レキオ島唄アッチャー

按司と鍛冶遺跡、その4

 按司と城下の鍛冶遺跡
 鍛冶遺跡のことを書いていたのに、「今帰仁系」のことに入り込み、話しが横道にそれてしまった。本題に戻る。
稲村賢敷氏は、鍛冶遺跡は、按司やグスクと密接な関係があるので、改めて各地の按司と城下にある鍛冶遺跡をまとめて記述している。先述したところと重なる部分もあるが、紹介しておきたい。
 <各地の強盛なる按司の城下には鍛冶遺跡がある。これは鍛冶をして武器を製作させたばかりではなく、主として農耕に必要なる生産器具を製作させた、尚巴志に関する逸話として武器を作るよりも農具を先に作れと言ったという話がある。これはよく当時の武将の気持を言い表わしているように思われる。
 
 次に各地にある鍛冶遺跡を記し、按司との関係を述べたいと思う。(年代不明)
 一、和解名の鍛冶遺跡
 南山城(注・糸満市の島尻大里城)の東北城外、和解名(ワダキナ)は俗説に依れば、源為朝が渡琉して、大里按司の妹と同棲していた旧跡であると伝えている。著者は和解名を数回に亘って調査した結果、同所を中心とした三反歩程の地域に亘り多量の青磁破片と、主として地域の東方から鉄滓の相当量を拾得した。
 是に依って考えると和解名の居住者は支那(中国)大陸に交通往来した者で、そして鍛冶であった事は間違いないと思う。…
和解名の鍛冶は主として南山王のために武器を製作し又附近の居住者のために農具を製作したものであろう。

 二、大里城下にある鍛冶跡
 大里城(注・南城市の島添大里城)外南方にあるカニマン墓と称する岩上墓の南方から少し許りの鉄滓を拾得した。カニマンという名称も鍛冶に対して称せられたようであるが、この鍛冶は大里城主のために武器を製作したものであろうが、あまり数量が多くなかったものと思われる。
                 IMG_3720.jpg
                           南山城跡
 三、内間カニマンの鍛冶跡
 那覇市北方、浦添村との境にある字内間の北方に鍛冶跡がある。この鍛冶は主として農具の製作に当ったようで、内間、安謝附近の田圃の開拓には功労があったものと考えられる。
 内間カニマンは内間グシク、又は掟カニマンと称しているから、彼自ら按司としての勢力を持っていたようであるが、強盛に至らずして浦添の配下になったものであろうと思う、しかし是の付近にあった多和田マキウ、シグルクコダの居住者は、この鍛冶の御蔭で早くから農耕生活にはいったものと思われる、これが恐らく字内間、字銘苅、字安謝の起原であろうと思われる。
 
 四、浦添城下の鍛冶遺跡
 浦添城の南麓、浦添小学校の北方にある大きな鍛冶跡である。鉄滓も相当に拾得される。崖下の洞窟は相当に広く、且つ湧水が流れて拾集には困難である。猶くわしい事はシーマ山の項を参照されたい。シーマ山中腹に居住していたシママキウの居住者は、この鍛冶の御蔭で早く鉄製農具を支給され、シーマ山の南麓に下って農耕生活をするようになった、これが浦添村字仲間の起原である。

 五、中城城下の鍛冶跡
 中城城下の正門の西方に鍛冶跡がある。少し許りの鉄滓を拾得したが直ぐ西方が崖になっているので拾得には困難である。この鍛冶も城主のために武器及び農具を製作したものと思われる。
 中城付近にあるキシマキウ、津覇コダ、富里マキウ、糸蒲門中の人々が、此の恩恵をうけて、早くから農耕生活にはいったことが考えられる。キシマキョの項に於いて述べたようにキシマキョの山岳上に生活していた古代人が、東方に向って山を下り、字当間、字奥間の部落を作って農耕生活をした事は口碑として伝えられているし、又津覇コダ、富里マキョ、糸蒲門中の人々が東麓の平地に下って字津覇の部落を作り、農耕民としての生活をしたことも口碑として残っている。
                     046[1]
                           中城城跡
 六、勝連城下の鍛冶遺跡
 勝連城の東麓にある南に向かった城門附近から、東に約80米程行くと、左手側に広大な鍛冶遺跡がある。南に向い間口焼く約10米、奥行3米位、洞窟の高さ2米程で、鍛冶跡として最も広大なるものである。鉄滓の出土も最も多く、おそらく数十年から百数十年の長期に亘って、武具、農具類の製作に当ったものと思われる。勝連鍛冶の後裔であると称する勝連村字南風原の仲間家には鍛冶の鞴を祭っている。同家の口碑に依れば先祖は勝連城内に居住していたと伝えていて、その居宅から東方に城内を通って鍛冶跡に通ずる通路もあるという話である。
 猶この字南風原の仲間家は、浦添村按司仲間の仲間家(浦添鍛冶の本家)とも関係があり、7年に1回宛は浦添仲間家の祭祀に参加しているという話であった。
 猶、浦添仲間家、勝連字南風原の仲間家、国頭村字奥間のアガリ家、浦添村字内間の鍛冶は皆カニマンと称し、浦添村字仲間家と関係があると称しているが、何れが鍛冶の宗家であるかは明らかではない。

 七、具志頭村ハナ城(グスク)城内の鍛冶
 この具志頭ハナ城城には鍛冶が居たという事が伝えられて居て、其のために城の別称をタダナ城(鞴のある城の意)とも称するという事である。又鍛冶が居たという証拠としては、城の城下町に当るナハ城部落の住民は、城内と交易をして、早くから農耕が発達し富裕で「とよむ玻名城(はなぐすく)」として知られていた事が、オモロ歌謡にも数首謡われている。城下の鍛冶が其の附近の居住者に対して大きな恩恵を与えたことは、ハナ城城(一名タダナ城)に於いて最も明らかである。
 玻名城タダナ城の年代に就いては、英祖王統第2代大成王の第2子が具志頭按司を命ぜられたという口碑があり、彼は具志頭按司として任地に下り、具志頭城を築造して、この玻名城タダナ城の勢力に備えたものと思われる。依ってタダナ城の年代は英祖王統第2代の頃と考えていいかと思われる。>

 <以上7ヶ所の鍛冶遺跡は、何れも城と関係があって、当時勢力のあった按司は遙々日本から鍛冶を招聘して、是を城内に置いて好遇し又黒鉄を買い入れて武器を製作し、傍ら農具を製作して城下の住民に分け与えて農耕を勧め、貢租を納めしめ、富国強兵の策を図ったものと思われる。この経済面、政治面の方策に成功した按司が則ち勝利者であって、堅固な城郭を築造し、多くの兵を養って、附近の弱小勢力を兼併して次第に大をなしたように思われる。

鍛冶跡がなくても、按司がその城下に農民を集めて、其の城下の富強を計ったことが伝説に依って伝えられている所がある。
1、尚巴志が其の城下の百姓に鉄製の農具を給与して、農耕を奨励したことは前述したとおりであるが、其の城下にはまだ鍛冶跡が見つかって居ない。
  然し尚巴志の居城から一里以内にあった古代部落は、皆麓の平地に下って農耕の生業を営み、農村として発達した。(あとは略)>
以上、稲村賢敷著『沖縄の古代部落マキョの研究』からの紹介である。
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