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国境の島・与那国島、徴税はゆるかったのか

徴税がゆるかったのか

 『与那国島―町史第三巻~歴史編~』の北條芳隆著「与那国のあけぼの」もうひとつの注目したのは、「人頭税時代と呼ばれた近世の段階において、琉球王府と島人との間には、微妙な駆け引きが存在した可能性を示唆する」という指摘である。
この時代の与那国島民は、稲籾と布の納税義務を負い、その他野菜などの現物を村詰めの役人に納め用役に従事することなどが義務づけられていた。伝承にあるとおり、石垣島に駐留する王府側の役人を渡海させ徴税にあたらせたことも古文書類から確認できる。

 「その際に島人は、実際に租税の収奪を回避し台湾島民との交易や交換に投入するという行為に及んだのか、あるいは仮想的な願望を説話に託して語る創作的な物語であったのか、そのどちらが実態であったのかについては、内容の性格上、確かめようがない。人減らしの悲劇を今に伝えるクブラバリ伝説や人升田伝説など、ここに引用した伝承の内容と正反対の伝説が残された事実も考慮すべきであろう」とのべている。
 人頭税のもとでも、米や贅沢品の酒などを貯蔵し、台湾島民との交易もしていたというのは、住民が余剰の農産物を持っていたことがうかがえる。

 与那国島は、「水に比較的恵まれ、田をつくりやすいという、恵まれた自然条件」があった(宮良作著『国境の島 与那国島誌』)という。
 北條氏は、先の伝承が「単に近世琉球王府に対する面従腹背精神の発露」といったものではなく、王府側が「徹底した徴税は控えた可能性が高い」と見ている。
 たとえば、琉球王府側から与那国島に向けて発せられた諸施策の一端を示す『翁長親方八重山島規模帳』には次のような事例がある。

 「与那国島の島民が稲の不作を申し立て、二、三年の年貢の徴収が滞ったことや、その対策として講じられた指示の内容が採録されている。その際、不作で納税が滞るような場合には、村詰めの役人が石垣島まで渡海して詳細な経過報告をさせるように、と指示するに留まった。現実に徴税体制の強化が講じられた形跡は認められないのである。
 徴税が王府側の財政の根幹であれば、本来、こうした租税の未収状態は放置されるべき性格のものではないはずである。しかし現実は異なっていた。要するに琉球王府側も、与那国島民に対して徹底した徴税は控えた可能性が高いとみるべきであり、別の個所ではこの島への漂流船に対する救済を怠らないよう相応の食糧備蓄を、と促す記事もあるので、本島に対する施策のありようは、むしろ領海・領域の保全に重点が置かれたものであった可能性すらある」。

 この点については、はたしてそうなのか、少し疑問がある。与那国島は多良間島と同じように、両先島における特別行政区だったという。他の島とは、多少の相違があるかもしれない。しかし、国境の島といえども、王府の徴税はそんなに甘くない。定額人頭税が行われていた八重山諸島では、不作であっても定められた人頭税は納めなければならない。「不作で納税が滞る」場合は詳細な報告をさせたということは、当然、人頭税が免除されたわけではない。未納分を取り立てるためであろう。
                        クブラバリ
クブラバリ
 王府時代に不作で納税できなければ、借金をしてでも納める、借金がかさめば家財の売払い、身売り、夜逃げ、債務奴隷(宮古島の名子=ナグ=など)になるといったことが、どこでも起きていた。
池間栄三著『与那国の歴史』は次のようにのべている。
  「人頭税の苦難は他殺及び自殺を出し、或は脱島逃亡者を出して、八重山の人口は年々減っていった」。与那国島には、苦痛に耐えかねて、南方にハイ・ドゥナン(南与那国)と言う楽土があると妄信して、その島を求めて脱島したという口碑がある。
 
 役人による不正も横行して百姓を苦しめた。
 「1659年に交付された定額人頭税は役人の私腹を肥やすに最適であった」。人頭税のために八重山の人口は年々減少し、総納税額も減ってきた。そのために人頭に対する定率を廃止、八重山全体を単位とした税額に定め、それを更に人頭に割当てることに改めた。
「国庫の収入は一定したが、無知な百姓は役人の好餌となった。当時の与那国島の役人は石垣島に巣を構えていた士族の出身で独占していたのである。その役人のほとんどが税の負担軽減や免税を種にして、無知な百姓を相手に不正を行い、公然と人権を侵害していたと伝えられる。その役人達の仇名をダマ・ヒルミ(八重山の蟹)と言っていた」
 
 定額人頭税では、王府に納める税額は一定だが、百姓には人頭で税額を割り当てるので、納税人口が増えれば、集まる税額は増えて、役人が不正をしやすかったということだろう。
「当時の村番所は税の取り立てと百姓を呼び出して苛める所であった」ともいう証言もある(前掲書)。とても王府が徴税強化を控えたとは思えない。
 この問題は、別途もう少し検討することとしたい。
 
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