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レキオ島唄アッチャー

中部に支配を広げた伊覇按司とその子孫、その1

 金満按司が具志川に住んでいたことを書いたとき、父親である奥間大親系の勢力は伊覇按司に亡ぼされたことを紹介した。では、伊覇按司とはどのような人たちで、具志川を始め中部にどのように勢力を広めたのだろうか。

以下、伊覇按司系の治政(安慶名大川按司系)を主に『具志川市誌』から紹介する。

 伊覇按司
  <西暦1322年(注・1374年ともされる)怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされた仲昔今帰仁按司の地方へ四散した子孫の一人は、遠く美里間切伊覇村(楚南村ともいう)に逃げ、伊覇村の女を妻にして、8男一女をもうけ、中南部地区の各城主に成功した。そのうち8男が初代伊覇按司である。安慶名大川城の築城は今より600年前であろう。初代伊覇按司は具志川地域更に勝連地域まで支配下に入れて按司を支配する世之主への欲望があった。そのために血縁である天願按司を先ず支配下においた。そして沖縄唯一の長い川天願川を背に田場平野を見下ろす安慶名お嶽に城を築き、5男を配し、初代安慶名大川按司とした。>

 怕尼芝に亡ぼされた仲昔今帰仁按司の子孫の一人が伊覇村に逃げ、伊覇村の女性を妻にして生まれた8男が初代伊覇按司だという。そこから伊覇按司系の勢力が広がる。


 <初代安慶名大川按司は3男を後天願按司として具志川地域の津口であり、要衝である具志川城に配し、4男を喜屋武城に配した。そして江州地区(江州村、宮里村、高江州村)を除く、具志川地域を支配したその後凡そ百
四十年間の治政であろうか。それらの廃城は地方の按司達が首里に移住したいわゆる尚真王世代弘治年間(西暦1488年―1508年)のことであろう。>


      
安慶名城跡、うるま市HP2

        安慶名城跡(うるま市HPから)

 江州按司の治政

 伊覇按司系統の支配
 <初代伊覇按司は天願城を支配下に入れ具志川地域に安慶名城を築き、東進への拠点とした。たまたま5代勝連按司の勢力衰頽するや、好機至れりと、5代勝連按司を打ち亡ぼし6男を配して6代勝連按司となす。然し乍らこの6代勝連按司は凡庸で無力であったため、元按司の旧臣浜川大主に亡ぼされて、伊覇系の勝連按司は一代でつきた。そして伊覇按司の東方への勢力範囲は具志川城、喜屋武城を前線とする具志川地域に止まったようである。(『具志川市誌』)>


 按司時代の末葉(第一尚氏時代)の具志川地域の各城主の政治姿勢

 <具志川地域の各城主は勝連城主と同盟を結び、中山の譜代城であった越来城、中城城及びその輩下の知花城、池原城、安谷屋城、新垣城に対抗していたといわれている。たとえ今帰仁城の出先である伊覇城の血縁であったとしても伊覇城の努力(ママ、「勢力」の誤りか)は中山に対しては弱かった。(以上『具志川市誌』)>
 勝連城をめぐっては、阿麻和利が10代目勝連城主望月按司を倒し、勝連按司11代目になったという。(伊敷賢著『琉球王国の真実』から)

 

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