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レキオ島唄アッチャー

「朝ぱな節」考、その4

 なぜ奄美の島唄が八重山に伝わったのか
 奄美諸島と八重山諸島は遠く離れている。沖縄本島や宮古諸島を飛び越してなぜ奄美の島唄が八重山に伝わったのだろうか。仲宗根幸市氏は、次のように指摘している。
 <奄美の「あさぱな節」が八重山に伝ぱしたのは、八重山の人が奄美で習い覚えて持ち帰ったケースや、奄美の人が八重山へ持ち込んだケースなど複数の線が考えられる。そして、八重山風に潤色して歌遊びの場に根づかせたのである(『琉球列島島うた紀行 八重山諸島 宮古諸島』)>

 八重山の歌詞を見る限り、仲宗根氏が指摘している通り、「ハーレー」「ヤーレー」の囃子詞が入るという共通性がある点でも、八重山の「あさぱな」が「遊び女」をイメージし、奄美の「浅い女」など女性の形容詞としての用例を継承している点でも、奄美から伝わったことは確かと思われる。
 ただまだ、どのように伝わったのか、その具体的な経緯はわからない。仲宗根氏は別途、「あさぱな」と「六調」が奄美から伝わった背景を解説している。
 <仲宗根幸市氏(しまうた文化研究会長)の説によれば
『明治12年の沖縄廃藩後、奄美から多くの方々が、新天地八重山を求め、伊野田地区に入植され、そこで彼等は農業を手広く営んでおられたと言う。その伊野田地区に最も近い白保の人々は日頃から奄美の方々と交流をしている裡に「あさぱな」を習いそれがいつしか八重山風にアレンジされて流行ったのが八重山の「あさぱな」の起源であると述べている。その証拠に「あさぱな」が白保部落に、今なお、色濃く遺っておるのもそのためであろう』
と記しておられる。
 なお、「八重山六調」も彼の説によれば、奄美の方を父にもつ宮良部落の鳩間加真戸さん(調査当時89才)が、若い頃(大正14年頃「37才」)父の出身地奄美の名瀬から六調を持ち帰えり、アレンジして宮良で流行らされたと述べておられる。>
 この仲宗根氏の見解は、新崎善仁氏が『八重山民謡の考察』の中の「『あさぱな・六調節』のルーツとその歴史的変遷」という論文で紹介している。
                  
                   八重山の六調
 新崎氏も<八重山の「あさぱな・六調節」はもともと、奄美大島の歌と言われているが、古老たちの話によれば、明治12年の沖縄廃藩後まもなく、奄美から持ち込まれ、そこでアレンジされて流行った歌とされている(『八重山民謡の考察』)>と記している。
 新崎氏は、「あさぱな」と「六調節」を一括してそのルーツを考察している。仲宗根氏とは異なる見解である。以下そのなかから紹介する。
 新崎氏は、「あさぱな・六調節」は、石垣島の登野城永用氏が奄美から持ち込んだと述べている。その根拠としているのが、伊波興良氏(登野城ユンタ保存会顧問)がまとめた「あさぱな六調節考」という資料である。そこには証言が紹介されている。二つの証言を引用する。
<○字大川の長田紀光氏(八重山ユンタ・ジラバ・アヨーの師匠「調査当時88才」の話)
「あさぱな」は大島の歌で、登野城村の誰かが大島に行かれ、そこで習ってこられ、八重山風に直して流行らされたと聞いている。私たちは昔から「あさぱな」は登野城の歌といっている。それから「六調節」は昔から各地区にあったと思う。その理由は明治38年、八重山島庁新築落成祝い(現在の地方庁)の時、大川村は六調節を道踊りとして出ていた。その時の踊り手や、師匠等、私はみな覚えている。」>

<○字登野城の伊波興良氏(登野城ユンタ保存会顧問「調査当時83才」の話(現在91才))
「私が子供の頃、父(嘉永5年生)から聞いた話で、八重山の「あさぱな」「六調節」はカニホー屋ぬ主(登野城永用翁)が大島で習ってきて、みなに教え流行らせた歌である。また、もう一つ私が子供の頃、ある行列があって、隣の家で大浜信烈翁(大浜信泉先生の父)が沢山の婦人たちに道踊りとして「あさぱな」を教えておられたことを覚えている。(今から70年前のこと)大浜信烈翁は安政4年(1857)3月24日生で(122年前の人)当時、登野城永用翁とは同趣味をもっておられた先輩後輩として親交も厚く、民謡もよく研究し謡っておられた。また、当時、白保の琉舞師範星潤氏(元立法院議員星克の父)は信烈翁の長女婿でもあったせいか白保部落にも盛んに「あさぱな」は踊られていた。」>
                   
                    奄美の六調
 この証言によれば、「あさぱな・六調節」は「カニホー屋ぬ主(登野城永用翁)」という特定の人物が、奄美大島で習ってきて、教え流行らせたという。証言は具体的で信憑性は極めて高いと思われる。

 では、「あさぱな」は奄美からの入植者がいて、白保住民との交流の中で伝わったという仲宗根氏紹介の伝承との関係はどう考えればよいのか。奄美の出身者がいれば、三線を持って来ていて、折々に奄美島唄を歌っていたはずである。白保住民との交流があれば、それが伝わることは自然な流れである。だから、白保に伝わったという伝承も否定はできない。白保と登野城の伝承は、互に否定する関係ではないし、矛盾はしない。白保にも登野城にも二つのルートで伝わったと考えることは、十分あり得ることである。

 「六調節」については、仲宗根氏の解説する大正年代よりもっと前に伝わっていたという。新崎氏は次のようにのべている。
<「あさぱな・六調節」は沖縄廃藩後、まもなく、登野城永用氏によって奄美から持ち込まれ、アレンジされてすでに巷で流行っており、その証拠に、明治38年の島庁(現在の地方庁)の新築落成祝賀行事の際に道踊りとして登場し、踊られていた形跡がある。それから推してみてもすでに90有余年(注・著作の出版は1992年)も経過していることになる。>
 これは、先に紹介した字大川の長田紀光氏の証言で明らかにされている。


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2018-10-05 Fri 18:52 | | [ 編集 ]

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