「西武門節」の謎、その3。人力車2017-12-22 Fri 09:42
沖縄民謡「西武門節」の中で歌われる「車乗っていもり」の車とは何か、についてアップした。人力車ではないかという説について、那覇と首里をつなぐ道路は、かなれきつい坂道であり、人力車での通行は無理ではないかと書いた。その後、沖縄の歴史と民謡に詳しいTさんとお会いする機会があった。Tさんは、大正時代の人力車の通行についての貴重な資料、写真を提供してくれた。 結論から言うと、人力車は那覇と首里の間を走っていた。坂道であることには変わりないが、坂道であっても、それに相応しい知恵と労力で走らせていたという。
「まず知事の専用車として、明治19(1886)年に1台入ってきた。それが同26(1893)年には、300台近くの人力車が稼働している。人力車は、那覇市内の人員輸送の中心的役割を果した。街の広さが人間にとって無理のない走行距離であることにあいまって、比較的高低差の少ない地形が起因したものと思われる。…最盛期には2000台近くが那覇の街を走っていたという」「大正3年に電車が開通したあとも、運賃の安さなどから人力車の人気は衰えず」(『目で見る那覇・浦添の100年』)。 人力車がとても活躍したことがわかる。この記述は、首里と合併する前の旧那覇市内のことが中心になっている。街が広くなくて走行距離が比較的短いこと、坂道が少ない地形であったこと、それが人力車の増加した要因だと見ている。 那覇と首里の間を往来する交通を考えると、事情は異なって来る。那覇―首里間は、いまのモノレールでみると県庁前駅から首里駅までは7㌖近くある。人力車としては走行距離がかなれ長い。しかも大道からは坂道が続く。 首里観音堂下から那覇の大道に下りてくる道路は、S字形に曲がっていた。S字形にカーブしていれば坂道は少し緩やかになるだろう。 この坂道に沿って大正3(1914)年、電車の高架軌道が敷設された。 この那覇―首里間の人力車通行を証明する意外なエピソードと写真があった。 大正10(1921)年3月3日、昭和天皇がまだ皇太子だった頃、訪欧旅行(英、仏、白、蘭)に出かけた。お召艦は「香取」で、艦長は沖縄出身の漢那憲和大佐だった。この途次の3月6日、艦隊は沖縄の中城湾に仮泊し、皇太子は軽便鉄道で与那原から那覇駅へ、那覇駅からは人力車で県庁に寄り、さらに首里まで行った。
この写真集には、3枚の人力車の写真が掲載されている。最初は、皇太子が人力車に乗っている姿が鮮明に写っている。 きつい坂道なので曳き手車夫一人だけでは人力車が上ることは無理ではないかと思ったが、なんと後ろから押す「後押し車夫」がいたという。ここに坂道を上がる秘密があった。 もう一つの資料『激動の記録 那覇百年のあゆみー琉球処分から交通方法変更までー』には、首里・観音堂付近から松川・大道そして遥に那覇方面を望む「真和志風景 大正初期」と題した写真がある。大道・松川方面から緩くカーブした道路を人力車が車列を連ねて登っていく様子が写されている。やはり、曳き手車夫と後押し車夫らしき姿が見える。 写真に白い線が入ったので、少し修整した では、「西武門節」で歌われる「車乗ていもり」とは、「人力車に乗って来てね」という意味だったのかといえば、それはまた別の問題だろう。 というのは、大正3年から電車が走っていた。皇太子も最初は電車で首里に行く予定だったことを見ても、すでに那覇―首里間の公共交通として電車が重要な交通手段だった。旧那覇市内ならいざしらず、人力車としては遠い首里から那覇の辻まで、電車があるのに、あえて人力車で行ったとはどうも思えない。そう考えれば、やはり「西武門節」の歌詞は、「車乗ていもり」ではなく、「電車乗ていもり」が元々の歌詞だったと考えた方が自然ではないだろうか。これが私なりの結論である。 スポンサーサイト
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