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首里城は炎上したか、その1

「志魯・布里の乱」で炎上?

景泰4(1453)年、尚金福の死後、王位継承をめぐって世子志魯と布里が争い、双方とも死亡したうえ首里城が炎上した、という琉球史の定説がある。それに疑問を投げかけたのが、内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「首里城の炎上したか」である。次のようにのべている。

<首里城が炎上したというのは『蔡温本世譜』の記述が根拠となっている。ここでもう一度その記述を見てみよう。

「景泰4年癸酉の年(1453)尚金福王が薨じて、世子の志魯が位に即こうとした。当時王弟布里の威勢が甚だ盛んであった。そこで『吾は尚巴志王の子である。父と兄の業を継承して位に即くべきである』と言った。志魯は怒って『汝は王弟であって世子ではない。どうして兄王の業を妄りに奪うことができようか』と言った。布里は大いに怒って、兵を発して攻撃した。志魯もまた兵を擁して拒(ふせ)ぎ戦い、両軍入り乱れて殺しあった。満城に火が起こり府庫が焚焼した。布里と志魯は二人共傷つき共に死んだ。朝廷が賜わった鍍金銀印も鎔壊するに至った。国人は議して、王弟尚泰久を推して大位に就かしめた」とあり、原文は次のようである。(省略)

 IMG_4152.jpg


                               首里城正殿

  蔡温が参照した『中山沿革志』の方はどうだろうか。

「金福が既に死に、其の弟布里と其の子志魯が争って立ち、府庫に焚焼し、両方とも傷つき共に死んだ。賜うところ鍍金銀印も鎔壊した。国人は尚泰久を推して権(かり)に国事をとらせた」(原文省略)。

となっており、焼けたのは府庫のみである。府庫とは諸橋轍次著『大漢和辞典』によれば、「(国家が)文書や貨財器物等を入れるくら」とある。また『漢語大詞典』によれば「国家が財物・兵甲(武器)を貯蔵する場所」とある。

この府庫と特定した焚焼を、蔡温は「満城火起」と変更した。これだけではなく、蔡温は全体として話をドラマチックに仕立てており、この4字も単なる言葉の綾だったのだろうが、これが挿入されたのが正史である『蔡温本世譜』であったため、これ以降の琉球史においては、景泰4(1453)年に首里城が満城炎上したことが史実となってしまったのである。>


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