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宮古島への鉄と鍛冶の伝来、その1。鍛冶神をたたえる神歌

宮古島への鉄と鍛冶の伝来

 

宮古島や八重山への鉄と鍛冶の伝来はいつ頃だろうか。そんな興味を持っていたところで『みやこの歴史―宮古島市史第1巻通史編』が目に留まった。宮古島への鉄と鍛冶の伝来について、まとまった記述がされていた。そこからポイントを紹介する。

鍛冶神をたたえる神歌

 宮古には、鉄の伝来と農耕をめぐり「鍛冶神をたたえる神歌」がある。

                      
 <宮古の古集落の一つである狩俣に、鍛冶の伝来を歌った神歌(かみうた)「頂(つづ)の磯金(いしがに)のタービ」が伝承されている。これは、およそ次のような内容である。

 頂の磯金は、根の島、元の島の子孫が皆、大箆(うぷぴら)、鉄箆(かにぴら)がなくて、素手になっているので、大大和(うぷやまとぅ)に上がり、大大和の人から、青鉄・黒鉄を分けてもらい、船腹に満ちるまで積み上げて持ち帰り、自分の土地の真中で、大鍛冶屋、真鍛冶屋を根立て、根の島、元の島の男たちをはじめ、宮古中の男たちすべてに伝え広げた。頂の磯金よ、なんと誇らしい、今日の直る日よ。>

 これは、鉄製の農具がないため、日本に渡って鉄を分けてもらい、鍛冶を伝えたという伝承が歌われている。八重山にも、鉄がないため鹿児島に渡って求めたという石垣島大浜の崎原御嶽の伝承がある。でも、宮古島や石垣島から沖縄本島や奄美を通り越して、九州・日本まで出かけて持ち帰ったという伝説は、私はとても信じがたい。ただ、大事なことは、鉄と鍛冶が日本から伝わったことがうたわれていることだろう。
            
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              狩俣にある「四島の主の墓」
 

 これとは逆に、日本や沖縄本島などから鍛冶が伝わったという伝承がいくつかある。こちらの方に合理性がありそうだ。

 <多良間島で伝承されている「鍛冶神(かずがん)のニーリ」は、旧暦11月の「鍛冶崇び」(フイゴ祭り)に歌われた神歌で、大和で生まれた「鍛冶神がなす」が、大和から沖縄本島へ渡り、宮古島、多良間島と南下しながら鍛冶の技術を伝え広げていったことを、…歌っている(『みやこの歴史』、神歌は省略)。>

 

宮古には、鉄と鍛冶を伝えた人を鍛冶神として祀る御嶽がある。

平良字西仲宗根にある船立御嶽(ふなだてぃうたき)の祭神は、「かねとの・しらこにやすつかさ」の兄弟神(鍛冶神)で、次のような由来を伝えている。以下、要約する。

昔、久米島按司の娘と兄が舟で流され宮古に漂着し、船立に住居した。その後結婚した娘の子が成人して久米島の祖父を訪ね、黒鉄と巻物をもらい宮古に帰り、鍛冶をおこし、農具を作って人々に与えた。それまで牛馬の骨で田畠を耕し、年々飢餓にあっていたが、鉄製農具を使用し五穀豊穣となり、人々は兄妹の骨を納め神として崇めた。

 <城辺・友利の嶺間(みねま)御嶽の祭神は、「あまれふら・泊主」の男女神で、男神は平安名崎(へんなざき)の宮渡(みゃーど)浜に漂着した大和人と伝えている。「民間口碑によると『大和神かんか主』と唱え祭っている。かんか主とは鍛冶の神のことで、彼の大和人は鍛冶の技術に長じ、鍬や、鎌等の農具を作って農民に分け与えたから一般からその徳を慕われて鍛冶神として祭られた」といわれている。>

 
          
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                 東平安名崎
<これらの神歌や御嶽伝承は、いずれも鍛冶と鉄の伝来が、日本本土、あるいは沖縄本島(久米島)からもたらされたことを伝えている。>

<渡来した人々は宮古の地に定着して子孫を残し、当時の社会に一定の貢献をしている。特に鍛冶の伝来は渡来人と深く関係している。(『みやこの歴史』)>

 

なぜ久米島から伝わったのだろうか。下池馨氏は次のような見解をのべている。

<久米島、慶良間、伊江島等が正式に、琉球に入貢したのは察度以前(英祖王代の西紀1264年)であるから早くから、なべかま、陶器、青磁類も得られていただろうし、鉄材も入手して農器具の製造法も久米島には早くより伝えられていたと考えられるから、「久米島から2人の兄妹が漂流して来て、農器具の製造法を宮古に伝えたという伝説」(船立御嶽由来)も単なる伝説だけではなく事実を裏書きしているとみてよい(『宮古の民俗文化』)。>

 

伊良部島にある長山御嶽には、次のような伝承がある。城間武松著『鉄と琉球』から紹介する。

<男神かね殿と唱え祭る、この人鉄を持渡ったために金殿と唱えたとの事である。

 昔当島には鉄がなく耕作のことも牛馬の骨を細工してやっていましたが、大和人が渡来して鉄を持渡り、長山という所に住居して農具を持ち出し村人たちにも分け与えたので耕作は思うように行き五穀も満作して人民も豊かに生活するようになったので、作物の初を供えて大和人の跡を祭るようになり御嶽ができたと言い伝えている。この項『擁正旧記』から>

これによると、昔、島に鉄がなく牛馬の骨を細工して農具としていた。大和人が鉄を持ち渡ってきて居住し、鉄製農具を村人に分け与えたので五穀豊穣となった、とやはり日本から鉄が伝わったことを示している。

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