をしている。テンポの良い曲である。この歌は、琉球王府の時代、禁制の浄土真宗の信者だった仲尾次政隆(なかおし・せいりゅう)が石垣島へ配流になった時、この橋を造った功績を地元の住民が歌ったものであるされている。
 歌詞は次のような内容である。
一.仲尾次((ナコシ)主(シュー)ヌ ウ陰(カギ)ニ 
  宮良(メーラ)大川(ウーガー)ヤ 宝(タカラ)橋(バシ)カキティ 見事(ミグトゥ)デムヌ  
一.宝橋上(ウイ)カラ 通(カ)ユル人々ヤ 眼眉(ミマユ)打チ張(ハ)リティ 笑(ワラ)イフクイ
  (下略)  
(意訳)
 仲尾次(さまのお陰で 宮良大川に宝のような橋ができ 見事なようすです
宝の橋の上から 通う人々は 眼眉が生き生きとして 笑顔に満ちています

 宮良橋は17世紀ころから交通の要所として架けられ、台風等で何度も破壊され、明和(1771年)の大津波でも流された。
 <河口付近に橋が再建されたのは、明治を迎える七年ほど前の1861~62年(咸豊11~同治元)にかけてのことで、流刑人として滞在していた仲尾次政隆が資材を提供するなど中心的な役割を果たし、長さが「75尋(ひろ)」(約135メートル)、幅が「二間」(約3.6メートル)、高さが「一丈(じょう)三寸(すん)」(約4.2メートル)の木橋が架けられました。
 人びとは、その木橋の完成を喜び、仲尾次政隆の功績を称えて次のような歌を作っています。>
 「宮良公民館建設期成会」HPより紹介した。
              宮良橋、東運輸KK
          写真は仲尾次政隆を称え建立されている「頌徳碑」(東運輸株式会社HPから)

 仲尾次政隆は1810年生まれで1871(明治4)年、62歳で亡くなった。1853年密告されて八重山へ無期流刑となった。宮良橋をかけたことで赦免願いがゆるされ,1865年那覇にもどった(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)。
 政隆については、このブログでも書いたことがある。
 <琉球王国では仏教といえば禅宗か真言宗だけ、キリスト教とともに、一向宗も禁じられていた。ひたすら念仏を唱えれば救われるという浄土真宗は、薩摩藩で禁じられていた。一向宗の封建的な権威を認めない平等思想が、薩摩の支配者の意にそわなかったかららしい。だから琉球も同様、禁じられた。

 でも150年ほど昔、琉球で役人だった仲尾次政隆が一向宗を信じ、多くの信徒を集めていた。なかでも、那覇の辻という遊郭のあるところで、遊女たちに影響を広げ、短い年月に約300人余りの信徒ができたという。禁制の一向宗で、これだけの信徒を得ていたというのは、相当なものである。結局は、告訴されて仲尾次は八重山への遠島処分にされ、10年も流人生活を送ったという。>

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