沖縄への鉄器の伝来、その72020-10-06 Tue 14:07
奥間を遥拝した国頭御殿家 『沖縄文化の遺宝』からの続きに戻る。 鎌倉氏の著書からの引用は以上である。 鉄を産しない琉球で鉄はとても貴重で「宝物のような鉄の存在」(城間武松著『鉄と琉球』城間氏)であった。農具は木製、石製中心から徐々に鉄器に移り「金石併用の時代」が「かなり長い間続いたと思われる」という。 琉球は各地に有力な按司が割拠し、本島が南山、中山、北山という3つの小国に分かれていた時代から、中国、日本などと盛んに貿易を行なっていた。鉄器は貿易の重要な品目である。 城間武松著『鉄と琉球』から抜き書きで紹介する。 <中山世譜に、「当時、牧那渡に倭人商船、数多参りけるが、過半は皆、鉄をぞ積てける。彼男子(察度のこと)此鉄をば、皆買い取りてけり、其頃は、牧那渡の橋は無くて、上下往来の大道は、金宮(こがねみや)の麓よりぞ有りける」と見え、琉球国由来記、浦添間切、安波茶村の項に、「トモリ嶽、神名大和やしろ船頭がなし」と出ていることから、牧港に日本の商船が、盛んに出入していたことがわかる。
察度は、明の洪武5年(1372年)太祖の使揚載(ようさい)が琉球を招諭した時、その詔を受けて弟泰期(たいき)を使いにして始めて進貢し、大統歴を賜った。 1374年、明は、刑部侍郎、李浩(りこう)等を琉球に派遣し、陶器7万、鉄器千で馬を購入せしめた。さらに1376年には、泰期は李浩に従って、明に行き、馬40匹を進貢した。この事を明史に「略」と記してある。 この馬40匹を得たりという文句によれば、陶器7万、鉄器千の代償として馬40匹を得たということになる。(東恩納寛惇著黎明期の海外交通史より)
尚巴志も、察度のこのような、事績にならい外来の商船から、多くの鉄塊を購入して、これを農民に給与して、農具を作らせ、民心をは握することに努力したことは、彼が他日、琉球国王の地位を、かち得る為になさねばならぬ、大事業であったわけである。 彼は、大いに海外貿易を行い、経済的基盤を鞏固にし、文明の利器をどんどん輸入して、三山統一の準備をし、ついに1429年に至り、麻の如く乱れた琉球の天下を統一する大偉業をなしとげたのである。> 海外貿易においては、青磁と鉄器がとくに重要な意味をもったという。
<青磁と鉄という二つのものは極めて密接な関係を持ってをりまして、日本からは青磁を欲しいために鉄を持ってくるし、又鉄と交換せんがために命懸けの危険を犯してでも支那(中国)から青磁を取ってきたのであります。青磁は明国で禁制品となってをりまして、自由に売買することのできる貿易品ではありません。…当時の琉球の社会のその嗜好品として、こうした青磁のような高級な焼物を求めたという訳ではないのでありまして、日本に持って行ってこれを高価に売りたいというためであります。高価に売るといっても琉球として何物よりも大切である鉄と交換したのであります。 それで青磁は鉄と交換するために是非必要な代償品として求められたのであります。彼等は青磁をとって来て、是を鉄と交換し、これで刀剣を打ち出して武強を誇ることも出来るし、又農具を造って農民に与えたのであります。又一般島民は鍬、ヘラ、鎌等の農具を与えてくれる按司の城下に集まって部落をつくり、その土地を耕し貢租を納めてこれに仕えたのであります。稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』>
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コメント
こんばんは。沢村さんのブログを検索していましたら、ここにたどり着きました。文中の中に奥間大親の子孫が中城の奥間村へ行き一時住し・・・を見つけました。私の地元の中城の記事でしたので目に留まりました。じつは私のミツバチ巣箱も奥間の畑において飼育しています。
奥間大親=察度王(鍛冶王)=金満按司(泰期)は親子でしたか。初めて知りました。奥間大親はカンジャーヤーで有名と聞き及んでいました。 察度王は羽衣伝説で有名な鉄を扱った王として記憶にありました。また泰期は王弟として初めて貿易した読谷の英雄と覚えていました。彼らは金工技能集団だったのですね。 「新琉球王統史 察度王 南山と北山」の著書は与並兵夫とありますが、与並岳夫氏ですね。 この項はまだまだ続くのでしょうか? ご苦労様です。頑張ってください。 万次郎がひと区切りついてほっとしています。三人でコーヒータイムした後から最終推敲を始めたら24か所のミスがありました。すべて清書し、1冊だけの手作り製本中です。ページ数は280枚になりました。では。
なかみや梁さん、コメントありがとうございました。
奥間の地名が名護、中城、宜野湾とあり、それが鍛冶とかかわりがあることが分かりました。でも中城の奥間は馴染みがないですが、ミツバチの箱を置かれているとは偶然ですね。 奥間大親の祖先、一族を巡っては、とても興味深いことがあります。 今回のブログ記事は、沖縄全体への鉄器伝来ですから、このあと八重山、宮古の伝承になります。 4年前、2016年4月に「奥間鍛冶屋の伝承をめぐって」という10数回の連載で、かなれ詳しく書いておきました。よかったらご覧ください。泰期は金満按司とされ、彼も読谷から宜野湾、小禄、具志川など各地に伝承があり、金満按司について書いたこともあります。 与並さんの名前はミスです。直しておきます。ありがとうございました。 2020-10-06 Tue 23:17 | URL | 沢村昭洋 [ 編集 ]
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