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第一尚氏の最後の王は尚徳ではない、その2

禅僧が「今の王の名は中和」と証言

この琉球の正史とは異なる尚徳王とその子どもについて証言は、漂流民の証言だけではない。しかも、尚徳の後継王の名前まで明記された史料がある。高瀬恭子氏は、『アジアの海の古琉球―東南アジア・朝鮮・中国―』の論文で、次のようにのべている。

<肖得誠らの見聞と符合する史料がもう一つ存在する。朝鮮でほぼこの時期に編まれた申叔舟撰『海東諸国紀』の次の記事である。

「成化7(1471)年の冬、琉球国王の使として禅僧の自端西堂が来朝した。自端の言うには、尚巴志より上代はよくわからない。尚は姓で巴志は号、名は億載である。尚金福の名は金皇聖、尚泰久の名は真物という。尚徳の名は大家で、兄弟は無い。今の王の名は中和で、まだ号は無く16歳である。宗姓丹峯殿の主女を娶っている。王弟の名は於思で13歳、次弟は截渓といい10歳である。国王の居るところの地は中山といい、故に中山王と称している、と。」>



 <ところでこの自端が国王の使として琉球を出発したのは、成化6(
1470)年であったようである。即ち肖得誠らが尚徳やその王子たちを見た天順5(1461)年の9年後のことである。

自端の言う16歳の中和、13歳と10歳の2人の弟は、肖得誠らの見た尚徳の4人の子のうちの幼い3人であろう。長子は死没したのであろうか。

この全く関係のない2人、自端と肖得誠の証言に尚徳の複数の子どもたちが登場し、しかも年齢的に整合していることは、その史料の語ることが事実であることを示している。そしてその事実とは、尚徳が天順5(1461)年に33歳で、4人の子があったこと、成化6(1470)年に尚徳は既に死去しており、残された3人の子のうち、年長の中和が新王として即位していた、ということである。

尚徳が成化5年に29歳で死去し、幼い世子1人が残されたという『世鑑』などの記事は、クーデターによって新王統を樹立した第二尚氏が、自らのために都合良く事実を改竄したものであろう。>

 

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               首里城の歓會門
  国王の年齢と子どもの数や年齢は、王府の歴史を見る上でとても重要な事柄である。琉球に滞在した朝鮮漂流民の
肖得誠の証言と禅僧の自端西堂の報告で、尚徳王の年齢と子どもの数と年齢が、王府の『中山世鑑』など正史の記述とまったく異なることは、正史記述が疑わしいことを示している。漂流民は証言に際して、なにも偽る必要がないことである。自端の報告は同時代の証言であり、その両者の証言が一致していることは、真実性が高いことを示している。

これまで第一尚氏の8代目「中和」の存在が正当に評価されないばかりか、無視をされてきたのはなぜだろうか。

 

この禅僧の自端西堂らが「琉球国使を騙(かた)る偽使である」という説があるという。自端は日本の禅僧だが、琉球を訪れたところ琉球国王が人物を見込んで、成化3(1467)年に朝鮮に遣使し、成化7(1471)年に再び遣わした。当時、琉球は朝鮮の政情を把握し、交易の実を挙げるための業務は日本人に依存していたという。

「成化6年に尚徳の名で発出された文書も、使者の1人も変更になったものの、自端らはまぎれもない琉球国王使であった」と高瀬氏はのべている。

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