FC2ブログ

レキオ島唄アッチャー

永楽帝と尚泰久との類似点、その2

 首里城は炎上したか
 「志魯・布里の乱」で首里城が炎上したというのも疑問だという(内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」)。
 高瀬論文は、要旨次のようにのべている。
『蔡温本世譜』の記述は、王弟布里と志魯の両軍入り乱れて殺しあい、満城に火が起こり府庫が焚焼。布里と志魯は二人共傷つき死に、朝廷が賜わった鍍金銀印も鎔壊するに至ったとされている。蔡温が参照した『中山沿革志』では、焼けたのは府庫としているのに蔡温は「満城火起」と変更した。
 尚泰久の奏文は、府庫が焚焼し、明から賜わった鍍金銀印が失われたので、再び賜わりたいとのべている。尚泰久が尚金福あるいは尚金福の世子を倒して王位に即いたとしても、尚金福あるいは尚金福の世子が印を持ち出したために、これを入手できなかった尚泰久は、府庫が焚焼し鎔壊したと称するしかなかった。
蔡温は「満城火起」と記しながら、『蔡温本世譜』には、尚泰久が広厳・普門・天龍三寺を建て、多くの巨鐘を鋳造させたことは記しながら、王城を再建したとの記述は全くない。
                IMG_4152.jpg 
                                        首里城

 しかも尚泰久王即位3年(1456)年に久米島に漂着し、4年余を王城で暮らした朝鮮人の記録によれば、「王城はおおむね三重で、外城に倉庫や厩がある。中城には侍衛の軍二百余が居る。内城に二、三の層閣があり、おおよそ勤政殿のようである」と記している。城の再建は3年では到底不可能。大規模な火災があったとしたら、その痕跡を見逃すことはなく、何よりも新正殿であったとすれば、それに言及しないはずはないことから「正殿は炎上しなかったものと思われる」と結論づけている。
高瀬氏の論考は、これまでの琉球史の定説を覆す提起である。

 高瀬氏の論考について、来間泰男沖縄国際大学名誉教授は「よくわかる沖縄の歴史 社会変化を読み解く」の「第6話 阿麻和利の乱はあったか」(「琉球新報2018年11月1日~6日」)の中で要点を紹介した上で、「火災がなかったということについては説得力があり、この『志魯・布里の乱』そのものがなかったということについても同意したい」とのべて、肯定的な見解を表明している。
私もこの「志魯・布里の乱はなかった、尚泰久の乱と呼ぶべきもの」「首里城炎上もなかった」という考察はとても説得力があると思う。ということは、尚泰久が甥っ子の志魯を倒して王位を簒奪したことになる。

関連記事
スポンサーサイト

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<県民の憤り増幅させるだけ、辺野古への土砂投入 | ホーム | アルテで「四季の喜び」を歌う>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |