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レキオ島唄アッチャー

もっと評価されてよい島津久光、誠忠組

 誠忠組と深いきずな
 幕末の薩摩藩といえば、とかく西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らが脚光を浴びることが多い。当たり前のことではあるが、かれらは勝手に活動していたのではない。藩の戦略と方針にもとづいて活動していたのであり、それを統率し、指導していたのは、「国父」久光であり、藩主・忠義であろう。

 久光と西郷や大久保をはじめ藩士との関係は、以下のような事例を見ればよくわかる。

 西郷隆盛、大久保利通、岩下佐次右衛門らの薩摩藩有志(誠忠組)は、水戸藩有志と計って大老井伊直弼の襲撃を計画し、安政6年(1859)から万延元年にかけて、幾度から脱藩し決行しようとするが、それを思いとどまるようにと久光が説得するなかで、久光と誠忠組の信頼関係が結ばれたとされる。
 安政6年9月、忠義(茂久)は実父久光と相談。久光は忠義に脱藩突出の中止を求める直筆の論書(さとしがき)を書かせ、これを大久保に送った。以下の内容である。
 <いま世の中が動揺し容易ならぬ時節となっている。そうしたなかで万一「事変」が起こった際には、自分(茂久)は藩を挙げて天皇と朝廷を守り忠誠を尽くすつもりであり、それは順聖院様(斉彬)の遺志を引継ぎ実現することである。このことをお前たち有志の面々はよく心得て、藩の柱石となる気持ちで、自分(茂久)を支え助けてもらいたい(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>
                       大久保利通_4 

                           大久保利通
 「この異例の藩主論書に大久保らは感激して脱藩を中止、血判入の請書を提出し、みずからを精忠組(誠忠組とも)と称するようになった。こうして薩摩藩の尊王攘夷派の中核となる精忠組が誕生したのである」(『鹿児島県の歴史』)

 <本来なら厳罰に処されて当然の大久保たちを「誠忠」、忠義の者であるとまで呼び持ち上げました。薩摩からは一人も脱藩者も出さない、保守派にも急進派にも薩摩は一つになって行動するという基本方針を宣言したのです。それは計り知れない効果をもたらしました(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」)。>
 
 志學館大学教授原口泉さんは次のように評価している。
 「これは感激でしょう。(大久保ら)もらう身になって思えば誠忠の士へといまは時期早々だけどいざという時には薩摩藩をあげて立つという挙藩体制の大事さをこの諭書のなかでさりげなく盛り込んでいる。一つにならなきゃ駄目なんだよということ。斉彬も築けなかった挙藩体制を久光が実現したということはまぎれもない事実なんですよ。そして斉彬という超エリートに久光はコンプレックスを持っていたことは否めないと思いますよ。ただ斉彬ができなかった挙藩体制を私が実現したと、その排除じゃなくて取り込むという政治方針を久光は骨の髄までもっていたと思います。」(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」)

 久光と誠忠組との間が深いきずなでつながれたことが、その後、薩摩藩が一つにまとまって行動する土台となった。

 <幕末に内紛や分裂をする藩が多い中で薩摩は一丸となって突き進みそれが明治維新への大きな原動力となります。意見が対立し組織が分裂しそうな時、双方の意見に耳を傾け折り合いをつけてゆく。久光はこうした姿勢で藩をまとめ上げたのです(NHKEテレ2018・6・5「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」>

 
 
安政7年3月3日には、井伊直弼襲撃が起きた。3月23日には、知らせが藩庁に届いた。
 <翌24日、大久保は久光邸に行き、関東表が大変であるから、前の約束に基づき、関東守衛の名目で出兵し、実際は京都に滞在して、禁裏の守衛に就くべきであると強硬に主張した。しかし久光は承知しなかった。たしかに事変が起こったら出兵すると約束した。しかし此度の事件は、水戸藩浪人による事件で「兵乱」とはみなせない。しかも薩摩藩士が関係しているから、幕府がどうでてくるか予測もできないときに、軽率に出兵などできない、兵事は国家(薩摩藩)の大事であるから、よくよく前後のことを考えることが大事であると述べ、大久保を諭した(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

 誠忠組の、安政5年12月の最初の「突出」計画以来、安政6年9月、安政7年2月初め(山口三斎帰藩の際)、同21日、そして同じく3月の参勤発駕の際と、計5度におよぶ「突出」計画は、一度も実行されることなく終息したのであった。

 <最初の西郷隆盛が主張した「突出」計画はもとより、誠忠組の計画は「突出」したあとの具体的な方針や見通しを欠いた、いかにも杜撰なもので、正義の行動であるという自己中心的発想と熱情から、勢いにまかせて出て行くようなものであった。これにたいし島津久光は、冷静な大局観と状況判断に基づいて、誠忠組の要求にたいして、説得力をもった論理で対応していたといえよう。また繰り返しなされた「突出」計画と、建白・嘆願そして大久保利利通との面談などにたいして、そのつど忍耐強く対応し説得にあたった。おそらくこのような久光の責任者としての姿勢と政治的資質は、薩摩藩全体に大きく評価されたに違いない(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>

 とかく先鋭的に走りがちな藩士の杜撰な「突出」計画や井伊直弼襲撃事件への久光の対応を見ると、「冷静な大局観と状況判断」にもとづいており、「暗愚の公子」などという一部のうわさが根も葉もないものであったことがわかる。

 久光は「先を見通す力を持った戦略家であり政治家であった」。市村哲二・黎明館学芸専門員はこのように指摘する(NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」201852日放送「西郷隆盛をつくったふたりの上司」)。

 

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