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レキオ島唄アッチャー

永楽帝と尚泰久との類似点、その1

  先日、NHKBSプレミアムの「中国王朝 よみがえる伝説『永楽帝と鄭和の大航海』」を見た。永楽帝は有名な皇帝であるが、知らないことが多く、なかなか面白く見た。番組は次のような内容である。
<「血塗られた天子」と呼ばれる明・永楽帝。力で皇位を奪い、1万人を超える敵対者を粛清。残虐な皇帝とされるが、悪評の中でも強固な権力を確立、万里の長城、紫禁城、天壇を建設するなど明の最盛期を実現した。その権力の秘密を解く鍵は鄭和の大航海にあった。>
                        永楽帝
 
 南京の建文帝に対し反乱
 見ていて、ふと思ったのは、琉球でも少し似たような歴史があったのではないか、ということだった。本題に入る前に、永楽帝について改めて見ておきたい。
 永楽帝(1360―1424年)は中国、明の第3代皇帝 (在位 1402―1424年)である 。明を起こした朱元璋の4男として生まれた。燕王として北平(北京の旧称)に封じられた。戦場での能力と勇敢さを洪武帝に認められていた。皇太子であった長男・朱標が死去すると、洪武帝は4男の朱棣(後の永楽帝)に皇位を継がせようとしたが群臣に反対され取り止めた。朱棣を皇帝にできないことを嘆き悲しんだという。1398年、洪武帝が死去し、長男・朱標の子が建文帝として即位した。燕王朱棣を逮捕する動きに反発した朱棣は兵を集め、南京の建文帝に対し反乱を起こした。朱棣は南京を攻撃。建文帝は宮殿に火を放った。1402年、靖難の変に勝利した朱棣は皇帝に即位した。永楽帝は、北平に国都を定め、紫禁城を完成させ移った。
 永楽帝は積極的な外征を行い、対外進出を中心にした政策を実施した。宦官の鄭和を七度にわたり大艦隊を南海方面に派遣(1405―1433年)。東南アジアからアフリカ東海岸に及ぶ30以上の国々に朝貢させたことで知られる。(ウィキペディアを参考にした)

 琉球史でも似た事例があった
 番組を見て印象に残ったのは、四男でありながら洪武帝が後継者に思うほど、有能な人物であったこと。洪武帝の没後、皇位についた長男の息子といえば、永楽帝にとって甥っ子にあたる。その甥を武力で倒して皇位を簒奪したこと。当時の国都・南京の攻撃の際、宮殿は焼け落ちたことである。
 「あれっ、琉球でもなんか似たような事例があったな」と思った。それは第一尚氏の六代目、尚泰久王(1415―1460年)の即位である。琉球王府の正史では、五代目金福王が亡くなった後、王位を巡って金福王の子・志魯(しろ)と尚巴志の四男・布里(ふり)が争った「志魯・布里の乱」で二人とも共倒れとなり、金丸(後の尚円王)らに推されて尚泰久が王位に就いたとされる。だが、これは真実なのか?。
             
 「尚泰久の乱」とは
 「志魯・布里の乱はなかった」「実際には尚泰久の乱だった」という注目される論考が出されている。すでにこのブログでも紹介した。高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」(内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』)である。こ の論文から要点だけを再度紹介する。
                          尚泰久王の墓
                             尚泰久の墓

   琉球王府の正史のうち、『中山世鑑』、蔡鐸重修の『中山世譜』には、この「志魯・布里の乱」の記述はなく、『蔡温本世譜』と『球陽』だけに記述が出現する。この記事は、尚貞王の冊封使汪楫(おうしゅう)が著した『中山沿革志』をもとにしており、『中山沿革志』は『明実録』を基にまとめたものである。『明実録』の記事の大半は、尚泰久が奉った奉文の引用である。「王位継承を巡る内乱における第三者として上奏している尚泰久であるが、実は内訌の当事者であり、まさにその勝者であったという可能性は決して否定できないのである」。
 尚泰久は、尚金福の在位中から、軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立ち、とても存在感を示していたという。
 <「志魯・布里の乱」と呼ばれてきたものは、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものであって、尚泰久が倒した相手は、尚金福の世子、もしくは尚金福本人であったと思われる。>
 高瀬氏はこのように結論づけている。

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