レキオ島唄アッチャー

仲尾次家の歩み

仲尾次家の「系統の歩み」を比嘉朝進著『士族門中家譜』から紹介する。

 <1世思嘉那
 1782年、台風や干ばつで上納米が欠乏、国庫の銀子が不足し、王子らが薩摩へ赴く旅費に支障をきたした。思嘉那(68歳)は銅銭16万貫文(かんもん)をもって国用に応じた。尚穆(ぼく)王は志を褒め、新家譜を与えた。
 また、1789年、徳川家斉就位に慶賀使者(96人)を遣わす費用が足りず、再び銅銭18万貫文を献じて国用に備えた。これで譜代(元来の士)に引き立てられた。享年77歳。>
 省略
 <5世 仲尾次親雲上政隆
 今帰仁間切中城地頭、那覇総横目(目付)、那覇船改め奉行(検査長)。1825年の干ばつで餓死者が続出。3千貫文を寄付し、1838年尚育王即位には国費不足のところ、銀1万貫文を無利息で貸与した。
 家譜は1854年で途切れているが、実は禁令の一向宗信者ということで、石垣島へ流罪となった。島では、台風でこわれた宮良橋(橋長50m)を私費を投じて再建。地元役人一同の放免嘆願書が王府を動かして放免。>

 仲尾次家は、干ばつによる飢饉の際や国庫の銀子不足、大和への旅費の不足などの際に、資金を寄付したり、無利息で貸与するなどした。
 本来は百姓(平民)は系図を持たない無系であるが、王府から家譜を与えられ、さらに譜代(元来の士)に引き立てられたという。

 政隆の先祖は、薩摩からきた中村宇兵衛だというが、宇兵衛もそのスーツは京都にあるという。「東本願寺沖縄別院」HPから紹介する。
 <(政隆は)那覇泉崎に生まれる。その先祖は、京都から薩摩の久志浦に移住したといわれ、代々真宗の門徒であった。4代前の中村宇兵衛が薩摩から琉球に移り住み、琉球の妻との聞に5男をもうけ、その長子が仲尾次家を称した。政隆は若くして官職につき、大和横目、那覇総横目などの要職を歴任している。そして官職の身でありながら、当時琉球で禁制となっていた真宗をひそかに信仰していた。さらに政隆は自身の信仰だけに留まらず、念仏講を結成し那覇の遊郭で遊女たちを中心に積極的に布教活動に取組んだ。
 しかし、信者が増え次第に人目につくようになり、1853年政敵によって密告され、信徒らとともに拘留され取調べをうける。結果、政隆は八重山へ無期の流刑、他の信徒もそれぞれ処罰された。配流地の石垣島では、流人の身で宮良橋を再建し、その功により赦免され11 年ぶりに那覇に帰された。享年62歳。伊波普猷(いはふゆう)は、その著書のなかで「仲尾次政隆は近代沖縄の宗教的偉人」 (『浄土真宗沖縄開教前史ー仲尾次政隆と其背景』より)と評している>。
 これによると、京都から薩摩に移り住んだ先祖は、代々真宗の門徒だったという。政隆が浄土真宗の門徒だったというのは、偶然のことではなく、先祖からの長い系譜があったことがうかがえる。

 八重山民謡で歌われた仲尾次政隆について見てきたが、政隆という人物像だけでなく、彼の家系から、当時の時代背景とさまざまな事情がわかってとても興味が尽きない。
 終わり
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