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沖縄への鉄器の伝来、その7

 奥間を遥拝した国頭御殿

 『沖縄文化の遺宝』からの続きに戻る。
 <同書(注・『元祖之由来記』宜野湾真志喜村奥間門中)には、またその時代の国頭奥間の系譜を載せている。
 奥間親方 母国頭比地村安佐慶ノ女子ナリ、ソノ長男ハ奥間大親ナリ、在所ハ同奥間村ノ根屋東リト云ウ家ナリ、ソノ長男ハ国頭親方ナリ、(中略)国頭親方ハ唐、大和往復シテ後首里ニ登ル

 この奥間大親察度王の父親とは別人で、首里に登ったというその長男の国頭親方は、年代的に見て『馬姓家譜大宗』一世の国頭親方正胤のように思われる。この人が国頭奥間にある時放浪中の尚円を助け、その関係から尚泰久王の時呼ばれて首里に登り、尚円大位(ママ)に登るや国頭間切惣地頭職に任ぜられた。既に述べたように、国頭奥間は今も往昔の鍛冶道具を祀る鍛冶屋屋敷として知られ、また正胤の子孫は代々国頭御殿家として繁栄し系譜も続いているが、今の当主国頭正敏家でもやはり神檀には鍛冶道具を祀り、祖先の出身地国頭奥間を遥拝している。これから察するに、宜野湾間切真志喜の奥間も鍛冶屋で、そのために察度王の金銀鉄の冶金伝説が生れたのかも知れない。そしてこの国頭奥間鍛冶屋の技術は、その道具から見て、古い時代に本土から伝わったところのものである。>

 鎌倉氏の著書からの引用は以上である。
   奥間鍛冶屋発祥の地の碑  
   
       奥間鍛冶屋発祥の地の碑
 ここでは、「宜野湾間切真志喜の奥間も鍛冶屋」である、国頭奥間鍛冶屋の技術は「古い時代に本土から伝わった」とのべていることは注目される。真志喜五郎や金満按司は航海業だったされるので、鍛冶に必要な鞴や資材を仕入れ、その技術を習得する機会もあっただろう。真志喜の奥間で鍛冶屋を営んだとしても不思議ではない。そうすれば、察度の鉄をめぐる伝説、泰期が国頭奥間村で鍛冶屋を始めたこととも結びつく。

 鉄は海外貿易の重要な品目

 鉄を産しない琉球で鉄はとても貴重で「宝物のような鉄の存在」(城間武松著『鉄と琉球』城間氏)であった。農具は木製、石製中心から徐々に鉄器に移り「金石併用の時代」が「かなり長い間続いたと思われる」という。

琉球は各地に有力な按司が割拠し、本島が南山、中山、北山という3つの小国に分かれていた時代から、中国、日本などと盛んに貿易を行なっていた。鉄器は貿易の重要な品目である。

城間武松著『鉄と琉球』から抜き書きで紹介する。

<中山世譜に、「当時、牧那渡に倭人商船、数多参りけるが、過半は皆、鉄をぞ積てける。彼男子(察度のこと)此鉄をば、皆買い取りてけり、其頃は、牧那渡の橋は無くて、上下往来の大道は、金宮(こがねみや)の麓よりぞ有りける」と見え、琉球国由来記、浦添間切、安波茶村の項に、「トモリ嶽、神名大和やしろ船頭がなし」と出ていることから、牧港に日本の商船が、盛んに出入していたことがわかる。


  ヂャナモイ(察度)は、鉄で農具を作って、農民に与えたりして、だんだん人望を得て、ついに、1350年、浦添の“世の主”となるやいなや、まず、経済的基礎を固めて、南北二山に、対峙する国策を打立てた。

察度は、明の洪武5年(1372年)太祖の使揚載(ようさい)が琉球を招諭した時、その詔を受けて弟泰期(たいき)を使いにして始めて進貢し、大統歴を賜った。

 1374年、明は、刑部侍郎、李浩(りこう)等を琉球に派遣し、陶器7万、鉄器千で馬を購入せしめた。さらに1376年には、泰期は李浩に従って、明に行き、馬40匹を進貢した。この事を明史に「略」と記してある。

 この馬40匹を得たりという文句によれば、陶器7万、鉄器千の代償として馬40匹を得たということになる。(東恩納寛惇著黎明期の海外交通史より)


 察度は、牧港において、日本の商船から、鉄塊を買収して、農具を作り、農民に分け与えて、万民を心服せしめたことは、古来鉄鉱を産しない琉球において、指導者が農具の製作にいかに苦心したかがわかるのである。

尚巴志も、察度のこのような、事績にならい外来の商船から、多くの鉄塊を購入して、これを農民に給与して、農具を作らせ、民心をは握することに努力したことは、彼が他日、琉球国王の地位を、かち得る為になさねばならぬ、大事業であったわけである。

彼は、大いに海外貿易を行い、経済的基盤を鞏固にし、文明の利器をどんどん輸入して、三山統一の準備をし、ついに1429年に至り、麻の如く乱れた琉球の天下を統一する大偉業をなしとげたのである。>

 

琉球がとても鉄器を重宝していたことが、中国側の資料にも記されている。

察度が初めて明への入貢後1374年に明の冊封使(さっぽうし)李浩(りこう)が琉球に来た時の報告書に「その国の俗、市易は紈綺(ぐわんき)を貴ばず。但磁器、鉄釜等のものを貴ぶ」という記事が残されている。紈綺とは白い練り絹で、琉球は高貴な衣服は欲しない。ただ陶器や鉄器を必要としているという意味である。

海外貿易においては、青磁と鉄器がとくに重要な意味をもったという。


 稲村賢敷氏は、次のように指摘する。

<青磁と鉄という二つのものは極めて密接な関係を持ってをりまして、日本からは青磁を欲しいために鉄を持ってくるし、又鉄と交換せんがために命懸けの危険を犯してでも支那(中国)から青磁を取ってきたのであります。青磁は明国で禁制品となってをりまして、自由に売買することのできる貿易品ではありません。…当時の琉球の社会のその嗜好品として、こうした青磁のような高級な焼物を求めたという訳ではないのでありまして、日本に持って行ってこれを高価に売りたいというためであります。高価に売るといっても琉球として何物よりも大切である鉄と交換したのであります。

それで青磁は鉄と交換するために是非必要な代償品として求められたのであります。彼等は青磁をとって来て、是を鉄と交換し、これで刀剣を打ち出して武強を誇ることも出来るし、又農具を造って農民に与えたのであります。又一般島民は鍬、ヘラ、鎌等の農具を与えてくれる按司の城下に集まって部落をつくり、その土地を耕し貢租を納めてこれに仕えたのであります。稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』>


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コメント

こんばんは。沢村さんのブログを検索していましたら、ここにたどり着きました。文中の中に奥間大親の子孫が中城の奥間村へ行き一時住し・・・を見つけました。私の地元の中城の記事でしたので目に留まりました。じつは私のミツバチ巣箱も奥間の畑において飼育しています。
奥間大親=察度王(鍛冶王)=金満按司(泰期)は親子でしたか。初めて知りました。奥間大親はカンジャーヤーで有名と聞き及んでいました。
察度王は羽衣伝説で有名な鉄を扱った王として記憶にありました。また泰期は王弟として初めて貿易した読谷の英雄と覚えていました。彼らは金工技能集団だったのですね。
「新琉球王統史 察度王 南山と北山」の著書は与並兵夫とありますが、与並岳夫氏ですね。
この項はまだまだ続くのでしょうか?
ご苦労様です。頑張ってください。
万次郎がひと区切りついてほっとしています。三人でコーヒータイムした後から最終推敲を始めたら24か所のミスがありました。すべて清書し、1冊だけの手作り製本中です。ページ数は280枚になりました。では。
2020-10-06 Tue 22:31 | URL | なかみや梁 [ 編集 ]
なかみや梁さん、コメントありがとうございました。
奥間の地名が名護、中城、宜野湾とあり、それが鍛冶とかかわりがあることが分かりました。でも中城の奥間は馴染みがないですが、ミツバチの箱を置かれているとは偶然ですね。
奥間大親の祖先、一族を巡っては、とても興味深いことがあります。
今回のブログ記事は、沖縄全体への鉄器伝来ですから、このあと八重山、宮古の伝承になります。
4年前、2016年4月に「奥間鍛冶屋の伝承をめぐって」という10数回の連載で、かなれ詳しく書いておきました。よかったらご覧ください。泰期は金満按司とされ、彼も読谷から宜野湾、小禄、具志川など各地に伝承があり、金満按司について書いたこともあります。
 与並さんの名前はミスです。直しておきます。ありがとうございました。

2020-10-06 Tue 23:17 | URL | 沢村昭洋 [ 編集 ]

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