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レキオ島唄アッチャー

永楽帝と尚泰久との類似点、その4

 永楽帝に学んだのか?
 さて、表題では「永楽帝尚泰久には共通点」としている。本題に戻りたい。
 ここからは、あくまでも尚泰久が金福王もしくはその子、志魯を打ち倒して王位に就いたことを前提にした議論となる。
 永楽帝は明の洪武帝の四男である。尚泰久は、尚巴志の五男で、尚金福王の弟にあたる。いずれも、皇帝や国王の直系の継承者・長男ではない。本来の後継順位で言えば下位の立場にありながら、皇帝、国王の直系の皇位、王位の継承者を武力で倒して、即位したということに重要な共通点がある。
 永楽帝尚泰久も四男、五男という立場でありながら、とても有能であり、兄たちをもしのぎ存在感を発揮していた点でも共通する。
 争いの過程で、南京城や首里城も焼け落ちたとされる点でも共通するが、首里城の方は焼けたという正史の記述は虚偽だとされるので、この点は共通点にはなりえない。ただし、王城が争いの舞台となったことでは共通するだろう。
       
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        尚泰久陵墓の碑                   
       
 この後は、まったくの思いつきであるが、尚泰久の国王即位は、明の永楽帝の皇位簒奪から50年ほど後の年代となる。ということは、中国に朝貢して皇帝から国王として認証される冊封(さっぽう)を受けてきた琉球には、中国からの様々な情報が伝わっていたはずである。永楽帝が二代目皇帝を倒して即位したという皇位継承の異常な事態も当然、伝わっていただろう。尚泰久も明の重大事を十分知るうる立場にあったのではないか。
 
 琉球が朝貢する明で、公然と武力で皇位簒奪が行われていることを知れば、琉球でも王位に相応しい力と能力を持つ者こそが、王位に就くべきだと考える人物が現れても不思議ではない。金福王の死に直面して、越来王子(尚泰久)が、王の弟で能力のあるみずからが、王に相応しいと考え、決起する動機になった、ということはないだろうか。
 明から政治、学問、文化から技術や航海術までさまざまなことを学んできた琉球と明との親密な関係、永楽帝と尚泰久の時代的な近接さを考えると、なにか無関係だと言い切れない気がしてならない。

 ただし、古今東西の歴史の中で、皇位や王位、将軍など権力の継承をめぐって、序列の下位にある者が上位の者を倒し、排除して、権力の座に就くことは決して珍しいことではない。だから、永楽帝と尚泰久をことさらに結びつけることには、何の根拠もない。まったくの想像の産物でしかない。もしも尚泰久を主人公にした小説を書くのなら、永楽帝の皇位簒奪が琉球にまで影響を及ぼしたという筋立もありかな。そんなまったくの思い付きであることをお断りしておきたい。
   終り

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