レキオ島唄アッチャー

首里城は炎上したか、その2

府庫の火災も疑わしい

焼けたのは府庫であり、首里城の炎上は、蔡温による脚色である、その府庫の火災も疑わしいという。
  内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」からの続きである。

<それでは『中山沿革志』のいうように府庫のみであるにせよ火災はあったのだろうか。実はこの「府庫焚焼」も事実かどうかは疑問なのである。「志魯・布里の乱」で述べたように、『中山沿革志』のこの文は『明実録』の景泰52月己亥の条に引用された尚泰久の奏文に依拠している(注は省略)。そしてこの奏文を奉った目的は、明から賜わった鍍金銀印が失われたので、再び賜わりたいということである。


奉神門

                              首里城の奉神門
 
 

鍍金銀印、即ち琉球国中山王の印は、明が琉球国を外藩国として承認し、その国王を封じた証であり、国家の基本に関わる重要な品である。しかもこの印は、明皇帝に奉る表奉文をはじめ、明に提出する正式文書には必須のものであった。

尚泰久が尚金福あるいは尚金福の世子を倒して王位に即いたとしても、その時鍍金銀印を手に入れることができなかったとしたらどうだろうか。洪武161383)年察度の時に与えられ、第一尚氏が察度王統を滅ぼした時にもその王印を入手することで、王位の正統性を明に対して示すことができた王印を、この時入手できなかったとしたら。

おそらくそこで考えられた口実が、府庫焚焼による鎔壊だったのであろう。したがって府庫焚焼自体、極めて疑わしいのだが、その検証は後に廻して、今は蔡温の創作である「満城火起」が絶対に否定されねばならないという点について、更に検証を進めてゆこう。>

 


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