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レキオ島唄アッチャー

尚徳王の家族の伝説、その4

 尚徳王の次男も王位に就いた「中和」伝説

 

第一尚氏をめぐっては、尚徳王が最後の王ではなく、第二王子であった中和がわずか1年ほどであったが、王位を継いだという説もある。わがブログ「第一尚氏の最後の王は尚徳ではない」で紹介した。興味のある方はそちらを読んでほしい。

内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』で高瀬恭子氏が「第一尚氏最後の王『中和』」と題して論述している。

 高瀬氏は「尚徳の死後、その第二王子の中和が僅か1年ほどではあったが王位にあった」ということを、同じ時代に書かれた『朝鮮王朝実録』によって検証している。


 琉球国の正史『中山正鑑』などでは、尚徳王は21歳で即位し、死去した時、数えの29歳で、残された子は1人で10歳未満の幼い子だったとされてきた。しかし、尚徳即位の1461年、琉球に滞在した朝鮮漂流民の肖得誠が帰国した際の取り調べで、尚徳は33歳で、子どもは15歳くらいの長子ほか4人いたと証言している。尚徳の年齢が12歳も差があり、子どもの年齢、数もまったく食い違っている。

朝鮮で編まれた申叔舟撰『海東諸国紀』では「成化7(1471)年の冬、琉球国王の使として禅僧の自端西堂が来朝した。自端の言うには、…尚徳の名は大家で、兄弟は無い。今の王の名は中和で、まだ号は無く16歳である。宗姓丹峯殿の主女を娶っている。王弟の名は於思で13歳、次弟は截渓といい10歳である。国王の居るところの地は中山といい、故に中山王と称している、と。」


 つまり、尚徳には4人の子がいたが、1470年に尚徳は既に死去していた。
長子は死没したのか、残された3人の子のうち、年長の中和が新王として即位していた、ということである。

もし中和が即位していたとしても、クーデターで第一尚氏の王統が倒され際、中和王はまだ即していない王子(次男)として王妃とともに殺されたのだろう。乳母と三男だけが逃げのびたという伝承につながっている。高瀬恭子氏著「第一尚氏最後の王『中和』」では、そこまでの論述はない。

いずれにしても、尚徳王とその子どもをめぐっては、まだまだ多くの謎がある。
   終わり

 


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