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永楽帝と尚泰久との類似点、その3

 支配安定につながった「護佐丸阿麻和利の乱」
 尚泰久といえばもう一つ、その在位中に起きた琉球史上でも名高い「護佐丸阿麻和利の乱」も、歴史家の間でさまざまな論議を呼んでいる。
 尚泰久王(在位1454―1460年)は、国王に即位した当時、まだ支配基盤は不安定だった。反乱が史実であれば、王府の土台骨を揺るがす大事件のはずだが、なぜか羽地朝秀が編纂した王府最初の正史『中山世鑑』には登場しない。名高い政治家、蔡温の父、蔡鐸が編纂した蔡鐸本『中山世譜』で初めて記述が現れる。
 「勝連按司の阿摩和利という者がいた。元来、君主を無視する気持があり、反乱をしようとしたが、護佐丸が中城にいて要路をおさえており、そのたくらみははたせなかった。そこで、護佐丸を王に讒言した。王は阿摩和利に命じて、護佐丸を討伐させた。阿摩和利はその後、得意になって反乱しようとした」。百度踏揚(ももとふみあがり)と従者、鬼大城が謀反を知り、王に知らせ、王は鬼大城に命じて討たせた(原田禹雄訳注、蔡鐸本『中山世譜』から)。
 この記述は、護佐丸忠臣、阿麻和利逆臣の立場で描かれている。
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            阿麻和利の居城だった勝連城跡
  
 阿麻和利逆臣論には強い批判があるが、いずれにしてもこの乱によって、尚泰久の支配に目障りな二人の有力按司が、一挙に滅んでしまい、国王の権力基盤は安定した。尚泰久にとって、あまりにも都合のよい「乱」ではないだろうか。「尚泰久の陰謀ではないか」「金丸が仕組んだのではないか」との噂が絶えない。
 国王になったのも「志魯・布里の乱」による共倒れという「棚からぼた餅」のように王座が転がり込んできた。「護佐丸・阿麻和利の乱」も上記のように、尚泰久にとって、とっても都合のよい「反逆」であり、「鎮圧」となった。これらは、本当に偶然の産物なのだろうか、という疑問がつきない。

 金丸によるクーデター
 「志魯・布里の乱」が実際には「尚泰久の乱」だとして、これはあくまで第一尚氏の王統、血統の中での王位簒奪だった。尚泰久の死後、第七代国王となった尚徳王の死に際して、尚泰久の側近だった金丸がクーデターを起こし、第一尚氏の王統を滅ぼして、第二尚氏の初代国王となり尚円王を名乗った。わずか20年くらいの間に、2度にわたり王位を巡るクーデターが起きたことになる。この王位簒奪は、果たして偶然だろうか。
 金丸は尚泰久が越来王子の時代に見い出されて、家臣となり、高官に抜擢される。尚泰久が即位すると、西原間切の内間領主に任命され、さらに御物城御鎖之側(おものぐすく・おさすのそば貿易長官)に抜擢された。
 尚泰久の側で仕えていた金丸は、尚泰久が尚金福の子、志魯を倒して王に即位する策謀の一部始終を見ていただろう。いや、忠実な家臣ならこのクーデターの実行の一翼を担っていたことも十分ありうることである。
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                               護佐丸の居城だった中城城跡


 これらの二つの「乱」の実相を見てきた金丸が、尚泰久の策略と行動から権力掌握の術策を学び取り、王亡き後に国王になる野望を密かに抱くようになった。このような見方をしても、まったくの見当違いとはいえないだろう。
 尚泰久王が死去し、世子尚徳が即位すると、尚徳王との関係はうまくいかず、いったんは内間村に隠遁した。1469年4月、尚徳王が死去すると、幼い世子に代わり、金丸が国王に推されて即位したとされる。
 
 「尚徳の死後、その第二王子の中和が僅か1年ほどではあったが王位にあった」(高瀬恭子著「第一尚氏最後の王『中和』」)という考証も出されている。とすれば、第8代中和王を倒して王位を簒奪したことになる。
 これらの一連の歴史の流れを見ると、「尚泰久の乱」はそれだけで終わったのではなく、第一尚氏を滅ぼす「金丸の乱」もその延長線上に起きたとも言えるのかもしれない。

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