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もっと評価されてよい島津久光、「暗愚の公子」か

 NHK大河ドラマ「西郷どん」は、名君島津斉彬(なりあきら)が亡くなり、異母兄弟の久光が藩主ではないが「国父」として薩摩藩の指導者として登場している。西郷隆盛とは仲が悪かったといわれ、西郷が主役のドラマでは、久光が悪者に描かれるのではないかという心配の声が出ている。すでにあまり賢い人物とは描かれていない印象である。これまでとかく、久光は斉彬と対比され、「暗愚」「田舎者」「保守派」「野心家」などという噂がつきまとう。
 「西郷どん」は毎回楽しみにして見るので、少し薩摩藩についての歴史本を読んでいる。それで感じるのは、これまで久光に持っていた印象とはかなれ異なること。彼が藩の指導者として、よく考えた判断をしていたのではないだろうか、と思うところがある。島津久光が歴史上に果たした役割はもっと評価されていいのではないか。そんな感想をもった。
 

NHKの注目される企画

 NHKは大河ドラマ「西郷どん」を放送していることと関連して、薩摩藩の歴史にかかわる企画を何回か放送しているが、とくに島津久光に注目した企画が目に付く。
 BSプレミアム201814日「英雄たちの選択 ここに始まる~島津久光率兵上京の決断~」は、「西郷、大久保らを中心に語られてきた幕末史が大きく書きかえられようとしている」として久光の率兵上京の決断に焦点をあてていた。NHK総合201852日「歴史秘話『西郷隆盛をつくったふたりの上司』」として、久光と藩重臣・桂久武を取り上げていた。久光が西郷とただ敵対したという視点ではなく、西郷に厳しく対処することによって西郷を育てていったという観点からの企画だった。

 NHKEテレ2018年6月5日「幕末動乱の処世術 島津久光 自分の器を自覚せよ!」は、次のように指摘していた。

<斉彬から薩摩と「日本」を託され、難しい時代のかじ取りを担った久光。斉彬のようなカリスマ性はなかったものの、対立する意見の落とし所を的確に見つけ出す「調整型リーダー」として手腕を発揮した。>

これらは、幕末史における久光の役割と功績を再評価しようとするものとして注目した。

では、久光がどのような人物であり、どのような役割を果たしたのか、実際の歴史の流れの中で、総論的にではなく、いくつかのポイントに絞って見てみたい。


      島津久光像、原田直次郎筆 
         島津久光像
 

「暗愚の公子」なのか
 島津久光は藩主斉興(なりおき)の5男で、母は側室お由羅の方である。長兄斉彬のほか兄3人・弟3人がいたが、斉彬を除く男兄弟がすべて早く亡くなった。安政5(1858)年、斉彬が急死し、「その遺言により異母弟の久光の長男忠義(茂久)が薩摩藩主となった」(『鹿児島県の歴史』)。

蘭学を好み開明的だった斉彬に対し、久光も学問好きで、和漢の学に通じて、博覧強記の人だったとされる。斉彬は久光の能力をどのように見ていたのだろうか。

「斉彬は久光を有能なブレーンとして信頼していた」(市村哲二・黎明館学芸専門員、нHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」201852日放送「西郷隆盛をつくったふたりの上司」)
 「斉彬は久光の資質を高く評価し、かつ藩政に関しても相談していたから、両者の信頼関係は確か」だった(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
 斉彬は、久光を高く評価していたようだ。

 

 斉彬の後継者について、遺言は必ずしも忠義一本ではなかったともいわれる。佐々木克氏は次のようにのべている。
 <斉彬は遺言で山田壮右衛門に、長男の哲丸が幼いから、後継者は異母弟の久光か、久光の長男忠徳(又次郎、当時19歳、注・のちの茂久)かどちらかを、前藩主で隠居して当時江戸に居た斉興に相談して決めるように伝えた。
 なお遺言に関しては、託された証人の一人である新納久仰も記録を残しており、この記録では、後継者は又次郎(忠徳)を第一とするという遺言であったとしており、先の山田壮右衛門の記録とは少しニュアンスが異なるが、しかし斉彬が後継者候補として又次郎に比重をおいて考えていたことを示していると判断してよいであろう(『幕末政治と薩摩藩』)。>

  勝田孫弥著『大久保利通伝』の記述によれば、「久光は学問もあり見識は優れ、気節のある有能な人材であったけれど、自ら世を避けて、退隠したような生活を送っていたため、久光の人となりを知って、正当に評価する者がなく、暗愚の公子と評価されていた、ということである」(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。
  (注)藩主となった島津忠義はその時期によって名前が異なる。以下のように名乗っていた。「幼名
壮之助。通称又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱(いみな)である」(ウィキペディア)

  久光はなぜ藩主にならなかったのか。
 <斉彬の時代には、藩内における久光の評価は、かんばしいものではなかったであろうから、それらの点をわきまえて、久光は自ら後継者となることを、斉彬の重臣の前で辞退する意志を表明したのではなかろうか。新納の記録は、以上のような事情が反映されていると見てよいであろう。後継者をめぐる争いを避ける意味でも、久光のとった態度は、賢明であったと評価できるであろう。御家騒動の記憶は、まだ鮮明だったのである(佐々木克著『幕末政治と薩摩藩』)。>


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