レキオ島唄アッチャー

パナリ焼とザンの島、新城島。その7

「前ぬ渡節」
 本島民謡で人気のある「遊びションガネー」の元歌がパナリ島(新城島)の「前ぬ渡節」である。當山善堂氏は「前ぬ海節」としている。
 歌詞は次の通り。
♪ぱなれーまぬ前ぬ渡(マィーヌトウ) 波照間ぬ北(ニスィ)ぬ渡
  ※スリションガネ スリショウライ(以下ハヤシ略)
♪絹(イチュ)はゆてぃてぃかいす 布はゆてぃ御供す
♪絹ですやすぃかしさ 布ですやゆくしさ
♪ないしゆ舟どぅ 絹やる五反帆どぅ布やる
♪ないしゆ舟ぬとむなか 五反帆ぬ後なか
♪やかた家ば造りようり ともぬ家ば造りようり 
 
 歌意は次の通り。
♪パナリの前の海上に 波照間島の北方の海上に
♪絹の布を延べてご案内します 布を敷き延べてお供します
♪絹の布と言うのは賺(スカ)しですよねー 布と言うのは嘘ですよねー
♪ナイシュニ(五反帆の公用船の意)を絹の布に譬(タト)えたのですよ
 五反船を布に譬えたのですよ
♪ナイシュニの艫(トモ、船尾)に五反帆の船の後方に
♪屋形を造りました 艫の屋根付き部屋を設けました
 この後、屋形の下、部屋の内側に、床をはめ込み、畳を敷き詰めました。どなたをご案内するのか、在番役人、お役人様を案内します。こんな歌詞になっている。
 新城島を発祥の地とする歌である。八重山古典民謡の中には、険しい山道や海上に絹布、布を敷き延べて役人を案内するという歌が「久場山越路節」(クバヤマクイツィブシ)をはじめいくつかある。その一つである。
 面白いのは、山道なら絹布を敷くのもありえるが、さすがに海上に絹布を敷くというのはありえない。だから「嘘でしょう」と問いかけると「ナイシュニ(五反帆の公用船)のたとえです」と答えているところだ。ここにはお役人を丁重にもてなさなければ、という島人の気持ちが込められている。
ただ、新城島は土地や水に恵まれず、水田がないため、西表島に通って耕作するなど、人頭税のもとで苦労を強いられてきたことは先に見た。人頭税は悪平等の税制というだけではなく、地方役人の悪辣な徴税、税の付加、物品の強要などが加わって庶民を苦しめたといわれる。なのに一方では、この曲のように五反船に屋形を造り、床に畳を敷き詰め、役人を手厚くもてなすことを歌っている。
當山善堂氏は「役人の歓心を買いその心象を良くしようと腐心する往時の村びとたちの姿が眼前に浮かび、複雑な思いに駆られるのも事実である」(『精選八重山古典民謡集』)とのべている。
  庶民にとって、五穀豊穣と年貢を完納できることが一番の願いだった。その上で、役人からも公正な扱いを受け、評価されるようになってこそ、心から豊年を祝うこともできる。役人を手厚くもてなすことも、庶民にとって豊かで幸せな世の願いに通じるものがあったのかもしれない。

 「前の渡節」は舞踊「蔵の花節」の入羽として歌われる。その時の歌詞は次ぎの通りである。
 ♪ぱなれまーぬ まいぬとぅ
 ぱてぃろーまぬ にしぃぬとぅ
  スーリ ションカネー スーリ ショーライ
 ♪いちゅはゆてぃ ちぃかいす
 ぬぬはゆてぃ うとぅむす ☆
 (逐語訳)
 ♪離(新城島)の前の渡(海)
 波照間島の北の渡
  スーリ ションカネー スーリ ショーライ
 ♪糸を延えて(その上から)ご招待する
 布を延えて(その上から)お供する
(沖縄音楽大全データベースから)
                       盛和子
                    盛和子さんの「遊びションガネー」はとても味わいがある
 この曲は、沖縄本島では「遊びションガネー」として歌われている。元歌は、恋歌とは何の関係もない。まったくの替え歌で、元歌とは別世界のような歌詞である。囃子の「ションガネー」が使われるところだけが共通点である。いまはなき恋人をしのぶ歌だ。
 歌意は次の通り。
 ♪愛しい人の面影が立たなければ ※サーサースーリ ションガネー 
 ♪忘れられる時もあるだろうに ※以下同じ
 ♪気楽に遊んだ人の面影は あまり思い出すことはないけれど 
 ♪愛しい貴方の面影は 朝に夕に浮かぶ 
 本島のこの曲も、旋律と歌詞の内容がマッチして、しっとりとした味わいがある。替え歌としては見事に成功した名曲だと思う。
新城島の民謡はまだ他にもあるが、とりあえず、私が歌っている、知っている曲だけに限った。
 八重山民謡と沖縄本島の民謡の関係については、別途「変容する琉球民謡―八重山から本島へ」をブログにアップしているので興味があればお読みください。
終わり

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神を褒め、吾等も褒めた古謡

神を褒め、吾等も褒めた古謡
 豊作を祝う歌謡で、豊穣をもたらしてくれた神様や誰かを褒める歌は、節歌の村褒めの曲以前の古謡にも、たくさんあった。
 「かんむらーま」(鳩間島)は、鳩間島に豊かな世になれば「誰を鳴響(ティユ)ます 親神(ウヤガミ、祖先神)を鳴響ます」と歌われた。  
                 
         鳩間島独特のカンムラーマと子どもたちとの子孫繁栄の踊り
 「ゆーくいじらま」(鳩間島)もほぼ同様の歌詞だ。
 「ぱーれー唄」(黒島)は、「来年の世が 来夏世が稔るなら 誰が鳴響む(評判になる) どれが名を取られるのだろうか」と問いかけ、大親神、守護神が鳴響む、さらに「吾等皆が鳴響む 鳴響まれるのが 名が取られるのが欲しくて その果報を この願いを祈願する」と歌う。
 「穂利じらば」「ながれくいじらば」(黒島)もほぼ同じ内容である。「ぺんさあ」(黒島保里村)も同じような歌詞である。
  これらは、豊穣の世になり評判になるのはまず神様である。神様だけでなく「吾等みんなが鳴響む」、評判が欲しくて「果報を祈願する」としているのが面白い。
 
  評判になる対象に、役人を上げる古謡もある。
 「今日が日じらば」(西表島崎山村)は、弥勒世をいただき、首里への貢物を積み上げ、私でさえ嬉しい、来夏世の願いをかなえてくれれば、「崎山村の主の前(御役人様)はもっとだろうよ 下八重山の作当り(役職名)はもっとだよ」と役人を持ち上げる。
 「正月ぬあゆ」(黒島)は、大親神に続いて「島の世持(階級名)を鳴響ませる」としている。
  「ぱいみじらま」(鳩間島)も同じく、祖神(祖先神)や手摺り(神女)の名を取らす、さらに世持ちたち、島持ちたちの名を取らすと褒める。ただ、その後に続けて「我等皆を名取らす」と村のみんなも褒めているのが、したたかというかたくましい。

 
  このように、ジラバや豊年祭の古謡など豊年を祝う歌謡では、褒め称える対象は、親神(祖先神)や神女が中心であり、その後に役人や村人も入っている。決して役人だけを褒める内容ではないところが注目される。
 しかし、士族たちが作ったという節歌の村褒めの曲になると、褒め称えられるのは、「豊かな世は役人さまのお蔭」と役人褒めが中心である。「親神を鳴響せる」というような神への感謝の言葉もほとんど出てこない。ましてや村の百姓「我等みんな」はまったく対象にはならない。ここには見過ごせない変化があると思う。
  つまり、民衆のなかから湧き出る思いが込められた歌謡ではなく、役人らが政策的に作ったり、編曲したという節歌の特徴が色濃く反映されているのではないか。

  愛される村褒めの歌
 これまで村褒めの曲について、ケチばかりつけていると受け取られるかもしれない。だが、それは真意ではない。
村褒めの曲が政策的に作られたといっても、その曲の民謡としての価値やそれがどのように人々に受け入れられたのかということは、まったく別の問題である。
 節歌は三味線を中心とし太鼓、笛などの伴奏をともなって歌われ、さまざまな祝いの場で歌われたという。村褒めの曲は、三線、太鼓、笛をともなって歌われると、華やかである。祝いの場をはじめ機会あるごとに繰り返し演奏されるうちに、士族層にとどまらず広く一般、庶民層に浸透し親しまれるようになっただろう。

  村褒めの曲を演奏すると、とても盛りあがる。気分も楽しくなる。八重山古典民謡を愛する人々に好んで演奏される人気の定番曲の位置を占めている。
  私のように八重山民謡をかじり始めた人間にとって、村褒めの曲に接し、その歌詞を読み込み、歌うことによって、王府時代に生きた人々の移住による村建ての労苦や喜び、豊穣と豊年の世への願いなどを肌で感じ取ることが出来る。そういう意味では、村褒めの曲は、八重山古典民謡の世界で重要な一分野を担っている。これからも、長く愛され、歌い継がれていくだろう。
終わり                 
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政策的に作られた村褒めの歌

  村褒めの曲は士族・役人が作った

  村褒めの歌は、百姓の上に立つ士族、役人によって作られた節歌である。
  「(節歌など)今日の八重山民謡はほとんどこれら士族の作詞作曲によるものである。ユンタ・ジラバ・アヨウなどの古謡は、いわゆる労働歌で、楽器の伴奏を要せず、これは平民の歌う歌であった」(牧野清著『新八重山歴史』)。
  節歌は、庶民の生活と労働の中から生まれたユンタ、ジラバなど古謡を素材としながらも、三線の伴奏で演奏し歌うように改作し、仕上げられた曲が多い。
  「八重山の土地誉めの歌の多くは、庶民の労働意欲をあおるために役人が政策的に作ったものといわれています」(三線教室「クイチャーパラダイス」HP)。
 
  このような指摘は、それなりに的を射ているように思う。
  なぜなのか。私的に考えてみたい。その理由をあげる。
  まず、村褒めは、庶民の心から湧き出る内発的な要求とは思えないこと。移住で創建された多くの村は、マラリア禍や天災、大津波などで人口の減少で移住が繰り返され、結局は廃村になった。決して永続的に繁栄してはいないこと。
歌の内容を見ても、厳しい村の現実の姿、庶民の実情は捨象され、あまりリアリティが感じられない。いかにも、百姓の上に立つ士族層の視線で作られた印象が強い。
  村を褒め称えることで、苦しいことがあっても、「自分たちの住んでいる村は、果報の村だから、しっかり働けば報われる。頑張れよ」と百姓たちを農作業に励ませて、年貢を完納させるという役割を持っているのではないか。歌にはそんな要素が織り込まれている。 
                
  村褒めの歌は、さらに豊年をもたらしたのは、お役人さまのお蔭だという「役人褒め」にもつながっている。
その典型は「鶴亀節」だろう。「川平鶴亀節」ともいう。次の歌意となっている。
「♪川平村に 豊穣の世を賜った 平和で豊かな世を賜り 恵み豊かな世を賜った 現在の与人(ユンチュ)役人のお蔭で 川平村の目差(メサシ)役人のご尽力により ゆたかな世を賜り 豊穣の世を賜り…」 
  「揚与那覇節」は次のような歌意である。
「♪与那覇主のお陰で 主の前(御役人様)のご恩義で 昔の世をいただき 神の世をいただき 主の前を仰ぎ 百果報を手摺る(祈願する)」
  「昔の世、神の世」はいずれも、豊穣の世の意味である。お役人のお蔭であると褒めあげている。
「種子取節」「白保節」などは、豊作をいただき、主の前(御役人様)、目差主(役職名)を招待して、お祝いをしようと歌う。
  
  村褒め曲は、現代で言えば、学校の校歌や企業の社歌などが同じジャンルに属するのではないか。学校、企業の伝統や自慢、特性や優位性を歌に盛り込み、みんなが自信と誇りを持ち、勇躍して勉学、仕事に励ませる役割を持っている。

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豊年を祈願か、感謝か、微妙に異なる八重山民謡

  豊作を「給らり」か、「給られ」か、似た表現でも意味は大違い
  話はマニアックになるが、豊年祭などの歌詞のなかで、注意を要するのは「たぼ(給)り、たぼらり」と「たぼ(給)られ」の違いである。「り」と「れ」の一字違いで意味が180度変わるからだ。「みるく世は たぼらり」といえば、「弥勒世(豊穣)を下さい」という願いの意味となる。ところが「みるく世ばたぼられ」となれば「弥勒世をいただき」となり、感謝の意味となる。
  ややこしいことに、同じ西表島祖納村の「あぱれ」の歌詞が、喜舎場永珣著『八重山古謡』(「あーぱーれ」と表記)では「なうり世ば たぼらり みるく世ば たぶらり」となっていて、「稔りの世をください 弥勒世(豊穣)をください」と訳されている。
  これが『南島覚書』では同じ歌詞が「みりく世ば たぼられ 稔り世ば たぼられ」とされ、「弥勒世(豊穣)をいただき 稔り世(豊年)をいただき」と感謝の意味に訳されている。
  この曲の場合、歌詞はこの後、「弥勒世のお祝いをしよう 稔りの世のお祝いをしよう」と続くので、「弥勒世をいただいた」感謝の言葉と解釈した方がよさそうだ。
  ちなみに、村褒めの曲は、すべて「豊年をたぼられ」という感謝の表現である。「豊年をたぼらり」という祈願の表現は使われない。

  話しは横道に入っていた。本題に戻す。
  これまで、ニガイフチ、アヨー、ジラバ、ユンタ、豊年祭などの歌謡を見てきた。古謡を見れば、厳しい自然条件と圧政のもとで、人頭税を完納できる作物の稔りと豊作、豊かで平和な弥勒世(ミルクユ)が、農民にとっていかに切なる願いであったのかがよくわかる。そこには、日々の暮らしと労働の営為のなかからの生まれた切なる願い、思いがストレートに反映されている。
                
              石垣島登野城の結願祭。「弥勒節」が流れる中でのミルク様を送る
  節歌の中にも、豊穣の祝いや願いの曲はたくさんある。それは、村褒めの曲とは、似ているようであるが、明らかに異なる特徴がある。あまりにも多いので少しだけ紹介する。
  「目出度節」は「♪今年作った稲粟は 稔り出来たよ 面白いことよ 年貢上納は不足なくて 捧げ上げたよ 嬉しさよ 捧げての残りは数多あり 酒や神酒等を造って 今日も明日も 遊ぶ嬉しさよ」と歌う。
  「弥勒節」は「♪大国の弥勒様が 八重山に来られ お掛け(御統治)ください 島の主 弥勒世(豊穣)は来られ 遊ぶなら遊べ 踊るなら踊れ お許しであるから」と歌う。
  「てふか節」は、祖神(おやがみ)のお陰で豊作となった感謝と喜び、さらには「世持(村の役職名)達が鳴響まれ 神司達が名が取られ」と褒めている。 
  豊作で年貢も完納できた嬉しさと神への感謝、さらには年貢の残りでお酒を造り、思いっきり遊び踊る楽しさなど、庶民の豊穣の喜びがあふれている。
  といっても、決して村、土地を褒めることを主眼とした曲ではない。村褒めの曲とは一線を画している。

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八重山の豊年祭の歌

 豊年祭の歌
  旧暦6月に行われる稲の収穫祭を八重山ではプーリィ(豊年祭)という。プーリィは、その年の豊穣にたいする感謝祈願と来年の豊作の予祝祈願である来年の世願いを行うものである(外間守善著『沖縄の歴史と文化』)。
  豊年祭の歌を見ると、祭りの要素が盛り込まれている。
  「来年の願い」(白保村)は次のような歌意である。
「♪今日の 黄金日を もとにして 来年の世 来夏世(クナツユ)の 願いをする 命果報(長寿)の 孵(フ)で果報の 願いをする 富貴をもって 繁昌をもって 勝れさせ その果報を その果報を 願います」
               
                        鳩間島豊年祭
  「かんむらーま」(鳩間島)は次のような歌意である。
「♪鳩間世が稔ると 友利世が実ると カムラーマモ歓エシ 弥勒世ヲ給ワレル(元歌タボラリ) 誰を鳴響ます 親神を鳴響ます」
  注・「カムラーマ」は鳩間島独特の子孫繁栄を願う踊りである。歌意を見てもわかりにくいが、鳩間に豊穣の世をいただき、誰を褒め称えようか、親神を褒め称えようという意味である。

  「あぱれ」(西表島祖納村)は次のような歌意である。
「♪アパレー 今日の日が嬉しい 黄金の日が嬉しい 弥勒世(豊穣)をいただき 稔り世(豊年)をいただき 稔り世の祝いをする 私でさえ嬉しい 神仏はもっとだよ 神仏も踊ってください 吾等皆も踊ってください 山入数も栄えてください」

  村褒めの原型のような神歌
  豊年祭(プーリィ)の歌謡の中に、村褒めの原型のような神歌がある。
  「ぱーれー唄」(黒島)は次のような歌意である。
「♪今年からかわって 同じ黒島ではない 昔の弥勒世は 近くなったよ 大野原に登って押し下して見ると 稲粟の稔りは弥勒世果報(豊年)…黒島の習慣は果報(豊年)の島だから 米倉を腰当てに 思子(子孫)を前にして 飛ぶ鳥の寄りは高い木の端に寄る」と続き、「来年の世を 来夏世を願いましょう」。囃子では「富貴世は稔(ナウ)れハー世は稔れ ハー粟は稔れ ハー芋は実れ ハー稔れ稔れ ハー実れ実れ」と歌う。 
豊年祭らしく、稔り世(豊年)への祝いと喜びにあふれている。黒島は「果報の島」だから「米倉を腰当て 思子を前にして」と歌い、村褒めの要素が入っている。

  石垣市宮良の神歌の「ナカダキオンヌウタ」(仲嵩御嶽の歌)の歌詞は次の通り。
「♪宮良という島(村)は 果報の島(村)だから 仲嵩を腰当てに 富裕を前にしている 仲嵩に登って押し下ろしてみると 稲粟の稔り 弥勒世果報 稲粟の色は 二十歳ごろの乙女(の色のよう) 色が美しいので 御初をあげる 弥勒の世も賜り 福の世も賜り 何時までも今の如く 弥勒世果報」(ハヤシ略、訳文)
  宮良では、他の御嶽の神歌も同じように豊作、弥勒世をいただいたことに感謝しながら、何時までも豊穣の世が続くことを願っている。

  この曲は、村褒めの形式が完全に整っている。この2曲とも、村褒めの要素があるとはいっても、節歌の村褒め曲とは決定的に異なる点がある。
  それは、節歌の曲は、豊作をいただいたと感謝し、果報の村を褒めただけで完結している。しかし、豊年祭の歌謡は、村を褒めるというより、豊作に感謝し来年の豊作と平和で豊穣の「弥勒世果報」への願いに主眼がある。村褒めにとどまらず、予祝祈願の神歌といえる。

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八重山古謡にみる豊年祈願の歌

  八重山古謡にみる豊年祈願の歌
  八重山古謡のなかから、豊作に感謝し来る年、来る夏の世の豊作を願う歌謡の例を見てみたい。
  「ニガイフチ」の中の「結願祭願口」(石垣島川平村)は次のような歌意である。
「♪今年一年中願立をした諸作物は 万作を迎えさせてくださって 御結願(ケグガン)を上げられたので 来年の世は 勝る世を迎えさせてくださり 島の上に よい事だけをあらわさせてください」
 
                  
                  川平結願祭
 「穂ぬ願い」(平得村)は、5月に稲の穂が出たら、穂を願い、長穂、大穂をもたらしてくださいと願い、実入り世(豊年の世)を受けさせてくださいと願いを申し上げるという歌意の歌である。

  「アヨー」の中では、「正月ぬあゆ」(黒島)は次の歌意である。
「♪今日の日をもとにして ウヤキ世バナホレ 黄金日を スーリー世バナホレ 根にして 今年の世を祈願しよう 来る夏の世を手摺り(合掌)しよう 今年の世が稔ったら 来る夏の世が実入ったなら 誰が鳴響(トゥユ)み 誉めようか どれが名を取り誉めようか 大親神(ウフウヤガン)を鳴響ませる 島の世持(ユムチ、階級名)を鳴響ませる …名が取られるのがほしくて その果報を祈願する その願いを手摺り(合掌)する」と歌う。
  「来夏世(クナツユ)」とは「来る夏の世」のことで、夏は稔りの季節であり、豊穣の願いがこもった言葉である。
  ここでは、今年の世の豊年、来夏世の豊年を願いつつ、豊年になれば、誰かを褒め称えようと歌う。
 
  庶民の暮らしと労働の中から生まれたジラバ・ユンタにも、豊作や豊かな世への願いの曲がいくつもある。こちらの方が庶民の暮らしの中から湧き出る思いであり、心からの祈りである。
  ジラバの中では、「今日が日じらば」(西表島崎山村)は、次のような歌意である(以下ハヤシ略)。
「♪今日の日を 黄金の日を もとにし 弥勒世を 稔る世を いただき 弥勒世の 稔る世の お願い 思ったこと 願ったことを 叶えて下さい わたしでさえ 嬉しい 崎山村の 主の前(御役人様)は もっとだろうよ」
 豊作の世の願いをかなえてくれれば、貢物を積み上げ、私も嬉しい、役人様はもっと嬉しいだろうと歌う。

  「ながれくいじらば」(黒島)は次のような歌意である。
「♪今日の日をもとにして 黄金日をもとにして 大親神を崇べなされよ 守る神を崇べなされよ 来年の世を願いましょう 来夏世(クナツユ)を願いましょう 来年の世が稔れば 来夏世が稔れば 誰が鳴響(トヨ)ませるつもりか どれを名をとらせるおつもりか」

  「来年世(ヤニンユ)願じらば」(波照間島)は次のような歌意である。
「♪今日の日を 黄金の日をもとにして 来年の世を 来る夏の世を願う 白水を 甘水を願う 5日越し 10日越しにいただき 稔る世を 稔る世を願う その願い その果報を祈願する」
来夏世、稔る世を願う思いは、どの歌にも貫かれた太い流れとなっている。
ユンタには、豊作への祈願は少ない。
  黒島の「正月ユンタ」は、「アヨー」で紹介した「正月ぬあゆ」とほぼ同じ内容だ。

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豊年の祝いと豊作を願う八重山古謡

豊年の予祝と感謝、来る年の豊作を祈願

  八重山の移住地での村褒めの歌を見てきた。ここからは、開拓移住や「島分け」のテーマとは離れるが、改めて八重山古典民謡の中で、なぜ村褒めの曲がこんにあるのか、それは八重山の歌謡全体の中でどういう位置を占めるのかを見ておきたい。
  大浜安伴氏編集の『八重山古典民謡工工四』を見ていると、村褒めの曲は相当多いので、重要な一分野を占めていると思いがちだ。だが、八重山歌謡全体を網羅した『南島歌謡大成八重山編』を眺めてみると、村褒めの曲は、士族が作ったという節歌(フシウタ)にしか見当たらない。
  八重山歌謡の全体の形態は、次のように分類されている。
祝詞・呪禱的歌謡――カンフチ(神口)、ニガイフチ(願い口)、ユングトゥ(誦み言)、ジンムヌ(呪文)
叙事的歌謡―――――アヨー、ジラバ、ユンタ
叙情的歌謡―――――節歌、トゥパラーマ、スンカニ
  「カンフチ」とは、神から人へ告げる神託であり、「ニガイフチ」とは、人から神への願いの祝詞(ノリト)である。「ユングトゥ」は生活の中で幸せへの願い、「ジンムヌ」は災い除けの唱え言のこと。
                  
                石垣島白保の豊年祭
  「アヨー」の語源は「肝、心」を意味する言葉で、いわゆる神歌だけれど、次第に唱えることから歌う要素が加わり、叙事的歌謡に入る。
 ユンタ・ジラバはともに、「作業労働を主題とする叙事的歌謡」。ジラバは、人々の生活に深くかかわる農耕、家造り、船作り、航海、井戸掘りなど主題とする。ユンタはより多彩で、これらに加えて労働の苦しみや恋の喜びなども取り込まれている。
 節歌は、八重山の役人(士族)が専有したもので、三味線を主とし、太鼓、笛などの伴奏を伴って歌われる叙情的歌謡である。琉球王府につながる八重山役人がたしなんだ歌だが、しだいに庶民生活の中に浸透するようになり、琉球王国の解体により、一般的な歌として親しまれるようになっていった。
 トゥパラーマは本来、作業労働歌だったが、労働にまつわる男女の恋を歌いあげる側面から叙情的に発達していった。節歌は役人、士族階層に、トゥパラーマは一般、庶民階層に支持された。スンカニは与那国島に伝わる叙情的歌謡で、主題は恋であり、別離の非情である。
  以上は、『南島歌謡大成八重山編』の外間守善氏の「解説」から紹介した。

  豊作、豊年を予祝し豊穣をもたらす神に感謝し、来年の豊作を祈願する歌謡は、八重山の芸能のもっとも重要な分野となっている。波照間永吉氏は「八重山芸能の特徴」として「第一に、八重山の芸能は農耕祭祀と深く結びついたものであり、豊穣をもたらす神への感謝と祈願の心を表現するものと考えられること」を上げている。(『南島祭祀歌謡の研究』)
  神にかかわる祝詞(ノリト)や生活の中で幸せへの願い、神歌の中では、作物の豊作、稔りの世、豊年の世への心底からの願いが歌われている。今年が豊作だったことに感謝しながら、来年の豊作、来る夏の世の稔りへの願いが歌われている。

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移住地の村褒めの歌、「桴海布晒節」

「桴海布晒節」
 桴海(フカイ、石垣島)村は、最初は山原と荒川との間にある俗称「フカイ」と称する平野に創建されたが、元和5年(1619)に大田兼久(地名。兼久は海岸地域を言う)という海岸地帯に移転したが、寛永2年(1625)に突如襲った津波で全村流潰に逢い、後難を恐れて、寛永10年癸酉(1633)「大原」という高台に再移転して今日の桴海村となったのである。
 桴海は川平村の管轄内にあった桴海の役人の陳情により、元文3年(1738)竹富島から150人を移民し、桴海の現人口も合せて284人を以って独立村を嘆願したが、13年後、寛延3年(1750)になっても御認可がなかったので平得村から100人が移住し、ここで宝暦3年(1753)認可が許され与人、目差の役人を配置して、独立村となったのである。安政4年(1857)翁長親方が御検使の結果、その疲弊衰退に驚かれ且つ同情して黒島から50人を補充移民し、漸く村治に当たらしめたのである。
 この曲の歌詞は次の通り。長いので抜粋し、カタカナはひらがなに直した。
1、桴海てぃる島や 川平内どぅやだんぬ
2、癸酉(ミンヌトヌトウリ)ぬ年に 桴海原建てぃてぃて
3、天加那志 御恩義(ミブキン) うやき世ば 給ぼられ
4、天加那志 御用ぬ 二十舛(ハタユミ)ぬ 御布
8、吉(ユカ)る日ゆ 選らでぃ 上ぎてぃ しでぃら
 歌意は次の通り。
1、桴海という島(注・ムラ)は 川平の管轄であったが
2、寛延10年癸酉年に 桴海村を創建した
3、琉球国王の御恵みによって 豊年の世を給わり
4、王様への御貢用の 極最上の御用布は
8、吉き日を撰んで 納付して感謝します
 この項は、喜舎場永珣著『八重山民謡誌』から引用した。  
                     130.jpg

                   写真は石垣島桴海より少し北に行った野底の海岸
  村褒めの歌にはパターンがある
  これまで見たきたように、八重山古典民謡の村褒めの歌の歌詞は、いくつかのパターンがある。山や岡を背にし、前に田畑が広がり、稲粟が実り豊作だ、果報の村だ。年貢も納めて、残りの稲粟でお酒も造ろう。そんな歌詞が多い。村人の心持ちや娘の容姿の美しさ、心の美しさを褒めることもある。
  住民が住み慣れた土地に愛着を持ち、誇りを持つのはとってもよいことだ。ただ、実際の村の実情は「村褒め」の歌のようには豊作続きで、うまくいくとは限らない。八重山の歴史を見ると、天候不順、干ばつや台風などで、不作、凶作にしばしば見舞われた。人頭税を納めるのに、どれほど喘ぎ苦しんできたことか。
 「村褒め」の歌で、豊作をいただいた、平和で豊かな弥勒世(ミルクユ)をいただいた、と繰り返し歌われるのを見ると、「豊作でよかった、よかった」というよりも、豊作に恵まれ、年貢も完納し、豊かな世が訪れることが、村人にとっていかに切なる願望であったのか、ということを強く感じる。そういう意味では、「豊作を給わった」と歌うのは、過去形ではなく、豊作を招く予祝の歌謡といえるのだろう。

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移住地の村褒めの歌、真栄里節

 「真栄里節」
  真栄里村は、石垣島の宮良川を少し内陸部に入ったところに位置する。
かつて、平得村の人口が2105人となり少数の役人では統治上困難があるとして分村を陳情申請して宝暦7年(1757)に平得村から885人を分村して創建されたのが真栄里村である。
  明和8年の大津波の時、人口1173人のうち908人が溺死し265人が生き残った。当時の野国在番は天災の復興事業として黒島から313人を強制移住させた。生存者と合せて578人で再建された。
 
 この曲の歌詞は次の通り。
♪だんじゅとぅゆまりる 真栄里ぬ村や 中村ゆくさでぃ 作場前なし
アシブサ ブドゥユサ(以下ハヤシ略) 
♪縦横ぬ道ぬ 直さある如に 心持ち清らさ さびやねさみ
♪あまく働ちゃい 年年ぬ貢 余所に先立ちゅてぃ 心嬉しゃ
♪親子睦ましく 夫婦立ち清らさ 村中肝揃てぃ 情け許(バカ)い 
                  
          真栄里豊年祭。残念ながら「真栄里節」ではなく「稲しり節」を歌っている。
 歌意は次の通り。
♪よくその名を知られた 真栄里村は 中村を背に 畑地を前にしている
♪村の縦横の道が 真っ直ぐであるように 村人の心延えは清らかで
  村には何の災いもないのだ
♪心楽しく働き 年々の貢租は 余所に先んじて(納めることが出来て)
  なんと嬉しいことよ
♪どの家庭も親子の仲は睦まじく 夫婦の暮らし向きも立派で 村中の人々は
  心ひとつに結ばれて 情愛に満ちあふれている
  この曲は、村褒めの模範的な内容を持っている。つまり、村の前によい畑地が広がり、道路がまっすぐであるように村人の心が清らかで、年貢は率先して完納し、親子、夫婦とも仲睦まじく、村中みんな心が結ばれている。村と村民を褒めた称える要素が網羅されているからだ。
 この曲はまだ、歌ったことがない。當山善堂著『精選八重山古典民謡集二』によると、八重山古典民謡の大半は八重山独特の「中舌音(ナカジタオン)」を基調に表記されているが、この曲は用いられていないことが一つの特徴だという。その理由については次のように解説している。
  黒島から強制移住させ再建されたので「真栄里村では、今でも黒島のことを親島(ウヤジマ)と呼んでおり日常語も非常に近似している。なにより興味深いのは、隣接している平得村や近接している四箇村(石垣島の中心部の4村)の言葉の特徴である『中舌音』に染まらず、黒島と同じく中舌音を用いない言語習慣を堅持していることである」。


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移住地の村褒めの歌、白保節、真謝節

  「白保節」「真謝節」(マジャブシ)
  石垣島の中心部から東に回り、大浜、宮良を過ぎた先に白保がある。この白保にかかわる村褒めの民謡に「白保節」「真謝節」がある。白保村が分村して、白保村と真謝村にわかれていた時代があり、2つの民謡がある。
  少しややこしいが、曲を理解するために、村の由来を紹介する。
正徳3年(1713)当時宮良村の管轄下にあったが、波照間島から300人を移住せしめ独立村となり、与人(ユンチュ)、目差(メサシ)の役人が置かれた。
  白保村は人口1472人に繁昌して、当時の役人だけでは村治上支障が少なくなかったので時の在番、頭は白保村から686人を分村して真謝村を創立する陳情をしたところ寛永3年(1750)認可指令があった。道路を境界線にして北部は真謝村、南部は白保村とした(参遣状)。
  明和8年(1771)の大津波の当時は、両村合わして1574人の人口だったが、そのうち1546人がその天災のために溺死してわずか28人だけがかろうじて生き残った。村落も全部崩壊し、珊瑚礁の石原と化してしまった。
八重山の行政庁である蔵元は、その後、波照間島から418人を強制移住させた。生存者とあわせて446人の人達は、津波の恐怖の念から旧敷地から北方約12町(1.3㌖)位もはなれた「上野地(ウイノヂ)」という高地へ村を移した。白保村の再建で真謝村は廃村になった。後に上野地から現在の白保の位置に移った

 「白保節」
♪白保村上なか 弥勒世(ミルクユ)ば給(タボ)られ 
  ユラティクユラティク ブドゥリアスバ(以下ハヤシ略)
♪稲粟ぬなをりや 常(チゥニ)ゆいん まきらし
♪首里加那志 貢(ミムヌ)御残いぬ稲粟や
♪泡盛ん生らしょり うんしゃぐ(御神酒)ん造りようり
♪真謝ぬ主ばつぃかいし 目差主ばつぃかいし
                   433.jpg
                      白保の海岸    
  歌意は次の通り。
♪白保村に 豊年を賜りました
♪稲粟の稔り具合は 例年にも増して豊作でした
♪首里王様への年貢を納めて その余剰の稲粟で
♪泡盛も仕込み 御神酒も醸造しました
♪真謝与人様(村長)をご案内し 目差役人様(助役)のお供をして
  歌はこの後、「与人様を先頭に 目差様を次の席にして 上の村に行って祝い 下の村に移って祝います」という意味の歌詞が続く。

  「真謝節」
 石垣市白保の集落内に真謝井戸(マジャンガー)がある。石の階段のある古い井戸である。歌は白保の村を褒めるとともに、この真謝井戸のことを歌っている。「シンダスリ節」とも呼ばれている。「シンダスリ」とは「可愛い乙女を見て気がよみがえる」というような意味だとのこと。お囃子の言葉が題名にされている。白保では「白保節」「ボスポウ節」とともに三大名曲とされている。
 真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に採掘して長く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である。       
                  
  この曲の歌詞は次の通り。
♪白保てぃる島や 果報ぬ島やりば 真謝井ばくてぃうやき前なし
   シュンドスリサスリヱ(以下ハヤシ略)
♪与那岡に登てぃ 押し下し見りば 稲粟ぬなをり弥勒世果報
♪稲粟ぬ色や二十才頃 女童粒美らさあてぃどぅ 御初あぎら
♪真謝井に下りてぃ 水くむる女からじ 黒々とう目眉美らさ
♪真謝井ぬ水や すみば底や見らりどうす 此の程ぬ女童底や見らぬ
 歌意は次の通り。
♪白保という村は 恵みに満ちた村で 真謝井戸を背に 裕福な村を 前にしている
♪与那の岡に登って 周りを見渡すと 稲粟の稔りは 見事に豊作である
♪稲粟の穂の色合いは 二十歳頃の娘の肌艶のように 粒が立派に稔ったので
 初穂を神仏に捧げます
♪真謝井戸に降りて 水を汲む女性の 髪が黒々と輝き 目鼻立ちの
  美しいことよ 
♪真謝井戸の水は 澄んでいると底を見ることが出来る  
  これほど美しい娘の心のうちは推し量ることが出来ない

 「白保節」は冒頭で、白保村における豊作を歌っていながら、後段の豊年を祝う場面では白保村ではなく、真謝村の役人が招待される筋立てになっている。これはなぜなのか。當山善堂著『精選八重山古典民謡集二』は次のように解説している。
 そもそも白保村は、古くは「前ぬ村」「白保村」「真謝村」「兼久村」の4つの集落から成り、その後のある時期に「白保村」と「真謝村」の二つの集落で構成され、与人・目差が配置される行政上の「白保村」が成立したのは1713年であったという。行政上の村である「白保村」が成立した当時の役人は「白保与人・白保目差」と称されていたようである。ところが、後に行政上の「真謝村」は認可されなかったにもかかわらず、真謝集落に村番所が置かれていたからなのか、その理由は定かではないが役人の呼称が「白保主」から「真謝ぬ主」に改称されたというのである。この歌は、まさしくその時期に作られたものであろう。
 八重山では、村の役人の役職名を行政村の名を冠して呼ぶのが一般的であるが、例外的に竹富村では「玻座真」、桃里村では「桃原」、平久保では「花城」というふうに行政区としての村の名と役人の呼び名とが一致しない場合もあったようである。

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