レキオ島唄アッチャー

情け歌の名曲「恋し鏡地」

 「恋し鏡地」
 国頭村の鏡地(カガンヂ)を舞台にした民謡に「恋し鏡地(クイシカガンヂ)」がある。饒辺勝子さんのヒット曲で、彼女が歌うととても味わいがある。
 国頭村の奥間、鏡地あたりの情景と真っ白な伊集の花の美しさ、「あぶしばれー」などの民俗が描かれる。そして、愛する人と比地川橋を渡って別れた寂しさ、また戻って欲しいと願う切ない心が込められた情け歌の名曲である。
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         「恋し鏡地」を歌う饒辺勝子さん。 写真はすべてNHK沖縄のテレビ画面から。
 歌詞は次の通り。
 1、奥間森(ウクマムイ)ぬ 伊集ぬ木や 花ん咲ちょさ露かみてぃ ありから幾年なとうがや 
  見りば思いやまさてぃ 戻(ムドゥ)てぃ来うよう 鏡地(カガンヂ)に
 2、あぶしばれえぬ あぬ時(トゥチ)に 袖(スディ)にしちゃるあぬ情け ぬんでぃ他人(ユス)に
  知らすがよ  夕びん何(ぬ)がやら淋しさぬ 鏡地浜に居ちょうたしが
 3、確かありや霜月ぬ 月ぬ夜ぬあぶし路 比地川橋をぅてぃ別りたる 後姿(ウシルシガタ)ぬ
  忘ららん  戻てぃ来うよう 鏡地(カガンヂ)に
 4、此ぬ内行逢(イチャ)ゆら んでぃ思てぃ 今日(チュウ)ん友小(ドシグヮー)に沙汰さしが
  今度ぬ15夜までぃや 恋しあぬ橋渡てぃ 戻てぃ来うよう 鏡地(カガンヂ)に
                   
 歌意は次の通り
 1、奥間の森の伊集の木や 花が咲き露ものせて美しい あれから幾年たったことだろう
  見るたびに思いは強まる  戻って来ておくれよ鏡地に
 2、あぶしばれえ(虫払いの行事)のあの時に 袖にしたあの情け なぜ他人に知らせたのか 
  夕べもなにやら淋しくなって  鏡地浜に来てしまった
 3、確かあれは霜月(11月)の 月の夜の畦道だった 比地川橋を渡って別れた
  あなたの後姿が忘れられない  戻って来ておくれよ鏡地に
 4、近いうちに逢えると思って 今日も友人と噂をしていた 今度の15夜の満月までには 
  恋しいあの橋を渡って  戻って来ておくれよ鏡地に
 「あぶしばれえ」とは「畦払い」と書き、虫払いの行事のこと。4月半ばころに、住民総出で畦の草を払い、ネズミやイナゴを捕えて芭蕉の葉柄で造った小舟に載せ、ノロ(神女)以下、神人(カミンチュ)たちが祈願したあと海に流した。国頭村の多くの村落では、当日はご馳走持参で浜下りした。この日にハーリー(舟漕ぎ競争)や角力をするところもあった(『国頭村史』から)。
 饒辺勝子さんは、最後の曲と思ってレコーディングしたそうだ。発表した後、南米公演で山里ユキさんを先頭に出かけたところ、沖縄本島より早くブラジル、アルゼンチン、ペルーで歌われていたという。「それわかります。歌詞自体に先人たちの懐かしい言葉がいっぱいありますよね。アブシバレー、アブシ道、伊集の花とか。これいいな、これ古里ですよね。(鏡地は)私の古里みたいなものですよ」とNHKテレビに出演した時に話していた。
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 「恋し鏡地」には、難問がある。2番の歌詞の意味が分かりにくいことだ。歌意として滝原康盛さんの解説を紹介した。問題は「袖にしちゃるあの情け ぬんでぃ他人に知らすがよ」のカ所である。「袖にした」という和訳ではよく分からない。
 「袖にする」という言葉は、日本語的には「親しくしていた人を冷淡に扱う」「すげなくする」ことであり、男女間では「別れる」ことを意味する。だから2番の歌詞を「あぶしばれーのあの時に 別れを告げた恋 なんといって他人に語れるか」と解釈している人もいる。
 でも、別れの場面は次の3番の歌詞に出てくる。2番で4月半ばのあぶしばれーの時、別れたのに、3番でまた、11月の霜月に比地川橋を渡って別れたとなる。一度別れた後、半年間も時間がたって鏡地を出て別れたというのは不可解である。
 「ぬんでぃ他人(ユス)に知らすがよ」というのも、沖縄では男女が恋人になっても、親の許しがなければ結婚できないし、世間の噂になると付き合いができなくなり、別れざるを得なくなることがよくあった。だから恋人になっても、他人に知られないように付き合ったものだという。
 民謡では「知らすなよや、他所に知らすなよ、二人が仲」(「恋語れ」)、「もしも他人に知れて、世間の噂になったらどうするの」(沖縄本島の「久場山越路節」)といった歌詞がよく出てくる。
 この歌詞でも、恋人だった二人の関係が、他人に知られて噂になり別れることになったのだろう。だから「なんで他人に知らせたのか」と悔やんでいる。
 そうすれば、「袖にしちゃる…」という歌詞の意味も、「あぶしばれえの時に、別れを告げた恋、なんで他人に知らせたのか」では意味が通じない。前後のつながりからみて、「あぶしばれーのあの時に 愛情を交し合ったのに なんで他人に知らせたのか」と解釈するのがもっとも妥当だと思う。
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 この曲の2番の歌詞をどう理解すればよいのか、私が通っている沖縄民謡三線同好会の先生に尋ねてみた。「袖にする」とは日本語的には「冷たくする、別れる」という意味になるけれど、どう理解すればいいのでしょうか、と質問した。
 先生曰く。「いや、それは違いますね。あぶしばれえのあの時ですからね。あぶしばれえは、虫払いの行事だけれど、この日は朝からみんな仕事を休んでね。楽しむんですよ。1年に1回の行事だから、娯楽の少ない田舎では、お祭りのように楽しみでした。とくに若い人たちはね。いい人を見つける機会でもあったのですよ。この歌詞は、あぶしれえのあの時に、情けを交し合ったのに、なぜ他人に知らせたのか、という意味でしょうね」
 明快な解答だった。ここでキーワードは「あぶしばれえ」である。仕事を休んで楽しむこの日が「別れの場」ではなく、若い男女にとっては「遊びと出会いの場」でもあったのだ。4月半ばの「あぶしばれ」の時、愛情を交し合った仲なのに、他人に知られてしまい、別れざるを得なくなって、恋人は11月の月の夜に畦道を通り、比地川橋を渡って鏡地を出て行ってしまったという歌詞の流れになるのだろう。
 ただし、先生も「袖にしちゃる」の言葉の意味について、なぜ「愛情を交わしあった」という解釈になるのか、詳しい説明はしなかった。厳密な字句の解釈については不明のままである。でも、歌詞の流れからいえば、この解釈ですっきりするのは間違いない。字句の解釈については、今後も勉強をしていきたい。

 追記
 「恋し鏡地」の歌詞の解釈について、アルテ三線仲間の玉那覇宗造さんから、耳よりの話を聞いた。玉那覇さんの通う民謡研究所の先生の解釈である。それは「袖にした」という歌詞について。その先生は「袖にした、というのは、腕枕にしたという意味があるんですよ」とのこと。袖に通した腕を枕にするとは、愛情を交し合ったことを意味する。なるほど、これならとても歌の意味がスッキリとする。「袖」という言葉は、さまざまな愛情表現に使われるものである。
 



 追記
 「恋し鏡地」の歌詞の解釈について、アルテ三線仲間の玉那覇宗造さんから、耳よりの話を聞いた。玉那覇さんの通う民謡研究所の先生の解釈である。それは「袖にした」という歌詞について。その先生は「袖にした、というのは、腕枕にしたという意味があるんですよ」とのこと。袖に通した腕を枕にするとは、愛情を交し合ったことを意味する。なるほど、これならとても歌の意味がスッキリとする。「袖」という言葉は、さまざまな愛情表現に使われるものである。
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