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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その2。炭焼長者の伝承

 宮古にもある炭焼長者の伝承
 鍛冶と鉄の伝来を伝える炭焼長者の話が日本の各地にあるが、宮古島にも「炭焼ダル(炭焼長者)伝承」がある。『みやこの歴史』から紹介する。 
 <鍛冶と鉄の伝来を伝える炭焼長者譚が、西銘(にすみ)の嘉播親(かばぬうや)の話として宮古島にも伝えられている。「宮古島記事仕次」は、この伝承を次のように記述している。
 炭焼太良(だる)は独りで身寄りもなく、山端の草庵に一人住んで常に炭を売って命をつないでいたから、其の名を得た、という。炭焼ダルは穀霊(萬穀の精)の導きによって野崎長井の里の真氏(もうす)を娶り、次第に富貴栄輝し、後には西銘のぬしとなり嘉播の親と称された(嘉播親の長女思目我=うむいみが=は、根間大按司(にーまうぷず)という人の次男根間の角かわら天太の大氏の夫人となり、島内を統一した目黒盛豊見親を生んだ)と。
 
 炭焼長者伝説は、鍛冶と鉄にかかわる集団によって日本各地に伝えられた、といわれ、この炭焼太良の伝承もそのひとつとされている。…
 柳田國男は…炭焼ダルが嘉播仁屋(かばにや)になったことについて、「荒れたる草の庵の炭焼太良が、忽ちにして威望隆々たる嘉播仁屋となったのを、ユリと称する穀霊の助けなりとする迄には、其背後に潜んで居た踏鞴(たたら)の魅力が、殊に偉大であったことを認めねばならぬ」といい、「島の文化史の時代区劃(くかく)としては、鋤鍬の輸入は或は唐芋より重大であった…」と、鉄渡来の重要性を強調している。>

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                                                             池間大橋
 農業の一大革新をもたらした鉄と鍛冶
鉄と鍛冶は、日本や沖縄本島から宮古に伝えられたようだ。その結果は、鉄製農具による農業の一大革新をもたらしたという。鍛冶を伝えた人は鍛冶神、農業神として祀られている。
 <鍛冶を伝えた渡来人が、宮古各地で御嶽の神として祭られていることについて、稲村賢敷(いなむらけんぷ)は、「これらの諸神はいずれも神名を金殿と称し鍛冶神であって、農具を製作して島民に与えたので島民はその徳を讃え、農業神として御嶽を建ててこれを祭ったと伝えられ、島立の神、すなわち祖神とは別個であることが明らかにされている」といって、「日本及び沖縄からの渡来人によって鍛冶の技術が伝わり、鉄製農具および漁具が製作されて一般に普及するようになったので、宮古の生産業、殊に農業に一大革新をもたらしたことを物語るものである」といっている(『みやこの歴史』)。>
 
 稲村氏は、鉄器と鍛冶の伝来について、東シナ海を荒していた倭寇の影響があるのではないか、とも指摘している。
 <私は平良市北部の遺跡調査をした結果、そこに残されている遺物に依って、この地方に居住した人々が当時東支那海の海寇として知られた倭寇の人々であることを明らかにすると共に、彼等はその青磁、南蛮焼等の所謂唐渡り物を日本々土に運んで行って売却し、更にそれに依って鉄又は鉄器類を手に入れて彼等の根拠地に持ち帰るようになり、そのために南島には鍛冶が伝来し農具が普及し農耕地は増加して部落が発達することになったということを平良北部の遺跡調査に依って知ることが出来たのであります。この事は又単に此の地方だけに限らず、南島一般について同様なことが考えられると思ってをります。稲村賢敷編『宮古島旧記並史歌集解』>


  鉄伝来の年代は

 鍛冶と鉄の伝来年代はいつだろうか。

 <稲村賢敷は、宮古における鍛冶の伝来、すなわち鉄製農具の使用について、13世紀中頃以後のことと云って、「かくして農地はにわかに増加し、戸口もこれに伴って増加した。かの『宮古島旧記』にある『当時は東の百郡、西の百郡とて住民所狭きまでに多く』というのは、こうした鉄製農具使用に伴う社会的変化を伝えたもの」であると述べている。

 谷川健一は、宮古への鍛冶の伝来は「14世紀頃」のことで、13世紀半ば頃とする稲村説は「歴史的根拠が薄弱である」といい、「鍛冶の技法と鉄器は日本から南島にもたらされたものであり、それは14世紀の中葉を皮切りに活躍を開始した倭寇が一役買っていたにちがいない」と述べて倭寇とのかかわりを指摘している。『みやこの歴史』>


 鉄伝来は14世紀中葉なのか

『みやこの歴史』は、遺跡出土の鍛冶関連遺物について、発掘調査の報告から、次のように指摘している(要約)。

 砂川元島は、1415世紀にかけて形成された遺跡で、円形の路床跡が発掘され、鉄滓(てっし)や鉄製品の破片も出土しているが、製錬炉ではなく精錬鍛冶を主体としたもので、鍛冶遺跡の年代はさほど古くなく、近世のものではないかと考えられる。

宮国元島は1516世紀頃を中心として形成された集落遺跡。小鍛冶に伴う炉跡と思われる遺構が2基検出され、鍛冶炉として理解される。平良の中心地、住屋遺跡は1318世紀の集落遺跡で、鉄滓、鉄器などの鍛冶関連遺物も出土しているが、1516世紀を中心とする集落跡から出土したもの。精錬鍛冶のみで、鉄生産の精錬滓は存在しなかった。

 <これら一連の遺跡の形成された年代や鉄滓、炉床跡、鉄製品等の出土状況などを考えあわせれば、鍛冶の伝来年代を13世紀中頃とする稲村の説は、やはり「歴史的根拠が薄弱」のように思われる。倭寇の活躍とからめて14世紀中葉頃とする谷川の説がより有力となるように思われる。>



 

 

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