レキオ島唄アッチャー

変容する琉球民謡ー八重山から本島へ。「夜雨節」

 夜雨節(ユルアミブシ)
  私が通う沖縄民謡同好会で、歌っている曲で以前からそのルーツを知りたいと、ずっと思っていた曲に「夜雨節(ユアミブシ)」」がある。「松竹梅」という祝儀舞踊曲集の一曲として入っている。「松竹梅」は、「揚作田節(アギチクテンブシ)」「東里節(アガリザトブシ)」「赤田花風節(アカタハナフウブシ)」「黒島節(クルシマブシ)」「そんばれ節」「夜雨節」「浮島節(ウキシマブシ)」という7曲からなる。
  本島の「夜雨節」は五穀豊穣が歌われる。
♪今年も豊かなる御代になる徴(シルシ)が現われて ※スーリ ユバナヲゥレ エイスーリ ユバナヲゥレ
♪雨露の恵みは時をたがえることなく季節ごとに降るだろう ※ハヤシ
こんな歌意である。
  この歌詞は他の曲でも使われる。「揚作田節(アゲチクテンブシ)」を「松竹梅」の舞踊曲として演奏する時も、同じこの歌詞を使う。
  農作物にとって、適度に雨が降ることは必須の条件である。沖縄の歴史を見れば、干ばつに度々見舞われて、凶作、不作になることも少なくなかった。だから、雨乞いの儀式が、各地で行われ、雨乞いの歌もたくさん残されている。
  だからこそ、雨露の恵みがあって豊年となることへの願い、豊作への祝いが歌われていることはよくわかる。「夜雨」とは、夜間に雨が降ることだが、そもそも歌詞には「夜雨」の言葉が出てこない。「なぜ夜雨なのか」まったく意味不明だ。
                  雨乞嶽
                                 写真は、那覇市崎山の雨乞い御嶽
 この曲について、当初は演奏した印象だけで、あまり八重山的な色合いを感じず、「もしかして沖縄本島から伝わった曲なのか?」と思った時もあった。でも、それはまったくの思い違いだった。
  この歌は、日本最南端の島、波照間島(ハテルマジマ)が発祥の地とされている。當山善堂著『精選八重山古典民謡集』によれば、夜の間に降る雨は、昼間の農作業に支障をきたさずに、田畑を適度に潤すとともに農作物の成長を促すということから、農家にとって理想的な気象条件であった。古来「豊年の前兆」とされてきたそうである。
  「夜雨節(ユルアミブシ)」の歌詞は次の通り。
 ♪夜雨ぬ降る年 世果報年(ユガフドゥシ)でーむぬ
 ♪稲粟ん稔(ナヲ)らし 麦豆ん実(ミキ)らし 
 ♪御主年貢 積ん上げー 御残りぬ稲粟
 ♪泡盛ん生(マ)らしょうーり 御神酒(ウンシャグ)ん造りょーり
 ♪弥勒世(ミルクユ)ぬしるし 夜昼(ユルブィルィ)ん酒盛るぃ
  歌意は次の通り。
 ♪夜の間に雨がよく降る年は 豊年である
 ♪稲も粟も稔らせ 麦も豆類も実らせ 
 ♪国王様への年貢は積み上げて置き 上納分のお残りで 稲粟で 
 ♪泡盛も醸造し お神酒も製造した
 ♪平和で豊かな世のしるしだ 夜も昼も酒盛りして祝おう 
  この歌詞は、本島で歌われる「夜雨節」とは、まったく内容が異なる。夜雨が多く降る年は、豊年となり、人頭税が完納できて、残りの稲粟でお酒も醸造して豊年を祝おう。こんな島民のあふれるような喜びが込められている。
 本島の歌との相違以前に、同じ八重山でも、波照間島の元歌と八重山古典民謡として歌われる歌とはまた少し異なるそうだ。
  當山善堂著『精選八重山古典民謡集』によれば、波照間の地元では「ゆどぅあみ節」と称しており、八重山全体で歌われる「夜雨(ユルアミ)節」とは、三線譜、歌の旋律および歌詞の内容ともに相当の隔たりがあるそうだ。
  波照間島は自治体では竹富町に属する。『竹富町誌』に掲載されている波照間島の「夜雨節」の歌詞を見てみたい(カタカナをひらがなに直した)。
 ♪夜雨ぬ降る年 世果報世でむぬ
 ♪波照間ぬみぬらば 下八重山ぬみきらば
 ♪稲粟んみぬらし 麦豆んみきらし
 ♪う主年年貢積ん上ぎ うぬくいぬ稲粟
 ♪米神酒(マイミシャグ)ばきばな 泡盛酒まりばな
 ♪司けらちかいす 手ずるすどうとむす
 ♪世持けらいちいす 田補佐けらうとむす
 ♪村中けらちかいす 島中けらうとむす
 ♪夜ぬ七日祝す 昼ぬ七日ふくいす
                                  
 歌の大意は次の通り。
 ♪夜雨は豊年の吉兆である。働く島人たちの丹精と夜雨のおかげで豊作を迎えた。まず年貢を納めよう。余った稲粟で泡盛をつくって豊年を共に祝いましょう。
 歌詞の文言い多少の違いはあるが、歌に盛り込まれた内容は、大筋では共通している。
ただ、當山氏によれば、「ユドゥアミ」は「梅雨」を指しているとのこと。「波照間島には石垣島や西表島のような河川はないけれど、古くから田んぼでの稲作も盛んで畑作も含めもっぱら天水に頼ってきたので、田畑を潤す適量の『梅雨』は『世果報』を担保する不可欠の条件であったに違いない(現在は畑作のみである)」。
 ネット「波照間島あれこれ はてるまのしまうた」でも、「夜雨節」を「五月雨節」(ユドゥアミブシ)として紹介している。
 「夜雨が降る年は必ず豊年となる」という祝儀歌。農民にとって、昼の農作業が終わった後、夜に降る雨は特に歓迎され、また夜雨は豊年の吉兆とされたという。一方、「五月の雨」とは梅雨(ユドゥン)でもあり、梅雨の雨=「ユドゥンアミ」という意もあると思われる。八重山全体には「夜雨節」として広まっており、三線の譜割りが大幅に異なり、歌詞もだいぶ違う。
  「ユドゥアミ」とは「梅雨」を指しているとの解説に少しだけ疑問がある。それは、「梅雨」と「夜雨」では、意味するものに大きな違いがあるからだ。
  梅雨と言えば、沖縄では5、6月の期間だけに限られる。農作物にとっては、梅雨が大事であるのはもちろんだが、それ以外の時期に雨が降らないのでは困るだろう。だから梅雨だけが豊年をもたらす恵みの雨とは考えにくい。年間を通して、夜間に降る「夜雨」こそが、農作業の支障にはならないで、豊年をもたらす恵みの雨として重視したのではないだろうか。ちなみに『竹富町誌』に掲載された歌詞には「梅雨」とは出てこない。ただ、八重山古典民謡に詳しい研究者が指摘しているのだから、夜雨でも、とくに梅雨のことを指しているのだろうか。
  本島の「夜雨節」との比較に話を戻す。雨露の恵みが豊作をもたらすことを歌っているが、肝心な「夜雨」の言葉が出てこない。夜雨の大切さについても抜けている。人頭税の下で、「納税奴隷」のように扱われていた島民、百姓が、豊作となり年貢を完納できるという喜びもない。余った米粟で泡盛をつくって祝う楽しみにもふれない。
  島民の日々の暮らしの中から生まれた民謡が、百姓の手を離れていくなかで、「夜雨」の大切さも、年貢を完納できる喜びも、こぼれ落ちて行ったのだろうか。「雨露の恵み」一般では、元歌に込められた島民の思いは伝わらない。
  當山氏は、「夜雨節」が波照間島から八重山全体に伝わる過程での変化について、「伝統歌謡は、仮に出自は一緒であったとしても、伝播の過程で新たな『時代』の、さらには新たな「『土地・地域』の新鮮な息吹を取り入れながら、それぞれに別の生命を宿して変容していくものである」と述べている。
   「夜雨節」は、「比較的近年になって、八重山の歌が琉球古典音楽の工工四(クンクンシー、楽譜)に組み込まれたものの一つと言える」(『琉球芸能事典』)そうだ。
 明治以降、玉城盛重と玉城盛義によって完成された舞踊の「松竹梅」に入れられ、「この舞踊によって知られるようになった」(同書)とのことである。
でも、これによって元歌がもつ土と汗が洗い流され、浄化されていることは確かである。
 

                                
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