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もっと評価されてよい島津久光、斉彬の遺志受け継ぐ

斉彬の遺志を受け継ぐ

 忠義が藩主となった当時は、まだ斉興(なりおき)が健在だった。後見役となった斉興は斉彬の政策には批判的で、斉彬がすすめた諸事業の中止・縮小を命じた。安政6年(1859)3月、藩主の後見役となった久光は、斉彬を嫌った父、斉興の意向とは異なり、斉彬の遺志を受け継ぐ。
 「斉彬は久光の資質を高く評価し、かつ藩政に関しても相談していたから、両者の信頼関係は確かで、斉彬の考え方は十分に久光に伝わっていたと思われる」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)
 「久光は斉興派の重臣島津豊後久宝を失脚させて藩の実権を掌握。斉彬が推進していた公武合体路線の継承を訴え藩論の統一をはかった。また、集成館の復興に着手し、蒸気船も購入した」。ただ、斉彬の死後、西欧を見下す風潮が藩内に広がり、「集成館の復興は造砲部門など一部にとどまった」(『鹿児島県の歴史』)という。

      島津斉彬 
            島津斉彬

 

 薩摩藩はその後、西欧の軍事・科学技術の導入を積極的に進めた。
 文久2年(1862)、久光が1000人余の兵を率いて上洛し、さらに江戸に行った帰り、久光の行列を乱したイギリス人を殺傷した生麦事件が起きた。これがもとになり薩英戦争を招き、西欧の強力な軍事力を目の当たりにすることになる。
 薩摩藩は、焼失した集成館の復興、機械工場・鋳物工場・鍛治場・木工場・製薬所など工場群が建てられた。大砲や弾薬の製造、蒸気機関や艦船修理などを行なった。銃砲も西欧から大量に輸入し、兵制もイギリス式に改めた。外国船の購入により海運・海軍力も強化した。
 これらを支える人材育成に力を注いだ。元治元年(1864)、洋学校・開成所を設立し、英語・陸海軍砲術・兵法・天文・地理・航海術・数学・物理・医学など教えた。教授に招かれた中に、中浜万次郎もいた。翌年には、日本人の海外渡航が禁止されている中で、薩摩藩は3人の使節団と藩費留学生15人をイギリスに派遣した。
 「国禁をおかしての派遣であるから、このころ薩摩藩は公武合体路線から離脱しはじめたとみられる」(『鹿児島県の近現代』)
 
 久光はとかく、国学に通じ、伝統を重んじて「守旧的」「田舎者」などと称されがちだが、「国父」として斉彬の遺志を受け継ぎ、軍事や産業の近代化や人材の育成に力を注いだことは、その後の薩摩藩の公武合体から討幕と新政府樹立へと向かう上で、それを支える重要な力となった。
 大阪学院大学経済学部教授 森田健司は、次のような評価をしている。
 
実子の忠義(1840-1897)が藩主となってからは、「国父」として藩政の実権を握り、公武合体運動の推進で活躍し、斉彬以上に薩摩藩の力を高めることに成功している。>THE PAGE」の「連載【西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」】(全5回)」から、https://thepage.jp/detail/20180129-00000003-wordleaf?utm_expid=90592221-90.x0Auz-QlTn2yldOAHtyYkA.0&utm_referrer=http%3A%2F%2Fsearch.yahoo.co.jp%2F

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