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与那国島はなぜ宮古島に属していたのか、その1

 与那国島はかつて宮古島に属していた
 
 与那国島はかつて宮古島に属していたという。琉球王府がオヤケアカハチの乱を征討した後、当時、八重山に属していた多良間島と与那国島を交換して、多良間は宮古へ、与那国は八重山に属するようになったことを、以前このブログでも書いた。 
 ただ、なぜ宮古島からは近い多良間島、石垣島などを通り越して、より遠い与那国島を宮古島が服属させていたのか、よくわからないままだった。
 先日、小池康仁著『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』を読んでいたら、この問題に対する一つの見解が紹介されていた。 小池氏も八重山の歴史と民俗に詳しい牧野清氏や宮古島出身の川満信一氏の見解を紹介しながら記述している。

 与那国島は貿易の中継地だった
 <八重山地域を専門とする民俗学者の牧野清によれば、先島地方は琉球国の形成期において、当初王府には服属していなかったという。宮古諸島は島面積の大部分が平地で比較的大きな山や森がないため、水に乏しく農業には不向きであった。そのため古代より交易によって社会を維持してきたといわれている。逆に八重山諸島は比較的大きな山が多く水に恵まれているため、古代より農業によって社会を維持することができた。このような違いから、宮古島は琉球国が形成される14世紀ごろには、既に主として東南アジア方面との貿易を運営していたという。そして、島の伝承によれば八重山を侵略し最西端にある与那国島を服属させ、貿易の中継地としていたというのである(牧野清 1972)>
                  与那国島地図

 <その後宮古は首里王府に朝貢を通じて服属するようになった。そして、沖縄本島で首里王府を形成した三山勢力は福建地方を通じた大陸との貿易によって成り立っていた。このような経緯から、琉球国の主に南方方面との交易は宮古を中心とした勢力が担っていた、と思想家の川満信一は指摘している(川満 2004)>
(小池康仁著『琉球列島の「密貿易」と境界線1949-51』「序章琉球列島における共同体の連携」の「注7」から)

 宮古島には、古くから交易が行われていたことをうかがわせる保良元島遺跡(ぼらもとじまいせき)がある。14~15世紀頃の集落遺跡である。宮古産の土器の他・宋・元・明時代初期の中国製陶磁器片が出土している。
 <元史「温州府志―オンシュウフシ―」によれば「婆羅公管下密牙古人―ブラコウカンカミヤコジン―」が元の延祐4(1317)年、大小2隻の船で南方交易の途中、嵐に遭い中国福建省永嘉県に小舟が漂着した。小舟に乗った14人は救助され、泉南(当時の貿易都市)から密牙古方面に行く船があったので、無事に帰国できたという。
 婆羅は保良に、密牙古は宮古に比定されている。当遺跡には、元島御嶽やブンミャー跡「竜の家(やー)」と呼ばれる洞窟がある。
 当遺跡は集落跡にとどまらず、海外交易の拠点という可能性も残されており、宮古の歴史を解明する上でも重要な遺跡である。(「宮古島アプリ綾道=あやんつ」HPから)>
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     察度王に帰順した宮古島の与那覇勢頭豊見親逗留奮跡碑(那覇市)
 琉球と中国との交易は、1372年、中山王の察度(さっと)が、弟の泰期(たいき)を遣わし、中国へ朝貢したのが始まりだとされている。宮古島と見られる船の南方交易はそれより50年以上早いことになる。
 宮古島庶民史の著者で宮古島研究の第一人者 稲村賢敷は中国の記録を基に、「蜜牙古(みやこ)島人約60人がシンガポールまで交易に向かったが、暴風に巻き込まれ遭難し、12人が中国の福建省泉州の沿岸に漂着した」 と書いているという(「宮古島キッズネット」HP、「14世紀宮古島の人びとの航海術」)。
 稲村氏の指摘のように、宮古島の人々は14世紀に遠く東南アジア方面までの航路を知り、交易をおこなっていたとすれば、驚きである。
 宮古島から東南アジアまで交易に出かけていたとすれば、与那国島はその中継地として重要な位置を占めていた可能性があるだろう。
 琉球は、三山統一のあと、中国、東南アジア、日本、朝鮮との交易国家として栄えた。「琉球国の主に南方方面との交易は宮古を中心とした勢力が担っていた」(川満氏)というのは興味深い指摘である。
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