レキオ島唄アッチャー

按司と鍛冶遺跡、その3

 大里城附近のカニマン墓
 稲村賢敷氏の著書『沖縄の古代部落マキョの研究』では、南城市の島添大里城付近のカニマン墓についてもふれている。
<カニマン墓(大里)
 大里城の南方城外にある高さ20尺程、周囲50余尺の巨岩の頂上にある。巨岩の頂上は直系6尺程の凹所になっていて、此処には立派な彫琢された石を積んでボーンター型に造られた納骨所がある。中には屍体が葬られている事と思うがまだ発掘されていない。発掘したら埋葬の方法等も明らかになると思う。この墓はカニマン墓と称せられていて、大里城内に居住した鍛冶工の墓であると思う。
 私はこのカニマン墓の附近から少し許りの鉄滓を収得したから鍛冶工が居住していた事は確かである。>
                  カニマン御嶽、南城市教育委員会計画書
               カニマン御嶽(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 大里城址の西側には、カニマン御嶽がある。御嶽という名称だが、納骨されるお墓のようだ。
 「石灰岩の岩盤の上部に造られた拝所である。その形態は、円筒形を呈しており、上部に円形の屋根石が乗せられ、頂部には宝珠が置かれている」(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。
 稲村氏が言う「ボーンター型」のカニマン墓とは、この円筒形で屋根石が載せられた形のカニマン御嶽のことを指しているのではないだろうか。「ボーンター型」とは、墓の頂部が半円球の形をした大城按司の墓「ボントゥー墓」と同じ形のことだろう。写真で見る限り同形である。

 カニマン御嶽には、誰が祀られているだろうか。
 <島添大里グスク以前の城主の関係者が祀られているとか、島添大里グスクが滅ぼされた際の戦死者、または按司の家来で「金松」という人物が名前の由来ではないかともいわれているが、詳細は不明である(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。>

 ここには、奥間カンジャーの墓があるとも聞く。
 「奥間大親(中山王・察度の父)の父は奥間カンジャーと称し、中城間切奥間村から宜野湾間切真志喜村に移り住み、百名大主(ヒャクナウフヌシ)の十二男真志喜大神(マシキウフガミ)二代目真志喜五郎の養子になった。奥間カンジャーの墓は、大里城址西側の金満御嶽(カニマンウタキ)にある」(伊敷賢著『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』)。
 大里城址には何度も行ったが、残念ながらカニマン御嶽は見ていない。

 大里城跡を調べた方によると「主郭の広場からカニマン御嶽へと続く道の途中にある、石積みの墓(ウフウタキ)。奥の方にある小さな墓の石碑には、『奥間ハンジャナシー前之墓』と記されている」という(「沖縄島の写真『大里城址公園』HPから)。
 この「ウフウタキ」は「先の島添大里グスクの城主(今帰仁系)もしくはその家来の墓ともいわれているが詳細は不明である。今帰仁系の門中である宮城家が拝みに行っている」という(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」)。
                   奥間ハンジャナシー前之墓、計画書
              奥間ハンジャナシー前之墓(南城市教育委員会「島添大里城跡保存管理計画書」から)
 先の島添大里グスクの城主とは、「今帰仁系」とはどういうことだろうか。
 孫薇(スゥンウェー)氏=天津工業大学教授=の著作『中国から見た古琉球の世界』では、次のような記述がある。
 南城市大里西原のウフ殿内という神家の資料では、大里世主王と呼ばれる人物が、察度王、武寧王、山南王とともに祭られている。それによれば、今帰仁按司が「大里世主父」と記されている。
 <この「大里世主王」が「王」と呼ばれた時期は、だいたい1392年から20年も後のことだと推測できる>
 
 尚巴志が島添大里城を攻略したのが1402年(1403年とも)だが、その時の城主は、南山王となった汪応祖の弟の屋冨祖(やふそ)だったされる。その後、尚巴志は中山を攻略し、北山を滅ぼし、1429年に南山を攻めて琉球統一を果たした。「大里世主王」はこの尚巴志の支配下で大里世主王を名乗っていたのだろうか。しかし、北山王の攀安知(はんあんち)を滅ぼした後、今帰仁按司の子が大里世主王に就いていたのか、よくわからない。それとも時代が異なるのだろうか。

 また、この神家には今帰仁の山北王の側室として仕えた美女・志慶真乙樽(シケマウトゥダル)、今帰仁御神とも呼ばれた女性の絵がかけられており、「この今帰仁御神と呼ばれ、今帰仁城にいた王の側室の伝説を通じ、山北王とも呼ばれる今帰仁按司が、琉球国の北部今帰仁城から南部大里へと移動してきた歴史が見られた」(孫薇著同書)とのべている。
 
 志慶真乙樽は、今帰仁で帕尼芝が北山王となる前、「仲北山」の時代にいた人物である。今帰仁按司が「南部大里へと移動してきた」というのは、いったいどの時代なのか、よくわからない。ただし、時代が整合しないところはあるけれど、今帰仁按司が大里に移動して来て、その子が大里世主王を名乗っていたという伝承は、とても興味深いものがある。

 なお、古琉球の伝承を丹念に集めた伊敷賢氏は「1260(文応1)年、王になった英祖は5男を大里按司として南山領域の東大里城に(島添大里城のこと)送り込んだ」「英祖王5男・大里王子が『仲南山』初代となり2男1女を生み、長男は島尻世之主大里按司として『仲南山』二代目を継がせ、次男を東大里城主玉村按司に配して勢力拡大を進めた」としている(『琉球王国の真実―琉球三山戦国時代の謎を解く』)。
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