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「志魯・布里の乱」がなかった?、その3

存在感を示していた王弟

兄と甥が争いともに倒れたので、王位が転がり込んできた尚泰久は、なぜか尚金福の在位中からとても存在感を示していたという。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「『志魯(しろ)・布里(ふり)の乱』とは」から紹介する

 

<ところで、尚金福の在位中の記録に、琉球国で際立った活躍をしている王弟がいる。それは…『朝鮮王朝実録』[72]端宗元(景泰41453)年5月丁卯の条にある。ここで琉球国王使道安は、万年と丁録が臥蛇島に漂着した時(景泰元年)「琉球国の王弟が兵を領して岐浦島(喜界島)を征してこれを見、買(ママ)って国王に献じた」と語っている。

また漂流民は、尚金福に対する冊封使が琉球に来た時、「中山王の弟が軍士を率い、旗・太鼓・雨傘(絹傘をさすか)を備えて郊に出迎し、殿内に入って宴慰した」と述べている。

これらの記事は、軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ、堂々たる王弟の姿を示している。…

これらの王弟の名は記されていないが、この王弟は尚泰久であったに違いない。明皇帝に奉った奉文に記される王弟布里とは、尚泰久によって創出された人物であろう。>

 

論文は、尚泰久の奏文をもとに記された『明実録』とそれを基にした『中山沿革志』を事実と信じて蔡温が「志魯・布里の乱」を書き加えたものにすぎないとする。

<「志魯・布里の乱」と呼ばれてきたものは、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものであって、尚泰久が倒した相手は、尚金福の世子、もしくは尚金福本人であったと思われる。>

 

尚泰久が尚金福の在位していた当時から、すでに「軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ」ほどの存在であれば、布里が尚泰久の兄であっても、尚泰久を抜きにして、世子の志魯と争うこともなんかおかしなことだ。しかも、争った二人がともに死去して、傍観していた泰久に王位が転がり込んできたというのも、余りにも出来過ぎた感があることは確かである。実際には、「尚泰久の乱」と呼ばれるべきものだ、という推理はかなれリアリティがありそうだ。

とはいえ、「志魯・布里の乱」といわれるものは存在しなかった、尚泰久の奉文が事実にもとづかない虚構の記述である、という根拠は必ずしも明示されていない。布里が、存在もしない尚泰久が創出した人物に過ぎないということも、根拠は不明である。

布里といえば、その墓が南城市に近くにある。

    布里の墓、「らしいね💛南城市」HP
                    布里の墓(「らしいね♡南城市HPから
「(志魯・布里)
両者とも戦死という説や、布里は生きて城外に逃れたという説もあるが、いずれにしろ尚布里は王座につかず、58歳で亡くなり、第一尚氏発祥の地に近いこの場所に葬られたと伝えられている。」(南城市観光ポータルサイト「らしいね♡南城市HP

この墓の存在はどう考えればよいのだろうか。

「軍を掌握し、国家儀礼の先頭に立つ、堂々たる王弟の姿」は本当に尚泰久であったのだろうか。もしかすると、それは布里だった可能性はないだろうか。「堂々たる王弟の姿」が布里だとすれば、世子の志魯と争ったこともありうる話となる。

この「志魯・布里の乱はなかった」という論考は、どうもこの後「首里城は炎上したか」の項で見る問題とかかわりがあるようだ。尚泰久の上奉文が、他にも王位を継承するために、創作されたとみられる重大な問題があるからだ。次に「首里城は炎上したか」の論考を見ておきたい。


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