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「琉球併合」と明治期沖縄県政、その1

「琉球併合」と明治期沖縄県政

 

 沖縄県民カレッジ美ら島沖縄学講座3回目として先頃、「『琉球併合』と明治期沖縄県政」があった。講師は、川島淳氏(公益財団法人沖縄県文化振興会 公文書専門員)。

 講師は「琉球処分」という用語ではなく「琉球併合」と題していた。1872(明治5)年の琉球藩の設置、1879(明治12)年の沖縄県設置、翌年の日清両国の分島問題まで、明治政府による一連の政治過程を、明治政府による琉球当局の意見を無視した一方的な「領土併合」とする。

 

以下、講座の概略を記す。筆者の勝手な要約である。

琉球王国は、明・清の冊封(さっぽう)を受ける一方で、薩摩藩の支配下に置かれた。

 1871年、廃藩置県による薩摩藩廃止で琉球王国を鹿児島県の管理下に置いた。琉球は、清国との冊封関係と従来通りの旧薩摩藩=鹿児島県との関係維持を要望した。

 1872(明治5)年、維新慶賀使の派遣を求められ派遣した。

天皇は尚泰を琉球藩王として華族にする。 

 同年、琉球藩は外務省の管理。在番奉行所を廃止し外務省出張所を設置する。

1873年、琉球藩が各国と締結した条約の原本の提出を求められ、回避しようとするが外務省に移管させられた。

 
 
1871年、宮古島船が那覇からの帰路、遭難し台湾に漂着、66人中54人が殺害される事件が発生した。
 
1874(明治7)年、台湾出兵を政府は中止決定したが、西郷従道は独断で出兵し、台湾南部を制圧した。清国が台湾は「化外の民」としたことで出兵を正当化、清に賠償金を支払わせる。琉球の日本帰属が決定されたわけではない。

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                                    守礼の門
 
 補注 この問題はその後の展開に大きな影響があったと思われるので、他の資料から追加して紹介しておきたい。

仲里譲著『琉球処分の全貌』から

 「政府は琉球藩に対して国王を華族にするとともに藩主と叙した。これを国内法上の第一歩となし、続いて生蕃による台湾征討に対する清国との外交交渉を重ねて、遂に台湾遠征を行って目的を達した。即ち清国との講話(ママ、和)条約(互換條款)を結んで10万テールの賠償金を獲得してその一部は遺族に支給された。

 以上の経過をみると、政府は琉球藩の問題を処理する環境が整ったと判断したものと思われる」


 新城俊昭著『琉球・沖縄史』から

 イギリスの調停で、清国に50万両の賠償金を支払わせることで和議を成立させ、「台湾の生蕃が日本国属民を殺害したので、日本国政府はこの罪を咎めてかれらを征伐した…」という事態収拾のための条文を交わすことに成功した。

 ここにいう「日本国属民」とは琉球人のことで、政府は清国から琉球人が日本人であるという言質を引き出したのである。また、これによって、その領土も必然的に日本の一部であるという解釈もなりたった。…琉球が日本の領土であることを清国政府に認めさせることに成功したのである。


 宮城栄昌著『沖縄の歴史』から

 日清両国の協定は「条文中には日本の出兵を『義挙』とみとめ、また『ここに台湾の生蕃、かつて日本国属民に対し、みだりに害を加えたるにより』との文章があった。これは沖縄人を日本国民と、公法上に明文化した最初のもので、日本の征台の目的は十分に達成することができた。これで琉球の廃藩置県はさらに一歩前進した」 

 
 以上のように、台湾遭難事件は、冊封関係にあった清国に、琉球人は「日本国属民」、つまり琉球は日本の支配下にあると認めさせ、琉球併合への重要な転機になったのではないだろうか。



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