レキオ島唄アッチャー

首里城は炎上したか、その4

印と詔勅を奉安する場所は


 高瀬氏は、さらに、府庫の火災で大切な鍍金銀印が溶解したというのも事実なのかと疑問視する。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<尚泰久は、鍍金銀印が府庫焚焼により鎔壊した、と明皇帝に奉上したが、印は本当に府庫に蔵されていたのだろうか。府庫とは国家が財物・兵器などを収蔵するくらであることは、冒頭に見たところであるが、内乱の前に琉球国の府庫には、印は収められていなかったようなのである。

(朝鮮漂流民の)万年は王の信頼が篤く、「鉄物(かなもの)・緞子(どんす)・香木・銅銭所蔵の庫」の看守人となった。この庫は、出入りする者を衣服を脱がせて検査するほど厳重に管理されており、貴重品を収める府庫というべきものであったろう。しかしこの収蔵品に印はあげられていない。



 一方梁成は、王の居る閣の上層に珍宝を蔵した、と述べている。琉球国にとって何よりの珍宝とは、明より賜わった印や詔勅であろう。冊封使の来琉のたびに、冊封の詔や勅を「宝」として国に留めることを願い出て、従来それが許された証拠として、過去に授かった詔勅を金櫃(かねびつ)ごと持ち出してきて冊封使に示しているのは、陳侃・郭汝霖をはじめとする明代冊封使の示すところである。

首里城正殿御差床(うさすか)、首里城公園HPから 
        首里城正殿御差床(うさすか)、首里城公園HPから
                     
 真栄平房敬は『首里城物語』の中で、中国皇帝からの詔勅は、琉球処分の時まで、首里城の
2階に格護されていた、と記している。…

印は詔勅にも増して貴重なものであり、かけがえのない唯一の品である。琉球国王の権威の象徴であり、根拠でもある。印は詔勅よりもさらに鄭重に国王の身辺において厳重に保管されていたはずである。印が詔勅と共に正殿に奉置されていた可能性は大きいが、正殿から距離を置く府庫などに収納されていたとは考えられない。

その府庫の焚焼により印が鎔壊した、と称する尚泰久の上奏は明らかに欺瞞である。さきに筆者が、府庫の焚焼自体も疑問であるとした所以である。

乱の際、尚金福あるいは尚金福の世子が印を持ち出したために、これを入手できなかった尚泰久は、明に対する証明として、紛失や破損ではなく絶対的な消滅である鎔壊を申し立てねばならず、そのために府庫が焚焼したと称するしかなかったのである。国王として近い将来、冊封使を迎える身として、正殿が焚焼したという明白な欺瞞は許されなかったからである。>

 

以上で、高瀬氏の論考の紹介を終わる。
 明皇帝から賜わった最重要ともいえる印を、府庫に保管していたというのも、奇妙なことである。詔勅はじめ珍宝は正殿の上層に保管していたのなら、なによりの宝である印は正殿に保管されていたと見るのが常識だろう。確かに、印は府庫に保管していて府庫が焼けて溶解したというのは、なんだか怪しい話である。



 この府庫の火災で印が溶解したというのが創作だとすれば、尚泰久の「志魯・布里の乱」で2人とも死亡したので推挙されたという尚泰久の上奏の内容自体が、史実であるのかどうか疑わしくなってくるのはもっともである。

ただし、まだ論理的な推論であって、府庫の火災がなかったことが立証されたわけではない。さらに「志魯・布里の乱」はなかったという根拠にもなりえない。

これまで紹介してきた第一尚氏最後の王や尚泰久にまつわるこれらの問題は、とても興味深い視点による歴史の再検討であると思う。琉球史のうえでこれまで定説のように思われてきたことも、本当に史実であるのかどうか、史料を吟味し再検討することは、とても重要な課題であることは確かである。今後の研究動向について注視していきたい。

終わり

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