レキオ島唄アッチャー

第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その3

「中和を倒したクーデター」

第一尚氏の最後の国王が、尚徳ではなく、その子の中和が即位していたとすれば、「実際の権力交替はどのように行われたのであろうか」。内田晶子・高瀬恭子・池谷望子著『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の中の高瀬恭子著「第一尚氏最後の王『中和』」は、次のようにのべている。



 <尚徳が死去したのは、『世鑑』の記すように、成化
5(注・1469)422日ごろであったと思われるが、尚徳の享年は41であった。直ちに3人の遺子のうち最年長の16歳であった中和が位を継いだ。 

中和は、前述したように朝鮮に遣使したり、明へ父尚徳の名で朝貢使節を送ったりした。父の名を用いたのは、この頃琉球は年に1回もしくは2回の朝貢を行なっていたが、国王の死去した後もその国王の名で朝貢し、1年余りは経って喪が明けてから死去を報告して請封するのが例であったからである。

ところが、成化6年にクーデターは起こった。金丸が王位に即き、中和および2人の弟は殺害され、第一尚氏王統は断絶した。


003.jpg 
             尚徳王御陵跡
           
 このクーデターの時期は、成化6年4月1日より後、9月7日より前、おそらく7、8月頃であったかと思われる。4月1日とは、中和が朝鮮への使者に持たせるべく用意した前述の『歴代宝案』の文書の日付であり、9月7日とは、金丸が尚徳の世子尚円を名乗って明に請封の使者を遣わした際の文書(『歴代宝案』
[23-04][28-04])の日付である。

さてこの請封の際に用いられた2通の文書は、冒頭に明記して派遣の主旨を示す文言が、請封とはなっておらず、「謝恩の為」となっている。中和が謝恩の進貢のために用意していた文書を、クーデターに成功した金丸が急拠用いたのかもしれない。

また尚徳の世子尚円と名乗ったのは、武寧(注・察度王統)を滅ぼして新王朝を建てた思紹(注・尚巴志の父)が、中山王武寧の世子を名乗って請封したのにならったもので、速やかに王位の承認を得たかったためである。金丸にとって自らの体制の確立と権威づけのために、早急に明の冊封を受けることが何より必要だったのである。>

 

改めて、汪楫(おうしゅう)著『中山沿革志』を読んでみた。なんとも奇妙な記述となっている。「成化6年(1470)、尚徳が卒(しゅつ)した。尚円は、みずから世子と称した」と記す。一方で「円は伊平(屋)の人である。…父は里主」とし、「尚徳に不義の行いが多く、国の人たちは、みなそれをうらんでいた。徳が卒したので、円を奉じて王にしようとのぞんだ。円は『(尚徳の)世子がおられるのに、どうしてあえて王位を私できようか』と言ったが、国の人たちは、遂に共に世子を殺した」と記す。「世子を殺した」というのは、重大な事件であるが、その是非は問わない。しかもその上で「父の尚徳の薨去を報じ、王位の継承を願いでた」と書いている。同じ「尚円」の項の中で、まったく矛盾することを平気で記している。

明は、尚徳の死に際して政変があり、世子を殺して、金丸が即位したことが知っていながら、尚徳の世子を名乗る尚円を中山王として認証したということだろうか。

スポンサーサイト

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その4 | ホーム | 那覇ハーリーはやっぱりライブ>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |