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レキオ島唄アッチャー

もっと評価されてよい島津久光、兵を率いてい上京

1000余の兵を率いて上京

島津久光は、小松帯刀と大久保利通そして藩兵一千余を率いて、文久2年(1862316日に鹿児島を出発し、4月上洛した。上京は単に朝廷・京都を守護するだけではなく、他に明確な目的があった。
 <薩摩藩・久光の政治運動の基本路線は、朝廷と幕府の改革を要求・実現することであり、今回はその出発点として位置付けられるものだったのである。そしてこの改革は「徳川家御扶助、公武合体」を実現するためのものであり、そのことは「先君(斉彬)の遺志」であり、それを実現することでもあった。すなわち薩摩藩は挙藩体制で、斉彬の遺志に基づいて行動するものであることを主張していたのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

<外様雄藩・薩摩藩の藩主後見人であり藩主の父であるというだけで、当初は好奇の目でみられていた、無位無官の武家にすぎない久光の出府は、結果論的にではあるが久光の存在を、強くかつ広く世にアピールすることになったのである(同書)。>

                    
              IMG_7306.jpg 
            沖永良部島にある西郷隆盛の像

 この久光の上京計画には、当初、奄美大島から鹿児島に帰った西郷隆盛は、強く反対したとされる。朝廷に対する十分な根回しがなくては、公武周旋を依頼する勅諚が出されることは難しいこと、諸侯との接触も浅く、無位無官の久光では、諸侯の協力も期待できないという理由からだ。「しかし西郷の頭が時代に遅れていた」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
 久光は西郷に、先発して九州各地の情勢を視察して、下関で一行を待つように命じた。西郷は「上方の状況を知り、命令を無視して大坂へと走り尊王攘夷派をなだめてまわった。しかし、命令を無視された久光は激怒。さらに姫路で西郷が尊王攘夷派をあおっていると聞かされたため怒りは頂点に達し、西郷をとらえさせ、はじめ徳之島、のちに沖永良部島に流した」(『鹿児島県の歴史』)。
 

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