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レキオ島唄アッチャー

15年ぶりの高知帰郷(上)

沖縄に移住してまだ一度も郷里の高知県に帰っていなかった。その間に叔父2人、叔母2人が亡くなっていた。事情があり帰れなかった。今回、ようやく墓参りを兼ねて15年ぶりに帰郷した。2018513日から17日までである。

 沖縄に移住した当時は、那覇―高知直行の航空路線があったけれど、廃止になりいまは、高松か松山空港に飛んで、高知に回るしかない。「高松空港がいいよ」という人の声もあり、高松空港にした。

 当初、「13日に帰るなら、すぐ友だちを集めるよ」と声をかけていただいたが、高知到着の時間が遅いので断念した。高松からレンタカーで帰るのが時間的には早いが、高速道路を夕方から夜にかけて2時間以上も運転するのは疲れる。若ければよいがもう無理は禁物。JRがいいかな、と思った。だが、所要時間は50年前とたいして変わらない。高速バスの方が早くて安いことがわかり、バスにした。

 今回は是非、三線を聴いてもらいたいと思い、荷物になるけれど持参した。会いたい友だち、親戚が多いので、お土産も半端なく多くなり、運ぶのが一苦労だった。心配した三線を入れるケースは、ハードケースでなくソフトケースでも、空港で専用ケースに入れてくれるから安心だった。 

那覇からの空の旅は、本州に近づくと少し揺れたがたいしたことなく到着した。リムジンバスがすぐ出発して、乗り換えの「ゆめタウン高松」に到着すると、予約した高知行きの黒潮エキスプレス号は一便早いバスに乗れることになった。急きょ予約を変更していただき、一時間早く乗車できた。

 私が高知を離れた1973年には、高速道路は整備されていなかった。四国の高速道路を走るのは初めてだ。高松から川之江を経て高知市に向かって進むと、深い山々が連なり、「四国は山国」という思いを新たにする。高い山のない沖縄から来るので余計そのように感じるのだろう。

 駅前に予約したホテルは小さな宿だが、大浴場がありさっそく汗を流した。沖縄では湯船に入ることがないので、疲れが取れる。この後も毎日、大浴場のお世話になった。シャワー生活の沖縄から来ると、余計にその有難味を感じる。

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                高知駅前
 
14日は、予約していたレンタカーで、生まれ育った佐川町に向かい、墓参りをした。従兄弟が掃除から墓参り用のお花その他すべて準備してくれていた。墓参りが終わった後、従兄弟の家で三線を弾き3曲歌ってみた。

 私が三線を弾くたびに思い出すのは父のこと。父は、旧満州(中国東北部)の鞍山製鉄所で働いていて、戦後引き揚げてきた。弟や同じ部落の若者たちと「たまる楽団」というバンドを結成して、演奏していた。父は私が3歳の時、30歳で病死した。だから父の記憶は、外の遊んでいると「直ぐ帰っておいで」と呼ばれて帰ると、父が亡くなったと家族が枕元に集まって嘆き悲しんでいるところだった。それが最も古い記憶である。生前の姿は覚えがない。

 「お父さんは弟や隣のWさん(元町長を務めた)ら部落の青年と楽団を作っていたきね。何の楽器を演奏したか覚えちゃあせんが、Wさんはハーモニカが上手かったねえ。」(年上の男性従兄弟)、「たまる楽団の演奏で、あたしは踊っていたがよ」(年上の女性従兄弟)という。戦後の楽しみがない田舎で楽団は評判になり、他の部落にも出かけて演奏したという。

「音楽もやけんど、お父さんは絵がこじゃんと上手かったきね。なんにも見ないで、軍艦の絵なんかをサラサラと描いていた。そんでも、癇癪持ちでね。僕がなんぞ気に入らんことをした時に、もう癇癪を起してねえ、せっかく描いた絵をビリビリと破ったこともあったがよ。絵が残っていればええけんど、もうどこちゃーないね」とも話していた。
 出征兵士の無事を願って作られた千人針に、父が虎の絵を描いたものだけが父の絵の遺品として残されている。癇癪持ちだった性格は初めて聞いた。私の音楽好きは父のDNAを継いでいるかもしれないが、幸い癇癪持ちは私も妹も受け継いでいない。
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       高知駅前に建つ右から中岡慎太郎、坂本龍馬、武市半平太の銅像
       (ちょっとグロテスク)

レンタカーで高知市に向かい叔母の家に寄った。わが家は、父が早く死んだので、母の兄弟である2人の叔父が父親代わりのように面倒を見てくれた。お世話になりながら、ほとんどお返しはできないまま、亡くなった。葬儀に帰れなかったことを詫び、冥福を祈って仏壇に手を合わせた。


 小中学校の同級生と50数年ぶりの再会

 夜は、小中学校の同級生が集まってくれるので、JRで高知市からもう一度佐川町に向かった。西佐川駅で降りる。JRに乗るのも、西佐川駅で降りるのも、40数年ぶりではないか。この駅は、子どもの時、昭和天皇が四国巡幸で高知県にも来るとのことで、母親に連れられて行った記憶がある。ネットで見ると昭和251950)年3月だという。たぶん、列車で通過するだけで、動員されたのだろう。小学校に入る直前だった。なぜか記憶に刻まれている。

 同級生が車で迎えてくれた。居酒屋には男3人女2人が集まってくれた。ほとんどは中学、高校卒業以来50数年ぶりの再会だ。隣に座ったY君は「君が貸してくれた『地底旅行』(ジュール・ヴェルヌ作)を読んで衝撃をうけたことを覚えている」と。もうすっかり忘れていたことだ。おまけに「あの時こんな歌を歌ってくれたよね」と言って、歌を口ずさむではないか。そんな歌は聴いたことも歌った記憶もない。完全に記憶喪失である。それにしてもよくぞそこまで記憶しているものだと驚愕した。

 居酒屋のスタッフに「沖縄から来ているので三線を弾いていいか」と同級生が聞くと、「いいですよ」とのOKが出た。「十九の春」「安里屋ユンタ」「南国土佐を後にして」を演奏した。かなれ知っている人もいて、いっしょに歌ったり、囃子を入れてくれて、楽しく歌えた。

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