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第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その4

歪曲された歴史
 中国からの冊封使、
汪楫(おうしゅう)著『中山沿革志』の矛盾した記述について書いた。もっとも『中山沿革志』が出されたのは康熙231684)年だから、尚円即位から200年余りも後になる。

 
高瀬恭子氏は『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の論文は次のように述べている。

<『世鑑』以下の琉球国の正史は、すべて17世紀以降に第二尚氏王統の治世の下で書かれたものである。

君主は天の命によってその位に即くが、天の命は人心のおもむくところに従う、という中国の易姓革命思想を受容した琉球においては、正史はその文脈に沿って記される。

第一尚氏王統が天命を失うに足る十分な理由をもって尚徳は描かれ、天命を受けるにふさわしい徳と人望を備えた人物として金丸は讃えられる。

『世鑑』以下が記す尚徳の悪逆非道ぶりや、尚円が王位に推挙されるに至るストーリーは、それを念頭に読まねばならない。


 ところで、正史から中和の存在が抹消されて了ったのは何故であろうか。尚徳在位中から権力闘争が、尚徳死後に顕在化してクーデターとなったものの、のちに正史を編む際に、即位まもない青年国王を廃する正当な理由づけが困難なために、全てを尚徳に帰し、中和の存在は無かったことにしたかったのではないか。そのため、世子は幼く、国王尚徳は年若いことにしたものと思われる。

尚徳が、成化5年4月22日に死去し、その後時を経ず金丸が王位に即した、と記しながら、『世鑑』、両『世譜』、『球陽』などは、すべて尚円の即位年を成化6年としている。これは両『世譜』が通常の新王の即位年を前王の死去の翌年としていること(『世鑑』は年を記さず)を踏襲したものであろうが、この場合は極めて奇妙なことである。両『世譜』ですら武寧の滅んだ永楽4年と同年を思紹の即位年としているのである。尚円の即位年の成化6年は中和を滅ぼした年であり、これこそ語るに落ちたということであろう。>

 

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               尚徳王時代に金丸が隠遁していた内間御殿の説明板

 これまで、王位にある尚徳が死去したあと、金丸が推挙され王位に就いたとされていたが、もしかして実際は尚徳が殺されたのかもしれないと勝手に想像を巡らせていたが、中和が王位に就いていたのが事実とすれば、尚徳は殺されたのではないことは確かである。

尚徳が死去したとき、「世子将に立つ。群臣之を殺す。国人金丸を推戴す。君と為す」と正史は記している。しかし、本来、尚徳の死後、中和が16歳で第8代王に即位したのなら、仮に尚徳の治政が悪かったとしても、即位したばかりの中和を「悪逆非道」と非難できない。「幼い」から後継者にふさわしくないとも言えない。高瀬氏の指摘の通り、若い国王を倒す大義名分がない。


 そのために、尚徳の年齢を12歳も若くし、世子も幼い子とすることにより、尚徳による悪政を廃するために、幼子は犠牲にして王位にふさわしい金丸を推挙したという筋書きがつくられたのかもしれない。

このクーデターの正当化のためには、中和の生命を奪っただけではなく、第8代国王としての存在そのものを歴史から抹殺したかったのだろうか。王位に就いた中和王を殺したのが事実なら、尚円の即位も、国王を殺して王位を奪うという血に塗られたクーデターだったことなる。

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