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レキオ島唄アッチャー

中部に支配を広げた伊覇按司とその子孫、その2

 「ムートゥヤ・ナキジン(元は今帰仁)」
 伊覇按司系統の発展を、こんどは伊敷賢著『琉球王国の真実』から紹介しておきたい。
『具志川市誌』とは多少異なる伝承や初代伊覇按司の次男の息子で名高い護佐丸などについても記されているからである。

 伊覇村に逃げた今帰仁子
 <今帰仁按司丘春には仲宗根若按司のほかに名護按司・大宜味按司・先代大湾按司・先代山田按司の4名の息子がいて、「仲北山」落城後は方々に散って再起を待っていた。…
 1374(文中3)年、戦で深手を負った「仲北山」城主仲宗根若按司は、…息を引き取った。…父の遺体を葬ったあと、8男今帰仁子(ナチジンシー)は美里間切伊覇村に逃げた。…
 今帰仁子は美里大主(大里林昌公)に認められて婿となり、伊覇(伊波とも書く)城を築き初代伊覇按司となった。伊覇按司と妃・真鶴金の間には3男1女が生まれ、長男は伊覇按司2代目・次男は山田按司・三男は大湾按司となり「仲北山」の再興を誓い合っていた。伊覇按司の娘真鍋金は尚巴志に嫁ぎ、後の尚泰久王が生まれた。>
伊敷氏は、初代伊覇按司について、仲北山城主の仲宗根若按司の8男、今帰仁子が伊覇村に逃れ、美里大主に認められて 娘の婿となり、初代伊覇按司となってとしている。
            伊波城跡、うるま市HP  
                              伊波城跡(うるま市HPから)

    伊覇按司系統の発展 
 <「仲北山王」仲宗根若按司の息子の8男、今帰仁子は名護・読谷山経由で越来間切(後の美里間切)嘉手苅村に逃れ美里大主(ンザトゥウフヌシ、林昌公)の婿になり、長じて伊覇城を築き伊覇按司初代となった。伊覇按司の息子や孫たちは、読谷山間切や勝連間切など沖縄中部に城を築き勢力を広げていった。
 伊覇按司初代の長男は、伊覇按司二代目を継ぎ、次男山田按司は読谷山間切読谷山村(後に山田村になった)に山田城を築き、三男の大湾按司は読谷山間切大湾村に大城を築いた。>
 伊覇按司の息子や子孫は、読谷山間切や勝連間切など沖縄中部に勢力を広げたという。

 <(伊覇按司の)長女・真鍋金は尚巴志に嫁ぎ、越来王子(後の尚泰久王)を生んだ。伊覇按司初代には、他にも楚南按司など外子がいて、8人の息子がいたとされる。
 伊覇按司の次男の山田按司は、長男・伊寿留(イズルン)按司、次男・読谷山按司護佐丸(ゴサマル)盛春、三男・大城掟親雲上清信を生んだ。次男の護佐丸は父の跡を継いで読谷山按司になったが、座喜味城を築いた後に中城に移り中城按司になった。長男の伊寿留按司は中城山頂に伊舎堂村を創り護佐丸を補佐していたが、護佐丸が滅んだ後に百姓になり伊舎堂村も海岸近くに移動し、富豪の屋号伊寿留安里の祖になった。三男の大城掟は護佐丸滅亡後、中城間切大城村から那覇に移り住み金丸の革命を成功させた人物で、安里村を拝領し安里大親と名乗った人物である。それ以前の安里村は第一尚氏の領地であった。>

 <護佐丸は逆賊として成敗されたので、その一族は方々に隠れたが、第二尚氏になって政権に復活し、子孫の毛氏は沖縄各地に繁盛してその数は3万人ともいわれる。
 伊覇按司2代目は尚巴志の義兄弟となって北山攻めや南山攻めで活躍し、弟や息子たちを各地の城主として配置した。安慶名大川按司をはじめ幸地按司・勝連按司6代目・玉城按司・高瀬按司・瀬長按司などが、北山や南山滅亡後の新しい城主になった。>

 伊敷氏によれば、安慶名大川按司初代には4名の男子がいて、次男、屋良大川按司と「後南山」から逃げてきた兼城若按司の娘との間に生まれた子が、阿麻和利加那であるという。4男の喜屋武按司の子が鬼大城(ウニウーグスク)と呼ばれた越来親方賢勇で、後に阿麻和利を討伐した武人である。鬼大城と阿麻和利は、又従兄弟という関係に当るという。
 伊敷氏によれば、中城城と勝連城で対抗した護佐丸と阿麻和利も同じ伊覇按司系の一族となる。
 <「仲北山」の遺児の今帰仁子から広がった伊覇按司一族の発展は、尚巴志王と姻戚を結んだことにより発展し、沖縄中に子孫を残した。それで、後世の人は「ムートゥヤ・ナキジン(元は今帰仁)」というようになった…(『琉球王国の真実』)>


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