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レキオ島唄アッチャー

高田渡「生活の柄」には原曲があった

  フォーク歌手の高田渡が歌ってヒットした「生活の柄」は、高田の作詞作曲と思っている人がいる。ユーチューブにアップされた動画を見ると、そのように書いている例がある。
 作詞は、沖縄を代表する詩人、山之口獏であり、その代表的な詩である。
 「歩き疲れて夜空と陸の隙間に潜り込んで 草に埋もれて寝たのです ところかまわず寝たのです 」と歌いだす。「浮浪者のままでは眠れない」と歌われるように、放浪者の心情が歌われている。そこには飄々とした雰囲気があるけれど、とても切ない哀しみを秘めている。この詩と旋律がとてもマッチしていて、この詩の世界が見事に表現されている。
 高田は亡くなったが、ユーチューブ動画へのコメントを見ても、いまだに魅了されるファンが多いことがわかる。
 ところが、この曲は、高田のオリジナルではない。原曲があるという。動画へのコメントで、原曲が存在することが書かれていて、初めて知った。
   
 1930年代頃、アメリカでカントリー・ミュージックを歌いヒットした「カーターファミリー」が歌っている。兄弟と妻の3人編成のバンドだった。1960年代のアメリカでのフォークリバイバルに影響を与えたといわれる。
   
 かれらのナンバーのなかの「when i'm gone」が原曲である。「私が去っても」というような意味らしい。
 幸い、ユーチューブにアップされている。聞いてみると、メロディーはそっくりである。しかも、「生活の柄」のなかの「歩き 疲れては 草に埋もれて寝たのです」という部分も原曲通りである。
  もしかしたら、「when i'm gone」もオリジナルではなく、古い伝統的な音楽の原曲があるのかもしれない。
 山之口獏の詩と驚くほどぴったりと合っている。よくぞ、高田渡がこの曲に目をつけ、歌詞を載せたものだと感心する。
 「when  i'm gone」は、ユーチューブで見ると、「生活の柄」だけでなく、ほかの歌詞を載せて歌っている方もいる。
 この詩と旋律がぴったり合って、山之口獏の世界を表現している点では、「生活の柄」がもっともすぐれていると思う。
 そいう点では、高田渡のオリジナル曲とは言えないが、高田渡編曲というだけでない、卓越した創作力の産物といえるのではないだろうか。
   





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時代を駆け抜けた宿毛の人間群像、その1

  高知県宿毛市の幕末から維新にかけての歴史を見てきたが、特に目を引くのは、土佐の西端の宿毛から、激動の時代に、高い志しと熱い思いをもち、土佐にとどまらず日本の各地、さらには欧米にまで駆け抜けた人士を輩出してきたことである。
すでに書いた宿毛の歴史のなかで、それぞれ登場した方々ではあるが、必ずしもその人の全体像を明らかになってはいない。幸い『宿毛人物史』が発行され、宿毛市ホームページで公開されている。それぞれ人物像を知ると、驚くような活躍ぶりでとても興味深い。その人物像と業績について個人ごとに改めて見ておきたい。その多くは『宿毛市史』『宿毛人物史』からの紹介である。ただし、個人の業績の評価については、さまざまな角度の見方があるので、引用は事実関係だけにとどめたものもある。

 伊賀陽太郎(1851~1897)
 宿毛領主、諱は氏成。嘉永4年(1851)宿毛11代領主、山内氏理の嫡子として生まれた。
伊賀家はもと稲葉姓を名乗り、美濃の国(岐阜県)に住んでいた。先祖・郷氏が、山内一豊の姉・通を妻とし、これより安東姓を名乗る。その子、可氏は叔父・山内一豊に仕え、関ケ原の戦いに参加した。一豊の土佐入国に従い、宿毛に6200石を賜り移った。それ以来明治維新まで12代、260余年間、土佐西辺の鎮めとして続いて来た。土佐藩では山内姓を名乗っていたが、明治維新の際に旧姓の伊賀に改めた。
  伊賀陽太郎   
        伊賀陽太郎
 陽太郎は、幼少の頃から学を志し、慶応4年(1868)には京都に遊学した。この時、竹内綱が補導役として従った。先に京に出ていた岩村通俊は、陽太郎に会うと「今は正に維新前夜である。のんきに読書などで時を過ごしている時ではない。みずから戦場に臨まれて王事に力を尽くさなければならない時節だ。」と述べた。陽太郎は「それこそ我が意を得た言葉だ」とすぐにも東征の官軍に身を投じようとしたが補佐役の竹内綱は、邑主氏理の許可がないからと制止した。陽太郎は致し方なく、側役に藩主山内容堂を説かせて、この許可を得た。藩命を受けて、補佐役竹内綱、近習林有造など側近を率いて、北陸へ出陣した。
明治維新後、知識を世界から求める必要を痛感し、自費でイギリスに留学を志した。明治の始め、洋行熱は盛んだったが、その多くは1、2年の短い期間だった。陽太郎は10年にわたりイギリスにとどまり、政治、経済を学んだ。帰国すると、農商務省に入ったが短期間で退職した。
 彼は新日本の建設は先ず教育から、の信念に燃え、高等商業学校の教諭となった。だがいくばくもせず病気で退職した。宿毛に帰って塾を開いて青年の教育に当った。
明治30年(1897)5月3日、47歳で死去した。

 岩村英俊
 宿毛邑主・安東氏(後の伊賀氏)の臣である。岩村家は遠祖平教盛から出て、その子孫が土佐に逃がれた。後に俊忠の子俊重は長曽我部元親に仕えて香美郡岩村(現在の南国市)に移り住み、姓を岩村と改めた。
 山内一豊が入国し、俊重の孫、岩村俊顕は一豊の家老、安東節氏に仕えることになって、宿毛に移り住んだ。英俊は、槍術の達人で、和漢の学に通じ、文武両道に秀でていたので重く用いられた。10代氏固、11代氏理の2代に仕え、命を受けてたびたび上阪して財政の確立につとめた。嘉永元年(1848)には命によって江戸におもむいたが、その時もまた功により十石を加増された。
 激動の幕末、土佐西部の重鎮として尊王擁夷の大道を歩いた。維新の役はもとより、維新後においても、幾多の人傑を宿毛より出し、岩村一家からも通俊、有造(林)、高俊をはじめ歴史をかざる人物が生れたのである。
明治維新後は居を東京に移し、15年8月、79歳で没した。

小野義真(1839~1905)
 実業家。通称恭一郎、はじめ立田春江、後に立田強一郎といい、小野生駒ともいった。天保10年(1839)4月8日宿毛に生まれた。小野家は代々伊賀家に仕え、宿毛大庄屋を勤めた。 
 明治維新後、新政府に出仕して大蔵少丞となり、ついで土木頭となって大阪港の築港や淀川の改修等にその敏腕を振った。官吏として生きるよりも、身を転じて実業界に転じようと明治7年(1874)1月に官界から去った。
 退官後は三菱の顧問として岩崎弥太郎の補佐をした。弥太郎は彼を信頼し、重大事業はすべて彼の意見を聞いたという。三菱での彼の発案した事業で有名なのは小岩井農場の建設がある。岩手県盛岡市の郊外に2600余町歩の面積を持つこの農場は日本一の大農場といわれた。当時は農家で1,2頭のみ飼育している家庭畜産でしかなかったこの時代に、広茫たる原野に数千の南部馬を放牧して、わが国馬匹の改善と奨励につとめた。   
    小野義真

    小野義真

 明治10年(1877)西南戦争が起こると、弥太郎を説いて汽船を購入させ、東京より戦場への兵器弾薬食糧の輸送を全部一手に引受けさせ、ばく大な利益を得て、三菱会社の基礎はこの時に初めて定まったといわれている。
 明治5年東京横浜間に開通した汽車はその後西へ西へと歩を延ばしてはいるものの、東へは一歩も延びず、単に東海道線の建設に明けくれていた。このままでは全国に鉄道の普及するには何百年かかっても出来ないことに目をつけ、私設鉄道の設立を考え出したのが岩倉具視であった。岩倉に抜擢されて日本鉄道株式会社設立主任に就いた。この会社、東京、青森間に私設鉄道を建設することを目的としていた。
 設立には困難を極めたが、小野は日夜奔走し、政府に保護を願い、民間資本家を訪れて出資を乞うなど手をつくして、資本金1000万円(現在の数千億円)の大会社を設立することに成功した。

日本鉄道株式会社が設立されると、社長に就任、さっそく東北本線上野、青森間の鉄道建設工事を開始した。東北本線は東海道線、山陽線と共に本州を縦断する重要な大幹線の一つである。工事上幾多の難関はあったが、東北線は開通した。21年間社長の椅子に座って経営にあたった。政府は国策によって私設鉄道を買収して、わが国の鉄道をすべて国有化することになり、その第一に重要幹線東北本線の買収を開始した。彼は国策のよろしいことを認めて喜こんでこれに応じた。日本鉄道交通の発展に貢献した。明治38年(1905)5月9日没す、67歳。



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ウクライナ問題。ロシアだけ非難するのはおかしいという声について考える

  ロシアによるウクライナへの侵略に多くの人々が心を痛め、ロシアは戦争をやめよ、ウクライナに平和をという声が高まる一方で、アメリカやウクライナの対応にも問題があった、どっちもどっち、ロシアだけ非難するのは一方的だ。マスメディアの報道は偏っているといった声がある。ウクライナでの今日の事態をどう見たらよいのか、判断の基準となるのは国際法や国連憲章だと思う。その視点で考えてみたい。

 ◆ウクライナの対応にも問題がある。
 ウクライナがNATOに加盟しようとしてロシアに脅威を与えたから、ロシアの安全を守るためにやむを得ないという意見もある。本来、軍事同盟であるNATOは解消すべきものだと思う。ソ連の崩壊後、NATOが東方に拡大したこと。さらに隣国のウクライナまで加盟することにロシアが危機感をもったことは確かだろう。
 しかし、脅威があるからいって、隣国を武力侵略してよいとはならない。脅威があるから先制攻撃してよい、となれば世界は収拾がつかない。果てしなく戦争が激化し、第3次世界大戦、はては地球の破滅までいきかねない。
 二度にわたる世界大戦を経て、再びこれを繰り返さないために、つくられたのが国連憲章である。国連憲章は、各国の領土保全と独立を守り、武力による威嚇と武力行使を禁止している。国際紛争は平和的手段で解決することを義務付けている。だから、国連総会特別会合ではロシア非難決議を採択したのである。

 ◆アメリカも再三、侵略を行ってきた。
 アメリカが戦後、ベトナム戦争やイラク戦争を繰り返してきたことが、国際法上も許されない侵略であることは間違いない。だが、アメリカが侵略をしたからといって、ロシアの侵略が正当化されるものではない。ロシアにしても、戦後、旧ソ連時代にハンガリーやチェコスロバキアへの武力干渉、アフガニスタンへの侵略があった。どの国でもあっても侵略戦争は国際法や国連憲章に照らしても許されない野蛮な行為である。

 ◆ウクライナとアメリカ側からの一方的な報道ばかりで、ロシアについての報道が少ない、ロシア側の主張が公正に報道されていないという意見がある。
 ウクライナ側からの報道が多くて、特に民間人の被害、虐殺などが詳しく報道されていることは事実である。戦争にさいして当事国の主張が互いに相反することはいわば当然ではある。問題は、それらの報道、主張はどちらの言い分が事実にたっているか、正しいのかを見極めることである。映像で映し出されるウクライナの戦争被害の現実は、当初、ロシア側は「攻撃は軍事施設などに限定しており、民間施設は攻撃していない。ウクライナの自作自演」などと主張していた。だがいまとなっては、民間住宅、病院、学校、鉄道の駅、劇場、商業施設への無差別攻撃は大規模であり、否定しがたい事実である。
 また、ウクライナの民間人虐殺について、戦争には犠牲がつきものだから、という意見もある。しかし、戦争だからなにをやってもよいということにはならない。戦争であっても守らなければならないルールがある。民間人の殺害は、ジュネーブ条約など国際人道法に反する犯罪行為である。また、化学生物兵器なども国際法で使用が禁止されている。
 
 ◆プーチン大統領の核兵器使用発言について
 プーチン大統領は核兵器の使用もあるという脅しを加えている。核兵器は、大量破壊兵器の最たるものであり、その使用は国際人道法の原則によって禁止されている。核兵器禁止条約では、核兵器の保有・使用を禁じているだけでなく、核による威嚇も禁止している。
 日本でも世界でも「ロシアによる核兵器の使用を絶対に許してはならない」という声と運動が広がっている。
 改めて、プーチン大統領とロシアは、ウクライナへの侵略を止め、平和を回復すること、いかなる事態であっても核兵器は絶対に使用しないこと求めたい。

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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その8

  選挙干渉
  第1回帝国議会は、明治23年(1890)11月25日に召集された。政府提出の予算案をめぐって、当初から与野党が厳しく対立した。これを調整するため議長中島信行、予算委員長大江卓、請願委員長片岡健吉ら9名で予算審査委員会をつくり交渉の結果、妥協案が賛成157、反対125で成立し解散を避けることができた。
 山県内閣はこの譲歩によって退陣し、松方正義が新内閣を組織して24年12月21日第2回議会が召集されたが、野党は政府の軍艦・製鋼所設立費の予算を否決し、政府攻撃を強化したので議会は12月25日解散となり、翌25年2月15日に第2回総選挙が施行されることになった。
 内務大臣品川弥次郎が中心となり、全国の選挙区で官憲が選挙干渉にのりだし、野党側もこれに対抗したので、いたる所で暴力と暴力の衝突が行われ、遂に各地で死傷者がでて我が国選挙史上に汚点を残した。

高知県では、その干渉が最も露骨になり、自由党と与党である国民党との抗争が激しかった。当時の高知県知事・調所(ずしょ)広丈も、警察部長・古垣兼成も鹿児島県人であり、最も激戦地であると予想される第2区高岡郡長には、同県人の中摩速衛を起用して、選挙干渉のために万全の備えをとったのである。高知県下の立候補者は第1区では前回の候補者竹内綱が実業会に入り辞退し、自由党(24年3月20日「立憲」をけずり自由党と改名)の武市安哉と国民派新階武雄、第2区では、自由党林有造・片岡健吉、国民派片岡直温・安岡雄吉が立ち、第3区では植木枝盛が1月25日病死したので西山志澄が枝盛の養嗣として植木氏を称して代わり、国民派弘田正郎と対立した。第1区と第3区とは自由党支持票が多数であることは前回の総選挙で明らかであるが、第2区の林・片岡を倒す事に政府側の目標がおかれ、したがって干渉が最も積極的に行われたのである。

各地の警察官は公然と有権者に向って、国民党候補者への投票をすすめ、抗弁する者には「陛下の信任せられる政府に反対する議員は不忠である。これを選挙することは不敬きわまることだ」と叱責し、国民党壮士の乱暴を見逃がしたりした。自由党壮士も又これに対抗し争いが各地でおこり、この為死傷者まで続出した。この頃は保安条例がしかれて、兇器を携行して通行することは禁止されていたが、この適用を受ける者は自由党員ばかりで、国民党員は兇器携帯が黙認されていたので自由党員は自衛上鍬の柄を杖として闘ったという。

 幡多郡下の状況
 このような選挙騒動は、第2区であった幡多郡下でも全く同様であった。宿毛等のようにこぞって自由党の所もあったが、両党とも中村で大集会を開催したり、各部落では大きな旗を作って宴会や集会、選挙応援、時には田植えにまで旗をたてて気勢を挙げた。当時郡下の状況を(橋田庫欣資料による)中村の桑原良樹談として次のように書いている。
 「国民党は百笑(どうめき)の宮崎嘉道が中心となり、…特に宿毛に対する本陣は押の川の押川光躬であった。自由党の方は、不破の人々や楠島の川村勇馬・川村泰渡、江の村の土居三白、上の土居の立石治内、有岡の熊岡泰次・橋田宇太郎・宗崎重寛、山田の江口準や宿毛の人々であった。中村の四万十川原で国民党は上に、自由党は下に集って大集会を開いて気勢をあげた。その時、西は宿毛より東は佐賀、北は川崎方面から壮士が集まって来た。自由党は赤い大きな旗を川原に立てた。国民党は、国民党と書いた旗を川原に立て、酒樽をわって酒を飲み、花火をあげ、大砲まで打って気勢をあげた。子供をつかまえても『自由か、国民か』と云って聞いたくらいであった。」
 各地の演説会では、ヤジ投石が行われ、23年11月には自由党の杉内清太郎が殺害されたのをはじめとして、25年の第2回選挙の時には川村勇馬襲撃事件、土居三白襲撃事件、立石治内襲撃事件等が次々に起った。

  宿毛で激しい争い
 宿毛の状況について『林有造伝』では「生活地獄」と題して次のように書かれている。「宿毛においては有造の出生地であり、しかも選挙地盤は幡多全域と吾川、高岡各1郡だから官憲と国民派は連絡をとって宿毛に大々的に圧迫を加えた。千余名の壮士と博徒を狩り出して宿毛の交通をしゃ断してしまった。こうして一方には自由党壮士の来援を遮り、他方では宿毛を中心として、選挙の妨害を行なったのである。
 この遮断の結果は宿毛全町民に大脅威を与えた。貨物の運搬が杜絶したので食粗の運搬ができなくなったのである。米に窮し、塩に窮した。ここにおいて自由党も百姓や有志を集めて国民派の包囲にあたらせたが、こうなると益々糧道は塞がるばかりで、15日の投票日が来るのを待ちかねた。国民派を駆逐する希望より米塩の補給を希求しはじめた。」

  こうした選挙干渉のもとでの自由党と国民派の激しい争いのなかで、宿毛では死亡事件が起きた。
 明治25年2月3日には国民党の菊地儀三郎が伊与野で鉄砲により射殺されるという事件が起きた。その前日、国民派の和田克次が同志である中村(現四万十市)の菊地儀三郎、武田利太郎を連れて橋上(現宿毛市)から夜半、宿毛に入り警戒線を突破して弘見(現大月町弘美)方面に向う途中、伊与野(現小筑紫町伊与野)で自由党壮士に襲撃され、儀三郎は即死、利太郎は重傷、和田は逃れる事ができた。
 選挙の前日、2月14日には中角村(現宿毛市中角)に国民党が来襲し、更に宿毛へ大勢で押しかけてくるとの情報があった。宿毛は総動員でこれを迎え撃つ準備をした。明けて15日の午前1時頃約一千名の国民党の壮士が銃や刀を持ち、巡査を先頭にして市山峠を越えて和田にやって来た。この混乱の時、和田村(現宿毛市和田)役場に入って来た細川速水郡書記は、役場の庭で自由党の壮士の為に切り殺された。
   林有造
     林有造

  不正選挙で提訴
 2月15日に選挙は終ったが、自由党も国民派も開票の結果が判明するまでは対峙の陣容を解かなかった。第2区の開票は須崎の高岡郡役所で行われた。
 開票所においても、幡多郡和田村の投票の中に、不正があるといいだし、自由党の立会人が躍起になって、不正のない理由を主張したけれど、官権が国民派の苦情を承認したので、和田投票所の投票が無効となってしまい、2月25日に再選挙を執行する事になった。
 開票の結果第1区の武市安哉、第3区の植木志澄は当選確定、問題の第2区で国民派の片岡直温が854票、安岡雄吉が844票で当選し、自由派は片岡健吉が771票、林有造が773票で落選した。片岡直温と安岡雄吉の当選は3月3日告示されたが、この開票に不正があったことが、片岡健吉と林有造の告訴によって暴露されたのである。
 まず高知県自由党の代言人(弁護士)および公証人一同が原告となって、第2区選挙長中摩速衛(高岡郡長)以下立会人を相手取り選挙長以下が、詐偽の行為があったことは、刑法第235条に該当するものとして、高知地方裁判所に告訴すると同時に、後日の証拠として投票用紙を厳重保管するよう提訴した。
 提訴の要点として原告片岡健吉は879票の得点あり、原告林有造は875票の得点あり、被告片岡直温が実際の得票746票の上に健吉の得票108を移して854票とし、被告安岡雄吉が実際得票742票の上に、有造の得票102票を移し844票として、当選を決定した事は不当であって、第1号から62号迄の証拠書類をもって実証するというのである。

  高知地方裁判所では、最初この提訴を受理して審議を進める模様だったから、自由派は公判の来るのを待っていた。しかし裁判所側は大審院や検事正に伺書を差出してこの指令を待つという態度だったから、ぐずぐずしていると当選無効提訴期限が切れるので、3月28日片岡健吉、林有造を原告、代言人山下重威・藤崎朋之・西原清東を代理人とし、片岡直温と安岡雄吉を被告として、大阪控訴院民事第2部長十時三郎に宛て選挙無効の裁判を求めた。

  片岡健吉
             片岡健吉
  
林有造・片岡健吉当選確定
 片岡健吉と林有造の告訴は大阪控訴院から大審院、更に名古屋控訴院に移されて審理の結果、明治26年(1893)4月6日に2人とも当選が認められた。国民派の片岡直温と安岡雄吉の2人はこれを不当として大審院に上告したが、6月6日上告の理由なしとして却下され、世論をわかした選挙干渉問題は厳しい世論と法の前に解決した。
 松方内閣の選挙干渉は、第3回臨時議会で問題化され、貴族院では緊急動議によって政府の反省を求める建議案を可決したが、衆議院は、河野広中の政府問責上奏案を否決した。内務大臣品川弥二郎は朝野の批判に耐えかねて、辞職していた。議会終了後、松方内閣は瓦解、伊藤博文による第2次伊藤内閣が組織されたのである。

この第2回選挙は、大きな禍根を残した。選挙後も敵味方の感情を捨て切れず、自由派は国民派を犬猫とののしり、国民派は自由派を国賊と呼んで、商取引きにおいても取引きをしなくなり、商売が不振になったりした。甚だしいのは親しい人であっても交際をしなくなって口さえきかなくなり、有志が何とか調停に乗りだしたがその有志もどちらかの党派に属しており、両派の反目を解決するにいたらなかった。4月上旬谷干城が高知までやって来て調停に乗リだした。谷はもともと国民派の巨頭であったが、選挙に対する態度は公平であったし、両派のおもだった有志と会見し、党派的感情にとらわれず調停に努力したので、反目もしだいに薄らぎ平常の取引きをするようになった。

以上で、幕末から明治にかけての宿毛の歴史の概略は終わる。資料について、ありがたいことに『宿毛市史』がインターネットで公開されていたので、とてもありがたかった。引用文献の記載のない場合は、ほとんど『宿毛市史』の要約によるものである。
  この後、宿毛の輩出した個々の人物について、個別に紹介する予定である。

終わり  2022年4月

 


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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その7

  愛国公党と民選議院設立建白書                                        

明治10年(1877)8月立志社の獄によって、社長片岡健吉以下の幹部を奪われたが、板垣はひたすら自重を求め、西野友保を仮社長に、島地正存を仮副社長として社務を担当させた。8月25日には立志社機関誌として、『海南新誌』と『土陽雑誌』が刊行され、地域的な各社も立志社にならって次々に結成された。
 明治11年9月には全国各地の結社の有志や委員が大阪に集り、「愛国杜再興会議」を開いた。土佐から立志杜、有信社、南洋社、共行杜、宿毛合立社の代表が出席している。『自由党史』によると宿毛合立社の林包明・浜田三孝が委員として出席している。12年3月27日第2回愛国社会議がもたれ、全国18県21社有志84名が参加しておリ、宿毛合立杜より林包明・廣瀬正献が参加した。

同年11月7日第3次愛国杜大会が大阪江戸堀で開催され、片岡健吉とともに宿毛合立社代表として林包明が出席した。
 明治13年3月15日、愛国社同盟27社の代表114名によって「愛国杜第4期会」が開催され、宿毛からも浜田三孝・林包明が代表として出席し、愛国社を改め、「国会期成同盟」とし、国会願望書起草委員・審査委員を推せんし、4月9日に会議を終えた。             (『自由党史』平尾道雄著『自由民権の系譜』)

このように南国土佐の山間より起った自由民権運動は、立志社より愛国社へ、そして国会期成同盟へと発展し、国会開設願望書に署名したものは、2府23県で請願者8万7千余人の総代97名(内高知県総代44名で約半数をしめている)に及んだ。この願望書を片岡健吉と河野広中が太政官に出頭し提出したのは、明治13年4月17日であった。しかし太政官より元老院、内閣へ回され、5月8日願望書は却下された。
 そこで国会期成同盟を改組して「大日本国会有志会」と改め、東京に本部を置き、国会開設願望と共に地租軽減・条約改正を目標とする国民大衆運動として強化に努めた。

   
自由は土佐の山間より

       自由民権記念館の前に立つ「自由は土佐の山間より」の碑

一方政府部内でも大隈重信等は早期開設を主張するようになり、単独で有栖川宮に進言した。この大隈の行動はいたく他の参議たちを刺激して国会開設にふみきらせ、こうして明治14年(1881)10月、来る23年(1890)を期して国会を開設する詔勅が下った。

 選挙運動
 憲法が発布されたのと集会条例の緩和によって各政党の遊説は活発になった。有造等は板垣邸で会合協議し、4月16日から、竹内綱、植木枝盛片岡健吉林有造の各候補者は手分けをして、各選挙区を遊説した。各地を歴訪して有志、有権者を集め小宴を催しながら、候補者と有権者の融和を図ったのである。有造はまず片岡の応援に片岡の選挙地盤を回り、5月3日高知に帰り、十数日後、片岡と幡多全域の遊説を試みた。その後有造は伊予を回って大阪へ出ている(林有造伝』)。
 一方国民派も指導者谷干城が明治23年1月1日帰県し、高知市を中心に演説会・懇親会を開催している。中村での演説会には聴衆1,000人余りを集めており、中村では国民派支持者の多かった事を伺い知ることができる。
 第1回の衆議院議員の選挙を前にして両派は激しい選挙の前哨戦を展開していたのである。

  第1回総選挙で自由党勝利
 待望の国会を控えて明治23年(1890)7月1日には衆議院議員第1回総選挙が行われた。当時の選挙法は人口12万に付き議員1名の標準で、郡をもって選挙区画の基準としたもので、高知県は3選挙区に分れて定員は4名、庚寅倶楽部に属する自由派とこれに対抗する国民派の候補者によって票が争われたが、開票の結果は次のとおりで自由派が完全な勝利を治めた。
 第1区(高知市・土佐・長岡郡) 当選 竹内綱(自)1288票
 第2区(吾川・高岡・幡多郡)  当選 片岡健吉 1397票
                 当選 林有造  1323票
 第3区(香美・安芸2郡)    当選 植木枝盛 1202票

1区は票数の9割、3区は8割の得票という大差をつけた。2区は接戦となり500票前後の差をつけて自由党が勝利した。高知県人は、他府県から立候補して当選した人たちがいる。中島信行は神奈川県で、中江兆民は大阪府、大江卓は岩手県である。なぜ他府県で立候補したのか。
 宿毛生まれの大江は、岩手県第5区を選挙地として選び、衆議院議員に当選した。彼が岩手県を選んだのは、かつて土佐挙兵計画に参画したとして、岩手監獄に収監された(立志社の獄)。その際、岩手県民から少なからぬ尊敬を受けて、総選挙に当って熱心に県民の一部から立候補を勧められたからであった。
 当時、国事犯といえば一般に罪人と見る者は少なく、むしろ男子の名誉として尊敬する者が多かったという。大江・林が岩手の獄にいることが一般県民の知る所となった際、こういう天下の名士が岩手県にいることは、我郷党のため名誉とすべきであるという声さえ聞かれたという。
 「それで、いよいよ総選挙という事になり、県民中の有志が直ちに上京して大江の立候補を促したのである。彼が見事当選の栄冠を勝ちとったのは、実に岩手県民の熱意の賜であった(『大江天也伝』)

高岡郡塚地村(現土佐市塚地)生まれの中島信之は、阪本龍馬の海援隊に加わり、維新後ヨーロッパに留学し、神奈川県令など勤めた後、自由民権運動が高まると自由党結成に参加し副総理となった。自由民権運動を弾圧する保安条例によって横浜へ追放された。総選挙で、神奈川県第5区から立候補した。
 高知市生まれの中江兆民は、自由党旗揚げに参加し、党発行の新聞「自由新聞」社説掛となり、日本出版会社を設立するなどしていたが、やはり保安条例により東京を追われた。明治21年(1888)に大阪で創刊した「東雲新聞」の主筆を勤めた。総選挙では大阪4区から立候補した。


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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その6

 西南の役おこる
 板垣退助はともに野に下った副島・江藤・後藤と相談し、人民が挙国一致の精神を発揮し、国家民生の隆昌をはかるためには、公議世論の制度を確立し、人民が国家と憂戚を共にする道を開かなければならないということになった。明治7年(1874)1月、愛国公党を結成。本誓書名の式を行った。署名したのは副島、後藤、板垣、江藤、由利、小室、岡本、古沢、奥宮の9人である。うち5人が土佐出身である。
 民選議院設立建白書を17日、左院に提出した。それは自由民権の出発点になった。
民選議院設立の建言だけでは薩摩・長州藩出身者による専制政府を倒し、立憲政体を実現できないことを知った愛国公党の指導者たちは、郷里に帰って世論を喚起し、人民の勢力を強大にし、政社を起こし、これを合同して全国的大政党を組織することを決意した。土佐では、帰国した板垣は片岡・林有造・谷重喜らと7年(1874)立志社を設立した。
   西郷隆盛終焉の地の碑、かごしま市観光ナビ
               西郷隆盛終焉の地の碑

 立志社と国会期成同盟
 明治7年4月10日、片岡や林の協力を得て、帯屋町の旧兵営で「立志社」の発会式をあげた。「士族授産によって生活を安定し、学校を設立して新しい教育を行ない、没落士族を救済し、自由民権運動を高める」ことが趣旨であった。
明治8年(1875)2月22日、高知立志社は、自由民権運動を全国的に拡大するため、大阪に愛国社創立会議を開催したが、板垣が政府の勧誘に応じて、3月14日参議に復活した事によってこの運動は断絶し、愛国社創立は失敗した。
一方、佐賀の乱をはじめ熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が続発し、士族の反政府運動は治まらなかった。
土佐立志社の人々は佐賀の乱の時も江藤新平に同調せず、相つぐ士族反乱にも反応しなかったのは、指導者の板垣退助が立憲政治実現を目指して血気にはやる人々を抑えて来たことと、土佐の内部的不統一という事情等があリ、なかなか実力行動にでられなかったのである。
 薩摩では、明治10年2月14日西郷を擁して挙兵し、西南戦争が勃発した。
 西郷の挙兵の報を聞いた板垣は、東京の自宅に後藤象二郎、林有造、大江卓、竹内綱、岡本健三郎らと会合して対策を協議した。林は「雁の味がするぞ」(痛快の意)と叫んだという。『懐旧談』(林有造)によると「これ実に天与の好機会である。この機会に於て後藤の窮境を救い、彼をして乾坤一擲の大芝居を打たしめねばならぬ。」と心密かに考え、林は銃器、弾薬の運動に着手し、大江は後藤、板垣、陸奥宗光の間を往復して奔走した。
 その頃陸奥宗光の屋敷が木挽町にあり、そこへ板垣、後藤、陸奥、岩神、林、大江等の有志が集り、民選議院設立の事について話し合う一方、裏面では挙兵計画もたてられていた。
 
 立志社は、林有造を迎えて幹部が秘密協議会を開いた。
 林はその挙兵計画を説明し、一同の賛成を求め、片岡も決心し立志社はいよいよ兵を挙げる方針を決めた。
挙兵のためには兵器を充実しなけれぱならない。林は岡本健三郎(元大蔵大丞)に銃器購入について相談をし、岡本は林の依頼を受けてこの事を竹内綱に話した。竹内は知り合いであるポルトガル人ローザに相談した。
 「スナイドル銃」3,000挺の購入契約が成立したのは3月のことである。3,000挺で45,000円資金は、かねて士族授産のために払い下げを受けた白髪山の伐採事業がうまく軌道に乗らず、再ぴこれを政府に買いあげてもらう交渉を進めその代金15万円の下付を予想し、そのうちから銃器の購入資金を捻出する計画であった。立志社に対する政府の警戒も厳しく誉り、予期した白髪山代金も容易に下付されなかった。
 林は大阪で中村貫一に委細の事情を話し、岡本と協力して銃器を準備してもらいたいと頼み、土佐人で銃砲弾薬類の商売をやっていた中岡正十郎に、2万斤の鉛を土佐に送るよう命じた。

 立志社員の逮捕
 西南戦争は、谷干城(高知出身)が司令官となっていた熊本城は2か月にわたって固守せられ、官軍は増援され、西郷軍の敗色が濃くなりつつあった。
 一方、立志杜社長の片岡健吉は「世評」を気にして武器購入計画を見合わすよう林に伝えるが、林は承諾した旨の虚報を送った。しかし、志をかえず、白髪山代金の件で、大隈大蔵卿に会って交付促進を訴えた。だがこの頃には、武器購入と代金払下げなど立志社の動きは探知されていたようである。(日本政治裁判史録(明治前)による)
 立志社員が相次ぎ捕らえられた。
 林有造は7月20日高知をたち、東京に来て8日、竹内綱の屋敷でローザと会見しようとして人力車で門を出ると同時に警視庁に拘引された。
 18日には片岡健吉は自宅から引致され、副社長谷重喜以下、立志社員13名、古勤王党メンバーを加えて15名が一網打尽、東京へ護送された。
 9月西郷の城山自刃で西南戦争が終結し、大久保内務卿の実権が一段と強大になると、追捕の網も広がり、翌11年4月には竹内綱が横浜で検挙され、5月中村貫一、大江卓と岡本健三郎が拘引された。

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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その5

  自由民権運動に参加

 徳川幕府の時代が終わり、明治新政府が生まれたあと、高知では自由民権運動が始まることになる。宿毛出身の人士の活躍は注目すべきものがある。
 明治6年(1873)、政府内で朝鮮派遣をめぐる問題で敗れて西郷隆盛板垣退助が鹿児島、高知に帰った。西郷は私学校を興し、中央政府と対立し、薩摩の動静は緊迫してきた。西郷が果たして兵を拳げて中央政府に迫るかどうかが焦眉の問題となっていた。

 西郷と会談した林有造
 板垣退助は、腹心である林有造を鹿児島に潜行させ、西郷の動静を探るよう命じた。鹿児島でのようすは『旧夢談』(林有造)によれぱ、次のようである。
 江藤新平や香月桂五郎(かつきけいごろう)らはたびたび西郷を訪ねたが、西郷はいつも留守だといって会わなかった。有造は樺山の案内で西郷に会った。

 <私はその時、今日は決して議論をしないつもりでいた。…挨拶を取り交して居る間に…私は『この政府というものは誠に困ったものでござるネヤ』と何の気なしに言ったのである。するとこれを聞いた西郷は、何と思ったものか、突然スッと立ちあがり、ツカツカと私の前に来てドスンと坐った。そして威儀を正し、厳然として私に云った。『只今、あなたはこの政府は困ったものであると云われたが、それはどういう意味でごわすか。』と詰め寄ったのである。
 私はハタと詰まらざるを得なかった。これは何とした訳であろうか、少しばかり間を置いて私も負けずに言った。『あなたは現に陸軍大将にして参議ではないか、且つ近衛都督という重大な職責を持っておられるではありませんか。それを自分の意見が容れられないからといって勝手に職をむなしゅうして国へ帰るという法はない。その不届千万なあなたを維新の元勲西郷であるからといって罰することができないというのは、何たる不心得であるか。政府は国家権力の集中する所である。その政府の威令がかくまで行なわれぬということは、誠に困った事ではないカヤ。』と論じた。
 西郷は両手を拳げて頭を抱え『ハハゝゝゝ』と天地に響く大笑をして元の座に帰り、それから非常に親しく話をしだして色々の事を打ちあけた。私は今だにその時の西郷の心持ちを計る事ができない。人の荒肝を取ろうというのであるか、それとも他に意味があっての事であったか、到底私等の考え及ぶ所ではない。
 いろいろと話をした中に、自分は次のように述べた。『今日の形勢はもはや1日も猶予する事はできない。で自分等は兵を土佐に挙げて、直ちに大阪鎮台を衝き、京都に攻めのぼろうと思うのである。あなたは鹿児島の兵を率いて熊本城を落とし、一方兵を分って馬関に上陸し、一路中国を攻め上られたならば、天下の志士は翕然としてあなたに集まる。一挙にして天下の形勢を制する事が出来るであろう。』と論じたのであるが、西郷は黙々としてこれに答えなかった。…

『あなたは何でも薩摩の一手を以てすれば天下の事成らざるなしと云うお考えのようであるが、それは余りにも自信に過ぎているといわねばならぬ、凡そ兵家の事は驕慢を戒むるにある。薩一藩を以て天下を動かすに足るという自信は結構であるが、更に同志があるならぱこれと結び、東西相応じて策の万全を期するの優(まさ)れるに若くはない。優柔不断、あのような政府に対して、板垣を始め土佐人士は袂を払って起つの気慨を持っているのである。この際は宜しく薩土連合の勢力を以て政府に当るのが良策ではあリませんか。』と自分も熱心に説いていった。しかし乍ら西郷は遂に明答を与えなかった。西郷の考えでは、木戸は薩摩を攻めようとする気持があるけれども、これを決行できないのは、一に土佐の応援を恐れているからである。でこの際土佐が局外中立の意向を示したならば、木戸は必ず薩摩征伐を断行するであろう。その時は西郷の方寸によって事を決しようというにあったらしい。で色々話をした結果、薩土連合の契約は成立しなかったけれど、自分は西郷が万一の場合には断然兵を挙げる意志のあることを確かめることができた。

         1西郷隆盛

     西郷隆盛
  その時に西郷は突然『貴県で事を挙げるとなると同志はだれらですか。』と問うた。自分は直ちに筆紙を借りて、
 林有造、大江卓、片岡健吉、岩神昂、谷重喜、池田応助、竹内綱、山田平左衛門
 佐田家親、岡本健三郎、大石彌太郎、中村貫一、川村矯一郎、藤好静、松村克己
 と書いた。西郷は一応目を通して『君は自分の名を一番先に書いたがなぜか。』と尋ねた。

自分は『土佐において事をなすに林有造の右に出る者はない。』と返答し、ついで西郷に向って『薩摩には野にある者、官にある者、色々あるが、その中でおも(い)立つ者を書いて下さらぬか。』と云った所が、西郷は筆を持って紙片に「芋連」と書いた。そしてその下に西郷、桐野、篠原、櫛部等5、6人並べて書いた。それから「腐れ芋連」と書いてその下に、大久保、川路等3、4人の名前を書いてくれた。この書附けは自分が携えて帰って来たが、いつか紛失したものと見えて、その後私の手元には残っていない。」(林有造著『旧夢談』)>
 この西郷との対談の中で、のち立志社挙兵計画に際して、有造が考えていた計画の一端が表れている。

佐賀で江藤と会談
西郷の態度が大体わかったので有造は薩摩を引き揚げ、佐賀で江藤新平に会った。
佐賀では島義勇の憂国党に征韓派が同調して挙兵寸前の状況であった。江藤はその状況を語り、「自分の力では既におさえる事はむずかしい。よくこの形勢を察知して土佐もすぐ兵を挙げてもらいたい。」といった。林は西郷の心境を伝え「今佐賀で兵を挙げても西郷は動かないだろうから自重してもらいたい」と話し「佐賀や薩摩の一角で少数の志士が兵を挙げても、熊本、大阪の2城をとらない限りは成就しない。西郷は私の意見を聞いてくれないので、薩摩と連絡することは不可能であるが、せめて事を挙げる時期だけは3方共になしたいものである。土佐と薩摩が兵を動かすまでは自重して、憂国党の青年を押さえて動くことのないよう注意してもらいたい。」と勧告して別れたが、その夜江藤は林を訪問し、林の実弟岩村高俊佐賀県令になり、熊本鎮台の兵を連れて来県するという情報を伝えた。

『林有造自歴談』によると、
 「江藤氏が尋ねて来て、『島義勇が来て云うには、岩村高俊君が県令の職を奉じ、飛脚船で下関に上陸、直ちに熊本鎮台の兵を連れて佐賀県へ入るだろうと。島君は同志であり、県令高俊君は君の弟だが、どう思うか。』『私達兄弟は志が違っている。兄通俊が県令になっている事は知っているが弟が県令になった事は知らない。君は私を疑うべきではない。』といい、更に『県令が任地に兵を引率してやって来るとは、納得出来ない事で、内外の識者の物笑いになろうが、高俊は兵事に慣れているので油断しないように』と注意して江藤と別れた。」(県令は権令が正しい。注・県令は政府における官等が4等官の者、権令は同5等官の者=ウィキペディアから)
 岩村高俊は佐賀権令となって下関より佐賀に来た。佐賀の憂国党を江藤は制御する事ができず、岩村が入県した2月15日の夜、佐賀の乱は勃発した。

権令岩村高俊は憂国党より攻められ、16、17、18日と3日間籠城して戦ったが、賊の勢は増々盛んとなり、高俊はようやく囲みを破って城を脱出した。その時大久保利通は、岩村通俊を幕僚として、佐賀鎮定の為に兵部、刑部(警察)両面の全権を帯びて、東京、大阪の鎮台兵を連れて佐賀に着き、大攻撃を加えてこれを破った。
 23日江藤新平は戦場を逃れて船で脱出し、薩摩へ向かい、3月1日と2日に西郷に逢ったが保護を拒否されたので、やむなく日向に向かった。江藤ら一行9名が豊予海峡を横断して3月15日宇和島に上陸した。これは土佐の林有造、片岡健吉に会う為であった。一行は3組に分かれて土佐に向った。江藤の組の江藤新平らは、宿毛へ行き、父岩村礫水に会ったが、有造は高知にいて会うことはできず、宿毛から高知に向かった。
 24日桂浜に上陸、その夜、片岡健吉邸で、林有造も来て会談した。林は「薩摩と土佐がたつまでは、隠忍自重するように勧めたのに甚だ残念である」と暗に自訴を勧めた。(土佐史談55、上岡保次郎「江藤新平播多潜行」及び橋田庫欣資料による)
 江藤はその夜、東京へ行く決意をして高知を発ったが、甲浦で番人に見とがめられて戸長役場に連行され、高知に護送された江藤ら3人と他の6人は共に須崎から軍艦竜驤で佐賀に送られ、江藤は40歳で処刑された。


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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その4

  宿毛機勢隊北越に出陣

藩主より宿毛兵出兵の許可が下ったのは、明治元年7月10日のことである。この他、竹内綱林有造等は伊賀陽太郎(宿毛領主)に従って従軍している。宿毛機勢隊は、慶応4年(明治元年)7月14日宿毛を出発し、23日観音寺より船に乗り、大阪を経て、京都白川邸には8月2日に着き、錦旗をもらった。
 8月7日京都発新潟を経て新発田に9月1日に着き、ここで岩村高俊に会い、10日には中次(新潟県)伊賀陽太郎と面会している。宿毛兵の出陣がまだ許されなかった頃、京都で御親兵総取締という重職についていた岩村通俊が、北越征討総督仁和寺宮嘉彰親王に従って、柏崎に行くことになり、当時京都に遊学していた伊賀陽太郎らが投宿していた仮屋敷に伺候して出陣を勧めた。
 伊賀陽太郎(当時18才)は明治元年5月、父氏理の命によって京都に遊学し、竹内綱がこれを助け、近習として林有造、石原省馬、医師羽田文友、下僕として横山和吉が付いていた。ちょうどその時分、岩村通俊は親兵を督して京都にいたが、1日陽太郎に会っていうのに
 「只今は…京で学問修業する時期ではないと思う。鳥羽・伏見で起った戦いは既に、北越方面でも戦いがおころうとしています。何より現地での戦況を実際に御見学になられ、王事に尽すべきではないでしょうか」と勧めた。陽太郎も我が意を得たりとして喜び、直ちに出陣しようとしたが、補佐役である従兄弟の竹内綱は、陽太郎の父氏理の命令を固守して承知しなかった。それでひそかに土佐藩の毛利恭助に頼んで、陽太郎の伯父にあたる容堂を説き、北越の戦況視察という名目で許可を得た。伊賀陽太郎の一行は7月16日、戦塵たけなわの北越に赴いたのである。

   北越出陣の方向

     宿毛機勢隊北越出陣の方向(「宿毛市史」から)
  通俊は、越前の福井で有造と会い、陽太郎らを訪ねた。その夜有造は、通俊と竹内綱の会話を聞いた。それは出陣を命ぜられた宿毛兵が京都に到着すると、軍費の関係か、老若混合軍を嫌ったためか、容堂公は全軍の参戦を許さず、半数を国に帰すようにしている模様であると通俊が話していた。そこで驚いた有造は、精兵を選ばず老若を混同したのは不覚であるが、帰還する者の面目は丸潰れ、半数が帰還すれば士気に影響する、なんとしても万全の策を考えなくてはと、翌朝通俊、竹内も列席のうえ陽太郎に提案した。

自分が京都に行き、丁寧に説明すれば不平も解け、問題解決もできると思うとのべ、京都に向った。途中、薩摩藩の者2人に会い、長岡で官軍が大敗したことを聞いた。
 有造は藩邸に行き毛利恭助に会い、長岡大敗の伝聞を語り、この敗報が事実であれば宿毛兵の帰還は不利であるので、全軍を参戦させ、他藩の軍に協力して大敗の恥辱をそそがなければならないと説き、半数帰還は取消す旨の命令がでた。
 注・林有造,通俊、高俊の3人は兄弟。有造は林茂次平の養子となり林姓となっている。

 宿毛兵2名が戦死                                                                  
 宿毛機勢隊が出発した当時、東北方面、特に越後長岡藩の河井継之助の活躍と会津や米沢の援兵で、北越諸藩の抵抗が強く、官軍 も苦戦を重ねていた。
 土佐藩は北越方面への援軍出兵の督促を受けていたが、財政困難を理由に足踏みしていた。兵員は633名、7月2日高知を発して京都に到着、天皇の閲兵をうけて越後に向った。伊賀陽太郎竹内綱林有造等一行5名は、この本藩兵と合流した。天候不順、地勢険悪の為、行軍に困難しながら8月22日ようやく越後黒川に到着した。これから軍を二分し、一軍は米沢口に、一軍は村上口から荘内方面へ進発した。米沢に着いた一隊は、会津攻囲軍に参加した。

村上口に進んだ隊は、官軍側は死傷者続出して破ることができず撤兵し、数日間、両軍対峙の状態にあった。戦場に到着した宿毛機勢隊は、山道の官軍に加わって岩国兵と共に雷村砲壘を攻撃した。さらに進攻し関川砲壘は官軍の手に落ち、機勢隊は関川の守備を命ぜられていた。
 注・雷村は現在新潟県の村上市雷。戊辰戦争の際、激しい銃撃戦の舞台となった。関川は、出羽街道の雷峠を越えると出羽国関川(現在の山形県鶴岡市関川)に至る。
 その後も、会津側は再三逆襲してきたが、機勢隊は岩国兵ほかの軍兵と共に防戦に努め、これを撃退した。
 会津藩は明治元年(1868)9月、新政府軍に降伏した。

宿毛機勢隊は10月5日、本藩兵と共に帰路につき、14日京都着、ここで酒肴をふるまわれ軍服修理代として兵士一名について二両もらい、18日京都発、24日朝8時半大阪よりタアン号に乗り、25日浦戸へ着いた。5日朝、市山峠で隊列を整え宿毛の練兵場に帰ってきた。
 北越出兵の宿毛機勢隊関係では2名の戦死者が出た。


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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その3

 大江 岩村通俊、高俊長崎へ行く
 慶応3年(1867)9月、斎原治一郎(大江卓)、岩村精一郎(高俊)、岩村左内(通俊)の3名は砲術研究の目的で長崎に向って出発した。彼等は別に宿毛山内家(明治2年伊賀家となる)から銃器買入れの為、七百両余りの金を托されていた。それも今日のように為替などのない時代であったので、二分金と一分銀で渡された金を3人が分担し胴巻きに入れて持って行った。
 3人が長崎に着いた時は、去る4月20日に讃岐沖で紀州藩の明光丸に衝突され、沈没した海援隊の伊呂波丸の賠償金問題が大詰めにきている時であった。大江などは坂本龍馬の代理として長崎に派遣された中島作太郎(信行)をはじめ海援隊士の多くの知己を得、これが中央に出て活躍するきっかけになったのである。
 長崎には土佐藩の貿易会社のような「長崎商会」があリ、伊賀家から頼まれていた銃を買入れ、長崎商会の船で岩村通俊が宿毛に運んだ。
 徳川慶喜が大政奉還し、天下の情勢が大きく動いてることを肌で感じた大江ら3人は、長州の桂小五郎(木戸孝允)に会うため長州に向かった。
  
 大江・高俊陸援隊に入る
 しかし、木戸が不在のため、京都に行き、土佐藩の白川邸に潜伏し、十津川郷士と称していた。その頃白川邸は陸援隊の本陣になっており、大江らは陸援隊に入った。
 おりしも、坂本龍馬、中岡慎太郎ら7名が近江屋で襲われた。
 海援隊陸援隊は報復を企て刺客の探索を始めた。紀州藩の三浦久太郎が、伊呂波丸衝突事件の腹いせに新選組を唆したものらしい、とのうわさを陸奥源次郎(宗光)が聞きだした。元凶三浦を血祭りにあげることになリ、その実行委員に選ばれた陸奥宗光・大江卓岩村高俊・関雄之助らの陸援隊員ほか16人は12月7日の夜五ッ半(午後9時)三浦の寓居であった油小路花屋町天満屋に斬込んだ。既に身の危険を感じていた三浦は、その夜新選組の土方歳三、原田左之助、斎藤一等が来合わせ酒宴を開いていた。
天満屋の二階は、敵味方区別のつかない混戦となり、三浦は微傷を負うただけで助かった。後に三浦は大江と親交を結んだ人である。
    岩村高俊
                 岩村高俊
 高野山の挙兵に参加
 王政復古の号令は慶応3年12月9日に発せられた。その前日の夜、薩長と幕府の衝突を予期し、御三家の紀州と大阪をけん制するため、大江卓岩村高俊陸援隊70人は、土佐藩白川邸から十津川浪士という名目で高野山へ向かった。高野山に着くと、まず僧徒を説得し、一方では紀州藩に対し、高野山出兵は勅命によるもので、王政復古の令に従わない軽挙の輩を鎮撫するのが目的である旨の書面を高野山の僧徒に托して通告した。
 各藩の勤王の士が高野山に集り、総勢3、400名になり、諸隊の編成をして陣容を整えた。大江卓岩村高俊はまだその才能が認められておらないため、地位は共に斥候であった。
 万一の場合に備えて錦旗を奉戴していなけれぱならないという事になり、その大任が大江にくだった。大江は、28日京都へ着いたが、錦旗下賜が手間取り、慶応4年正月3日、参内して錦旗と2通の勅書を受け取った。

 既に鳥羽・伏見方面で戦いが開始されており、錦旗を持っての通行は危険だと考え、医者に変装して6日の早朝高野山へ帰り着いた。綿旗は高野山にひるがえり、士気を更に鼓舞した。高野山隊は薩長連合軍が京都で政局を転換しやすいように、紀州その他をけん制するのが目的であったから戦うことなく任務を終ったのである。
 大江が京都より持ち帰った勅書は「大阪城の兵が伏見の方にもでてくるので高野山の兵は速やかに大阪城を乗っとれ」という内容であリ、高野山に兵を挙げたのは、もともと紀州藩をけん制することであったが、この際紀州藩を朝廷側に引き入れる事が大阪城攻略にも必要であり、そのため大江を使者として、紀州藩の説得にあたらせる事になった。
 当時紀州藩は討幕に藩論が一決していたわけではなかった。御三家の一つであり、殊に有力な地位にある連中がほとんど佐幕派であり、藩論をまとめるのに苦慮していたのである。翌9日、和歌山入城を許すということになった。

 土佐藩は慶応4年正月11日、鳥羽・伏見の役に徳川軍に参加した讃州高松・予州松山城攻撃の命をうけ錦旗を下付され、家老深尾丹波を総督、板垣退助を大隊司令とする迅衝隊が高松城を攻め、家老深尾左馬之助を総督とする部隊は松山城へ出撃し、27日松山城へ入城した。両藩とも恭順の意を示したので、戦火を見る事なく無事平定した。
 林有造は松山城攻略に先立って松山斥候に行っている。有造は1月22日に高知を出発し、2月1日高知に帰った。
大江は、主家が勲功をたてるよい機会であるので、東征軍への宿毛兵の出兵を計画した。2月15日高知に着き、宿毛邸で宿毛兵の出陣について合議し、藩の執政深尾丹波に上申したが容れられなかった。

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幕末・明治期に人材を輩出した宿毛市、その2

  財政が窮乏していた宿毛

伊賀家の財政は極度に欠乏していた。宝永4年(1707)の地震と津浪で各地の堤防がほとんどこわされその被害は100年間続いたのであるが、更に安政の地震と津浪で大被害が出た(安政元年=1854年の安政東海地震、安政南海地震か)。そのため家禄半知借上げと称して五十石以上は半額、其以下は等級に応じて借り上げる状況であった。その攘夷論が盛んとなり異国船打払いのための設備として砲台の建築、銃砲弾薬の購入等のため多くの資金を要したのであったが、どうしてもこれらの金が工面出来ない状態であった。
    竹内綱
                     竹内綱
  竹内綱は文久2年(1862)24才で目付役に抜擢された。財政の整理に着手し、当時高価で外国へ輸出されだした樟脳(しょうのう)がすこぶる高価であったのに着目し、領内で製造を開始した。1年あまりの後には軍備に必要な資金は調達する事ができるまでになった。
 地租は昔から米納であったが、毎年米の収穫期に各村に役人を出し、収穫米の見積りをしていたが、手間がかかるので、3か年の収穫米を平均し、10か年の米価を平均したものを乗じて、その10分の4(それまでは10分の5)を金納で徴収するようにした。そのため地租の収入はほとんど倍に達し、それ以後家臣の半知借上げを廃止することが出来た。
 慶応元年(1865)5月10日、竹内綱は仕置役を命ぜられた。綱は宿毛領内の物産の輸出を計画して、大阪に行き、夫々の問屋と約束を取りきめた。宿毛物産の輸送は五百五十石積帆前船1艘を買い入れ、宿毛丸と名付け、2艘は淡路屋の所有船で運送する約束もでき、三百余坪の土地、1棟の事務所と7棟の倉庫を買入れ、宿毛蔵屋敷を設置した。

宿毛蔵屋敷の経営は順調にすすみ、明治2年には汽船大阪丸を買い入れ、廻漕業を開始。更に3艘を買入れ、瀬戸内海の物資の廻漕運搬を行うようにしていた。このように蔵屋敷の事業が次第に発展すると、高知藩では家老の家柄で蔵屋敷の経営はなまいきであると言いだし、明治2年に、伊賀家に宿毛蔵屋敷の引き揚げを命じて来た。
 この時の蔵屋敷の負債は三万円余であった。屋敷、汽船を売払っても一万五千円に足らないほどであったが、綱は高知藩札が太政官札の半価である点に注目し、之を利用しようとし、高知へ帰って藩札三万円までを大阪蔵屋敷で太政官札に引換の許可を得、土佐で売る多くの貨物を買いこみ、宿毛に回漕して売りさばき、その代価として藩札を手に入れ、これを大阪で太政官札と引換え、三万余円の負債を償却し、汽船、蔵屋敷を売却し三万余円の剰余金を得て、これを伊賀家に差出したのであった。宿毛の重役達は、負債が償却出来ない時は竹内綱を切腹させて藩におわびさせるように決していたのであるが、藩札引換の成功であやうく再ぴ切腹をまぬがれたのであった。(竹内綱自叙伝」より)

教育に力を注ぐ
 宿毛では、10代領主の氏固、11代氏理は子弟の教育の振興に力を注ぎ、郷学校をおこした。家士とその子弟の教育を目的としていた。新しい学問も次々に浸透させ、「このような場で学識を得た宿毛出身の人々が明治維新後、中央政界および実業界で活躍しました」。
 氏固が設立した郷学校に講授館がある。講授館は、天保2年(1831)より天保5年(1834)の間に創立され、講授役には、三宅大蔵が平民より登用され、以来嘉永2年(1849)まで、講授役として十数年勤務したのであった。
 三宅大蔵は、文政年間九州に行き、豊後国日田の儒学者広瀬淡窓が開いた日本最大規模の私塾・咸宜園に学んだ。天保5年宿毛に帰り講授館設立を勧め、講授館が設立されると抜擢されて講授役となった。

文久3年(1863)1月に至り、宿毛字本町(現旅館昭和館のあるところ)にあった物産方役所内に講授館を移し、文館と改め、読書、習字、算術、作文の4課を設けた。
 慶応3年(1867)2月文館を廃し、宿毛安ヶ市(現宿毛小学校敷地)に日新館を新設した。その後、明治2年の藩政改革により日新館のすべてを藩へ寄附した。藩は翌3年2月藩立日新館として再開した。
 慶応元年(1865)酒井南嶺が宿毛字水道町に漢学の私塾・望美楼を開いた。明治2年素堂と改め、同4年に廃止した。南嶺は、生れつき怜悧で気骨があり、常に天下の大勢を説き、子弟の意気を高めた。
 気骨と大局観をもって学校で教える傍、望美楼で一対一の魂のふれあう教育をしたのである。明治の新政に活躍した宿毛出身者は、みな南嶺の薫陶によるところが多かったといわれている。
 三宅大蔵によってまかれた宿毛文教の種は、明治維新以後、明治時代を指導する大人物の輩出となって実を結んだのである。


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