レキオ島唄アッチャー

国境の島・与那国島、上納不足の厳しく取り立て

上納物不足の厳しい取り立て

 八重山では、人頭税の時代、15歳から50歳までの男女は、米や貢布の納税を課せられた。もし、決められた通り納税ができなければどうなるか。
 王府から派遣され八重山を監察した親方(ウェーカタ、士族の最上位)の報告にもとづき、王府が布達した行政の規範となる『八重山島規模(キモ)帳』から見てみたい。

 最初に、1767年に派遣された『与世山親方八重山島規模帳』から見る。
 「上納米が不足した場合は、諸船の積荷にも差し支えるので、やむなく他の村から不足分を補わなければならない。不足分を貸す村へ申し渡し、帳面には過・不足は記さない。次年の上納米の期限前に法定の利息をつけて確かに返済するとの、百姓たちと村役人の証文にその間切(マギリ、現在の町村)の頭(間切の長)が添書をし、補助した村へ届ける。もし、次年に返済できないと困るので、返済は滞りないよう十分に指図すること。

 上納米が不足する百姓は、その時持合せの者から補わせて帳面に記しておくだけである。そのうえ指図もいつとない有り様で、不注意の者はいよいよ怠け、働き者は他人の上納分として無理に取られ、難儀するので貯える気持ちにならず、村が衰微する原因となっているのではなはだ良くない。」

 このように、上納米が不足する村や百姓は、他の村や他の者から利息付きで借りて上納させ、必ず返済させることを命じている。もし返済ができない場合も次のように命じている。
 「今後、上納物不足の者がおれば、法定の利息で了解の上、借り入れさせ、もし返済が無理とわかった者は、五人組が引き取って、すぐに借りた者の家財ならびに身売りをして償いをさせる。村の役人は、その高を詳しく一冊にまとめ、その顛末を毎年、在番・頭の廻村時に直接当人に対面して照合すること。

 前条の上納不足の者たちに身売りさせなければならない時は、五人組と村の主だった者が吟味した上で証文を調え、村役人が添え書きをし、その間切の頭へ申し出て端書(文書の右端に書かれた本文以外の文)を申請する。なるべくその村内へ見売りすること。
 つけたり。不足高の少ないうちに身売りなどを考えるべきであるがそれをせず、いたずらに時を過ごし、不足高がかさむことは、結局、五人組と村役人の不注意である。このような時は、その身体ならびに家財を売り、それでも不足する場合は五人組と村役人が弁償すること。」

 このように、返済できなければ、強制的に家財の売り払い、身売りをさせることを命じている。身売りをしぶり、不足高がかさむのは役人らの不注意だから役人らに弁償させると脅し、返済できない者は躊躇なく家財売払いや身売りを実行するように求めている。
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                 女性は貢布を織らされた

 非法な振る舞いはたしなめる
 1858年に首里王府から八重山に布達された『翁長親方八重山島規模帳』でも、同じような上納の不足の扱いを命じている。八重山では、一七七一年に「明和の大津波」で八重山・宮古諸島で一万二千人にのぼる死者・行方不明者を出した。その後も災害や疫病の流行、大飢餓が相次ぎ八重山で人口は激減する。「八重山の受難時代」と呼ばれた。
 
 上納米の不足は、相当に深刻だったようだ。不足分を借金して納めさせ、借金の返済ができない場合、家財・田畑・牛馬・身売りによる弁償を厳しく求めている。ところが、その一方で、役人による行き過ぎた対応が新たな問題を引き起こしていた。そのため次のような対応を求めている。

 「諸村の若い百姓が年貢を納めない時、担当役員が手荒に扱い、時には自分の上国や役願いなどに差し障るといって、家屋敷、田畑から牛馬まで勝手に売払い年貢に当てるので、逃亡や自害する者があると聞く。その身ひとりの失墜に止まらず村中の疲弊のもとになるがいかがであろうか。今後右のような非法な処置のないよう堅く取り締まること。」
 「右の規則があるからといって、困窮している者どもの上納物が不足していると、軽はずみに家財・田畑・牛馬・身売りなどを申し付けては、だんだん正頭が減り、かえって村が成り立たなくなる。常に村が成り立つよう心得て、困っている者がさらに農業に励み、田畑の少ない者へは村中で必ず不足のないよう与えるか、または持ち過ぎている者が譲り渡す場合は分け隔てなく取り扱い、手入れの行き届かない場所は助力し、年貢・諸上納物に差し支えなく調達できるようにすること。」
 
 1875年3月、首里王府から令達された『富川親方八重山島規模帳』にも、「つけたり」を含めてほぼ同様な記述がある。
 これらをみると、「非法のふるまい」を再三たしなめても、上納不足の際して、家財、田畑、牛馬まで勝手に売払うというが強引な取り立てが続いていたことを示している。役人の過酷な徴税によって、百姓の逃亡や自害する者まで出てきたことは、王府にとっても深刻な事態である。肝心の納税の担い手が減り「かえって村が成り立たなくなる」のでは元も子もないからである。

 上納不足と借金の滞納には、家財売払いまで命じながら、それが行き過ぎたため、人口減少で村の存亡にかかわるというのは、王府による人頭税政策そのものが作り出した矛盾である。
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