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尚徳王の家族の伝説、その3

屋比久大屋子の後裔には、雍氏の他に明氏など後世、第二尚氏政権に仕えた士族も多い、とされるが、その明氏の系譜が「ウィキペディア」にアップされているので、紹介しておきたい。


 首里王府に仕えた後裔、明氏

<明氏亀谷家(みんしかめやけ)は、照屋親雲上長太を元祖とする明氏安次冨家から分かれた琉球士族。門中の間では、琉球王国の第一尚氏王統第七代国王・尚徳王の三男・屋比久大屋子の流れを汲んでいると信じられている。
 尚徳王の世子・佐敷王子、次男・浦添王子は第二尚氏の尚円王への世替り(クーデターという説もある)の折、殺害された。三男はこのとき三歳、乳母に抱かれ先祖の地、佐敷に落ちのびたとされる。後に佐敷間切・屋比久の地頭となり、屋比久大屋子と称する。明氏はその後裔である。一世長太(照屋親雲上長太)は第二尚氏王朝・尚清王に仕える。二世長孫は長太の次男で、明氏の直系は、兄・上江洲親雲上長均の家系である明氏安次富家で、長孫は分家独立し、先祖の遺領、奄美阿鉄の地頭になり(阿手津親雲上)、かつ第一尚氏王朝以前(屋蔵大主、鮫川大主時代)の地である伊平屋島の按司掟に任じられた。また四世長頼(亀谷親雲上)の時、王孫の由緒をもって王府より王城の地首里移住を許される。これより、この子孫は首里士族としての道を歩む>


 この「ウィキペディア」の「
明氏亀谷家」の項に掲載されている比嘉朝進著『士族門中家譜』によれば、照屋親雲上長太は、屋比久四男である天久大屋子の長男とされる。つまり尚徳王からすれば、曽孫にあたることになる。だが、『明姓家譜(亀谷家)』では、長太は屋比久大屋子の四男とされていて、違いがある。いずれにしても、尚徳王の後裔であることは確かである。

 尚徳王の三男が落ち延びた先が佐敷というのは、尚巴志の発祥の地であるから合理性があるように思われる。この地なら安全に守られる環境があったのかもしれない。それにしても、第二尚氏のもとで、三男は追及されるのではなく、佐敷間切・屋比久の地頭となり、その後裔である照屋親雲上長太は尚清王に仕えたというは興味深い。首里王府もわりあい寛容だったのだろうか。






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