レキオ島唄アッチャー

ジョン万次郎が滞在した当時の高安家の風景

 沖縄ジョン万次郎会の定期総会で、同郷の高知人の和田達雄さんにお会いした。2年ぶりだ。和田さんは、糸満市米須に住んでいて、万次郎が琉球上陸をした大渡海岸に「上陸記念碑」の建立をめざす建立期成会の事務局長として奔走されている。
 ジョン万のシンボルマークを付けた「ジョン万ハット」をかぶり、みずから「ジョン・タツオ」と自称しておられる。
 上陸記念碑はまだ構想段階の図であるが、とても大きくて立派なもの。万次郎がこれを見れば、立派過ぎて「はじかさー」するかもしれない。
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 1851年、アメリカから故郷の日本に帰る上で、上陸の地に選んだのが琉球だった。半年余り滞在した。和田さんは、豊見城市翁長(オナガ)の高安家を訪れて、5代目当主の高安亀平さんにお話をうかがったそうだ。その際、高安家の大正時代の風景を描いた絵を見せてもらい、写真に撮影した。昔の家屋の情景がよくわかる。
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 これはあくまで大正時代。二階建ての赤瓦の家は万次郎が滞在した当時はなかった建物だ。この絵をもとにして、赤瓦の二階屋の部分を、昔のわら葺の家に修整して、万次郎が滞在した当時の家屋敷と思われる風景を復元してみたという。
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 高安家は、万次郎ら土佐人3人を宿泊させるため、家の当主らが住んでいた家屋を提供し、自分たちは別に住むための家を建てたそうだ。
 右端の母家が土佐人の寝床となり、入り口すぐ左の家に家族8人は移動した。母家の隣は炊事場と物置、左端の家は馬小屋だという。
 この絵が実際に当時の家屋を正確に再現したものであるかどうかはわからない。しかし、19世紀の琉球王府時代の家屋敷らしい雰囲気はとてもよく出ていると思う。
  家の周りにある生垣は竹である。家の敷地に入ると正面にヒンプンが見える。万次郎はこのヒンプンを飛び越えていたとも伝わる。
 定期総会の講演で配布された尚家文書「土佐人漂着日記」の解説に興味深いことが記されていたので、ついでに紹介する。
 上陸時の万次郎ら土佐人の服装はアメリカ帰りだから洋装だったため、日本着物(和装)に改めるよう在番奉行所から指示が出された。この指示は「沖縄仕立」の単(ヒトエ)と袷(アワセ)に変更された。4月には夏向けの単の「琉球裳」作成の指示が出されているという。
 万次郎らの翁長での滞在について、村民に対して5項目の禁止事項が出された。①漂着人の村中歩行禁止②村民の漂着人との接触禁止と中国・日本・琉球その他に関する会話の禁止③漂着人宿近辺への女性の通行禁止④火の用心⑤漂着人との商売の禁止と進物・贈物の禁止である。
 といっても、万次郎は村の若者たちとも交流したり、琉球語を学び、村の一大イベントである大綱曳きにも参加したと伝えられる。役所があれこれ禁止を並べても、実際にはあまり縛られなかったのだろう。
 この絵を見ていると、万次郎がいた当時の情景が頭に浮かんでくるようだ。
 
 
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