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島原の乱で荒廃した地に国策で移住

 島原の乱で荒廃した地に国策で移住
 中東・バーレーンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)第42回世界遺産委員会は30日、江戸時代」キリスト教禁制と独自の信仰の歴史を伝える「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本)を世界文化遺産に登録すると決定した。
 「2世紀以上にわたる禁制下で進行を継続した独特の宗教的伝統を物語る、他に類を見ない証拠」と高く評価し、12の構成資産全てが世界遺産にふさわしいと判断した(「琉球新報」7月1日付)。
 
 島原にはもう30年以上前に仕事で行ったことがある。その際は、島原・天草一揆と天草四郎について少し関連する本を読んだ記憶がある。今回の世界遺産登録に関連して、この一揆の鎮圧で荒廃した島原半島に、九州だけでなく四国からも住民が移住させられたと聞いた。移住のことは、前に読んだかもしれないがすっかり忘れていた。世界遺産登録とは関係ないが、「そんな歴史があったのか」と島原の歴史に思いを馳せた。
      原城跡、長崎県世界遺産登録推進課HP  
              原城跡(長崎県世界遺産登録推進課HPから)


 12の登録資産の一つ、「原城跡」は1637~38年の島原の乱の舞台となった。キリシタン農民が立てこもった。徳川幕府はポルトガル船の来航を禁じ、鎖国体制をとるなかで、宣教師不足となり信徒が潜伏するきっかけになった。
 島原の乱では島原、天草の領民計3万7千人が犠牲となり、島原半島南部はほぼ無人化したという。幕府は1642年、九州諸藩や幕領などに移住者を出すよう命令を出した。
 今年2月から3月にかけて、島原半島への大規模移住を題材にした初の特別展が、南島原市口之津町の口之津図書館で開かれたそうだ。
 <当時、半島は年貢が軽減される“移住特区”となり、優遇策目当てに無断で移り住む人が増えるなど混乱も起きた。…特別展では熊本、豊後高松、萩の各藩に宛てた移住令の書簡を展示。移住者の総数は不明だが、別史料では熊本藩から島原、天草へ男女計356人や牛馬11頭が移った記録もある。
 一方で、熊本藩の史料は、労働力を奪う移住策が熊本の農民にとって「迷惑」だったと記し、萩藩は「牛疫(ぎゅうえき)」の発生で農民が疲弊して多くの移住者を出せない事情があったことを伝える。各藩が異例の移住令に困惑した様子もうかがえる。(「西日本新聞」2018年02月28日)>

 島原そうめんの由来 
 島原といえば手延べそうめんが有名。これも四国の小豆島からの移住者が伝えたという説がある。
 長崎県食品販売株式会社HP「島原そうめん史」は次のように記述している(http://www.mentatu.com/somen-history.html)。
  <(島原のそうめんは)西有家町の須川地区が発祥の地とされています。(1637年(寛永14年)頃)
 島原の乱の後、住民が居なくなった島原半島には、九州をはじめ各地から強制的に移民が集められました。また、幕府直轄領だった小豆島から多くの強制移民が当地に集められました。島原の乱の40年以上前より、小豆島そうめんは作られており、この小豆島そうめんが島原の乱後の強制移民によって伝えられたのが、島原そうめんの起源とされています。
 
 ただし、島原のそうめんの由来については、中国の福建省から伝わった説もあり、確定していない。
 移住といえば、かつて琉球では、石垣島で明和の大津波で壊滅的な被害を受けた白保をはじめ地域に、波照間島など八重山の離島から移住させたのをはじめ、人口の少ない島や地域に首里王府が強制移住させ、住民が苦難を強いられた歴史があることを思い起こした。
 島原半島への移住はさらに大規模なものだが、移住に特典があったとしても、さまざまな辛い歴史があったことだろう。

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