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尚徳王の家族の伝説、その2

 悲劇の尚徳王の三男の定住の地

 尚徳王の王子のなかで三男は逃れたのだろうか、うるま市具志川には次のような伝承がある。

<仲田家(当主徳田米忠氏)は尚徳王の第三子の末えいであるといわれ、かつて本市(旧具志川市、現うるまし具志川)の地頭代(明治21年~同22年)を務めた徳田吉太郎氏は尚徳王から20代目で、現当主徳田米忠氏は23代目にあたるとのことである。

 尚徳王(自西暦1461年至西暦1469年、在位9年、29才にて没す)は第一尚氏の最後の王であり、尚泰久王の第三子である。第二尚氏尚円に政権交代のクーデターによって久高島参詣の帰途海上で最期を遂げたと伝えられているが、王子3人のうち長男と次男は夭折し、三男は津堅島から与勝を経て美里の伊覇村に落ちのび、長じて伊覇村の若祝女を妻にむかえて、具志川間切上江洲村に定住し安謝名大主と名乗ったという。何故に伊覇村に隠れて若祝女を妻にむかえたか、伊覇村は尚徳王の父尚泰久王が越来王子時代に伊覇村の女との間にできたのが尚徳王という。それで尚徳王の三男にとって、伊覇村は祖母の地ということになる。しかし上江洲村に定住するようになった理由は知られていない。(『具志川市誌』)>

 具志川の伝承では、尚徳王の三男は、津堅島から伊覇村を経て上江洲村に定住したとされている。伊覇村は「尚徳王の三男にとって、伊覇村は祖母の地」となるからだという。

 

 尚徳王の王子たちの逃走

尚徳王の三男は、南城市佐敷に逃れたという伝承もある。伊敷賢氏著『琉球王国の真実――琉球三山戦国時代の謎を解く』から抜き書きして紹介する。

尚徳王の世子佐敷王子志義(しぎ、8歳)は、首里城内で異変が起こった時に首里城内真玉森(マダンムイ)に隠れていたが、改革派に見つかり母后や祖母とともに殺されてしまった。その時死体は崖から投げ捨てられ、夜になって王族の手で回収されたがくんだ(足のふくらはぎ)の一部が木にぶら下がって残された。それで、その崖はクンダグスク(膝城)といわれるようになったという。


 尚徳王の次男浦添王子(5歳)は、ヤカー(守役)に助けられて薩摩へ逃げたといわれる。別の説では、浦添王子は具志川間切栄野比(イヌビ)村に逃げ、成人して村の娘と男子2人が生まれ、長男は久米島仲里間切比屋定(ヒヤジョー)村に隠れ、次男は栄野比村に残った。


 尚徳王の三男屋比久大屋久(3歳)は、乳母とともに佐敷間切新里村に逃げたと伝えられていて、屋比久大屋子の孫は東風平親雲上(クチンラウヤクミー)興長で、雍(ヨウ)氏門中の祖である。屋比久大屋子の後裔には、雍氏の他に明(ミン)氏(名乗頭「長」)など後世、第二尚氏政権に仕えた士族も多い。しかし、第一尚氏の子孫は高級武官にはなれず、首里城の警護などの仕事に就いていた。

尚徳王の四男与那城(ユナグスク)王子(1歳)は真壁間切真栄平村に逃げ、成長して屋号謝名(喜納姓)の娘を妻にした。屋号謝名は察度王五男米須按司の子孫といわれ、謝名門中の元屋(ムートゥヤー)で真栄平村の国元になっている。


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