レキオ島唄アッチャー

具志川にも住んでいた金満按司

 

 奥間大親とその子、泰期(金満按司)について、このブログでも書いてきた。『具志川市誌』を読んでいると、具志川にも足跡があることを知ったので、紹介しておきたい。

 喜屋武按司の系図

 『具志川市誌』によると、喜屋武城は奥間大親系が二代にわたり支配していたが、今帰仁系の伊覇按司に滅ぼされたという。

<資料一、二(注)から判断すると編者の推論であるが、喜屋武城は奥間大親系が二代にして伊覇按司に亡ぼされ、伊覇按司の次男を三代喜屋武按司となし、世子が無かったので、安慶名大川按司の三男が四代喜屋武按司となる。四代にして廃城となったとおもう。>

 注・その資料とは、次の系図である。

資料一「市内字仲嶺徳田家の家譜」は、奥間大親――五男喜屋武按司――喜屋武若按司となる。若按司のあと栄野比大屋子、大城賢勇と続くが、按司ではない。按司は二代で仲嶺按司に移っている。

 資料二「琉球祖先宝鑑」は、奥間大親の子は、察度王、天久按司、金満按司、喜屋武按司とされ、金満按司の下に五男我那覇親方、六男饒波親方の名がある。
              具志川市誌  


 金満按司については、以下のように記している。

 △豊見城村饒波村の饒波お嶽の上後方に金満お嶽があって、豊見城村字高安村及饒波村の祖先を祭っているとの事。金満お嶽の祭所を俗に金満御殿と言い、金満按司一家を奉祀している。金満按司とは泰期のことである。

金満按司に就いては、在所は宜野湾真志喜村の奥間と言う家で、この按司は唐、大和を往復せられ、金、銀、多く求めて国頭間切奥間村に治金(ママ)術を初めて伝えたといわれる。

又牧港附近を根拠として日本商船と交易して資産をつくりその郷党の間にも信望があったため、その子が饒波に養子に入ったのだろうという。

△金満按司は泰期のことで察度王世代に数回使節として渡明せる按司である。第1回の渡明は1372年で尚巴志が生まれた年である。

 △泰期は具志川市天願村にも一時期住いしたとのことであるが、それは金満按司となる以前であっただろうという。(首里長嶺将秀氏による) 

△島袋源一郎著沖縄の歴史P83に察度王、天願泰期(方言タイチ)を明に使いし臣と称して表貢を奉り云々とあって泰期が或期間天願村に住いしたことがあるとおもわれる。

 泰期が、ある時期に、天願村に住み、「天願泰期」と呼ばれていて、金満按司となる以前だったとしている。

                  泰期(3)  

                            読谷村残波岬にある泰期像

 伊敷賢氏も著書『琉球王国の真実』のなかで、奥間大親の子・泰期を「天願金満按司泰期」と呼んでいる。

 1438(永亭10)年、故郷伊是名島から宜名真村に逃げてきた24歳の松金(後の尚円王)を、奥間村の奥間カンジャーに助けられたという伝説が残っている。…

 言い伝えによると、奥間カンジャーの父親は小禄金満按司で、小禄金満按司の父は天願金満按司泰期であり、天願金満按司の父親は奥間大親である。奥間大親は天女(実は恵慈王の次女)との間に察度王を生んだ人であり、天願金満按司は察度王の腹違いの弟である。小禄金満按司は1405(応永12)年に従兄弟の武寧王が尚巴志に滅ぼされたので、息子の奥間カンジャーと共に、祖父の故郷の国頭間切奥間村に逃げたのであった。>

 
<中山察度王となると、泰期は側近として活躍し金満(カニマン)按司と呼ばれた。1378(天授4)年、察度王が明国に朝貢を始めると、泰期は使者となり明に渡航して宝物を持ち帰った。泰期は始め小禄間切小禄城主だったが、小禄城を息子の小禄金満按司に譲り、自らは天願按司(ティングァンアンジ)となり大和とも交易した。北谷金満按司も泰期の息子である。>

伊敷氏は、泰期は察度王の使者となり、明に渡航した。小禄城主だったが、のちに息子に譲り、天願按司となり、大和とも交易したとしている。確かに、泰期は中国、大和との交易で知られる。中国との交易には、西海岸が便利だが、大和との交易は東海岸の港が好適だ。泰期が天願按司になったのは、大和との交易のためだったのだろうか。そう考えれば、なぜ天願按司だったのか、その意義がよくわかる。交易品の中には、鉄器や鍛冶にかかわる物も含まれていたのだろう。

泰期は、国頭の奥間村で鍛冶屋を営み、奥間カンジャーの祖となった。

 

伊覇按司

始めのところで、奥間大親系が伊覇按司に亡ぼされたと書いたが、伊覇按司について簡略に説明する。詳しくは別途、改めて書くことにする。

14世紀、怕尼芝(ハニジ)に亡ぼされた「仲北山」城主の仲宗根若按司の8男・今帰仁子(ナチジンシー)が美里間切伊覇村に逃げてきて、美里按司の婿となり、初代伊覇按司となった。伊覇按司は、具志川地域、勝連地域に支配を広げたとされる。

 

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