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レキオ島唄アッチャー

「朝ぱな節」考、その5

 「あさぱな」は忘れられ「六調」は発展
 新崎氏によると、「八重山六調」の三味線技法を見ると二通りあるという。一つはスキップリズムを主体とする奏法と、今一つは三連音符を駆使した三味線奏法である。前者は石垣市中心の四ケ字で弾かれ、後者は宮良以東で弾かれる技法だという。
「六調節もその発展の過程において、鳩間加真戸さんの手によって大正14年頃新たに三連音符を駆使した三味線技法に作り替えられたことになる」。六調節は明治年代にすでに伝わっていたが、鳩間氏は三連音符の奏法に作り替えたと見ている。
 奄美にルーツを持つ二つの島唄の中で、「あさぱな」はなぜかあまり広がらず、登野城と白保の一部で命脈を保つぐらいで忘れかけられている歌だという。
 一方「六調節」はその後もますます広がりをみせ、今では八重山におけるめでたい宴席や祭行事の道踊りとして欠かせない民謡となり、「八重山の唯一のカチャーシ音楽として大きく発展している」(『八重山民謡の考察』)という。
               
              竹富町小浜島の「結願祭」の舞台芸能。「六調」も踊られている
           
 奄美歌が伝わった背景に八重山社会の変貌が
 それにしても、奄美の島唄がなぜ、沖縄本島や宮古島を飛び越して八重山に伝わり、親しまれるようになったのだろうか。そこには、社会的な背景がある。新崎氏は次のように述べている。
 <明治12年の琉球廃藩を境に八重山の社会は大きく変貌し、これまで通っておった「マーラン船」にとって変わり、大型の蒸気船が就航するようになった。これまで長いこと閉ざされていた階級社会も一気に開放され、自分の意志で沖縄本島や本土(大和)へ自由に往き来できるようになったと言う。それに伴い大和商人(鹿児島、奄美出身者)を初め元首里王府役人等も職を求め、新天地八重山へ洪水のように入ってきた。(『八重山民謡の考察』)>
 仲宗根幸市氏が解説している「沖縄廃藩後、奄美から多くの方々が、新天地八重山を求め、伊野田地区に入植され(た)」という話しも、大和からの流入の一環なのだろう。
 
 <おそらく、当時の八重山の社会は廃藩後、日も浅く人々の心も落ちつかず、ほそぼそと暮らしていたに違いない。しかも、当時の八重山の政治、経済界はすべて大和の人々(鹿児島出身者)によって牛耳られておつたことは明治大正初期の方ならまだ記憶に残っておられることと思う。当時の八重山の社会は大和化の風潮が強く、人々は社会から一人前の人間と認められるためにも躍起になって大和文化を生活の中に採り入れようとした。…
 特に、当時の若者等は時代の激動を乗りこえるために競って大和化を求めていた。それが民謡の中にも表われ「あさぱな」や「六調節」を導入し、またアレンジしたのではないかと考えられる。しかも、彼等はそれを謡い踊ることによって我を忘れ日頃のストレスを発散させていたのではないかと考えられる。その意味から言っても、確かに「あさぱな」「六調節」は当時の社会を象徴する歌であり、世相を反映した民謡と言えるのではないかと思う。(『八重山民謡の考察』)>
 廃藩置県後に八重山は、鹿児島や奄美諸島から大勢の人たちが新天地を求めて流入し、政治、経済界で大和の人々が力を持ち、大和化の社会風潮も強かったという。その過程で、奄美を代表する島唄である「あさぱな」や「六調」が導入され、アレンジされ、歌い踊られるようになったという。
 それにしても、このように民謡の広がり、伝わり方を探っていくと、そこには時代状況と社会的背景が刻まれており、とても興味深いものがある。
  終わり

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