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もっと評価されてよい島津久光、挙藩一致

 「挙藩一致」で行動
  久光が兵を率いて出発する前の3月中に、藩内に次のような久光の論書が示されていた。
 <この論書で最も強調されているのは「慷慨激烈」の節を主張する志士や「浪人軽率」の所業などに共感して接触を持つようなことをしてはならないとする点で、…俗にいう尊攘慷慨の志士と、私的に交際することを禁じたものであるが、言い方をかえると、藩士個人で国事運動にかかわることを禁じたもので、国事周旋運動は挙藩一致で行うものであることを、主張していたのである。…

西郷は久光の命令(論書)に背くとともに、薩摩藩の基本方針にも反していたのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>
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                         沖永良部島にある「西郷隆盛 敬天愛人 発祥の地」の石碑

 

 このころ京、大坂には、過激な尊王攘夷派の志士たちが集まり、久光の上京を期として決起しようとしていた。薩摩藩士の有馬新七、柴山愛次郎らは、志士田中河内介(元中山忠能家の家士)とともに、京都所司代の襲撃を計画していた。
 久光がこのような無謀な挙に反対の立場であった。藩士を寺田屋に派遣して説得したが、受け入れなかった有馬等は、上意討ちとなった。
 有馬らの行動は、「久光の論書と藩の基本方針に背いたうえに、勅命にも反したものであった」(同書)。
 
 西郷の処分や寺田屋事件は、冷徹、非情な対処であるが、結果としては薩摩藩の挙藩一致の体制を作ることにつながったのかもしれない。
 藩のまとまりという点においては、薩摩藩と長州藩とは大きく異なる。
 <たとえば長州藩は文久276日に、京都の藩邸でいわゆる攘夷の藩論を定めたが、藩地の「俗論派(保守的門閥派)」の反対意見が強く、薩摩藩のような藩全体に支持された藩論とはいい難かった。それゆえ藩内の対立が続き、ついに元治の内戦(注)となったのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)>。 
 (注)朝廷と幕府が長州征伐軍の派遣を決め、藩が存亡の危機を前に、攘夷を志向する長州正義派とこれに反発する俗論派が武力衝突となり、最終的に正義派が勝利した。 
 
 久光らが幕末の激動期に「挙藩一致」の基本方針を厳格に守り、目的に向かって一致して行動したことは、薩摩藩が討幕と新政府樹立のため重要な役割を果たすうえで、キーポイントの一つになったのではないだろうか。

 


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