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普久原朝喜顕彰碑に出会う

普久原朝喜顕彰碑に出会う

 沖縄市の「こどもの国」に行ったときのこと。駐車場に入ると南側になにやら石碑が建っている。見ると、なんと普久原朝喜さんの顕彰碑だった。昭和を代表する沖縄民謡の唱者であり、数多くの作詞作曲で名作を残している。
 顕彰碑の下部には、代表作の「懐かしき故郷」の一節が刻まれている。
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「♪夢に見る沖縄 元姿やすが 音に訊く沖縄 変てないらめ 行ちぼしゃや 産まり島」。
 「夢に見る沖縄は、昔の姿のままだ でも音の便りで聞く沖縄は、変わってしまったらしい 行ってみたいなわが生まれ島」という歌意である。
戦前、大阪に出ていた朝喜が、焦土と化した故郷の沖縄、異民族・アメリカ統治のもとにおかれた沖縄に思いを寄せ、切々と歌った民謡である。歌に込められた心情は、朝喜個人だけでなく、故郷を離れている沖縄県人の思いを代弁している。
 朝喜は、中部の越来村(現沖縄市)で明治36年(1903)に生まれた。10代後半で三線弾き手として知られ、馬車引きをしながら、モーアシビ(野遊び)でも歌っていた。20歳で大阪に移り住み、3年後には内外レコードから琉球民謡の吹込み依頼があり、20曲歌った。みずからレコード制作を決意し、昭和元年(1926)には、マルフクレコードが誕生した。
 朝喜は、歌い手、作詞・作曲者、レコード制作者として大活躍して「チコンキー(蓄音機)フクバル」の異名をとった。大城学著『沖縄新民謡の系譜』による。
 歌い手としては50歳で現役を引退した。彼の残した民謡には、とてもよい曲が多い。
戦前は移民小唄、軍人節、喜びの那覇港、浦波節(物知り節)、涙の那覇港、無情の唄、夫婦節、布哇(ハワイ)節、世宝(ユタカラ)節、恨みの歌。戦後は、懐かしき故郷、通い船、夢の歌、巣なし千鳥、果報節、あこがれの唄などがある。
普久原朝喜の作った民謡は、戦前と戦後の世相をよく反映しているのが特徴だ。その中からいくつか見てみたい。
「軍人節」は、一見すると民謡軍歌のようだが、日本の軍歌とはまるで異なる。勇ましさはどこにもない。軍人として出征する夫が家族と引き裂かれる別れの辛さ、不安と悲哀にみちている。一種の厭戦歌ではある。
この民謡は検閲を受け「軍人」という言葉がタイトルとして認められないため、「出征兵士を送る歌」と改題、連作の「熊本節」を合わせて「入営出船の港」として申請した許可されたというエピソードがある。
「無情の唄」も愛しあう二人が、離れ離れに暮らさなければならない悲しみを歌う。戦争の言葉は出てこないが、戦地に出征して、愛する男女が引き裂かれた「戦世の無情」を歌った唄だという。秘められた非戦の唄といえるのかもしれない。
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           写真は「こどもの国・ふるさと園」にある古民家

「移民小唄」は戦前の作品である。ヤマト口(共通語)で書かれている。
貧しい沖縄からは、たくさんの県民が南米やハワイ・北米、南洋諸島など海外に移民として出かけて行った。いまでも、海外にたくさんの沖縄県系の人たちがいる。 
 「なれし故郷 沖縄の 想い出深き 那覇港 泣いて別れた 両親と 八重の潮路を 押し渡り」と歌い出す。
海外に出れば「油断するなよ」「立てた志望の 一筋は 岩もつらぬく 覚悟あれ」「両親に便り 送金も忘れるな」「人に勝りて働けよ 勤倹貯蓄も心掛け」と故郷に錦を飾れるようにという励ましの内容である。
この曲は、当時の世相を反映しているが、社会批判的な要素はない。
長くなるので、この後は次にしましょうね。
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