レキオ島唄アッチャー

津波古に移住した北山王・攀安知の子孫、その3

 攀安知の長男、次男の行方
 北山王だった攀安知(ハンアンチ)の三男、四男、五男の伝承については、以上であるが、では長男、次男はどうなったのだろうか。伊敷賢著『琉球王国戦国時代の真実』には、次のような伝承を記している。
 「15歳ほどの長男北山太子(仲宗根王子)は戦死したと言われているが、実は、護佐丸の手配により北山太子と乳母の2人を密かに船で渡名喜島へ逃がした。渡名喜島にもその言い伝えは残っていて、1年待たずに護佐丸の使いが迎えに来て、いったん山田城に連れて行き、ほとぼりが冷めた頃に島尻方面で妻を娶って暮らしたと伝えられている」
 「八重瀬町富盛の屋号アマダンジャー(天真太平と当て字している)は、北山太子の長男の後裔であるという。アマダンジャー門中(森田姓)墓近くの丘に、赤森(アカムヤー)と呼ぶ今帰仁への遥拝所がある」。
 
護佐丸といえば、曾祖父が先今帰仁城主で、1322年に帕尼芝(ハニシ)によって滅ぼされ、北山を追われた歴史がある。その護佐丸が、なぜ攀安知の長男を助けたのか。それはよくわからない。

 「攀安知王の次男の志慶真(シケマ)王子は、長女の真亜佳度金(マカトゥガニ)と共に攀安知王の弟・湧川(ワチャー)大主に守られ南山領内に逃れた。志慶真王子の母は南山王他留毎(タルミー)の姉で、和睦のため北山攀安知に嫁いでいた。…察度王孫の奥間城主に世話になった後、隣の阿波根村の海岸に移り住み、塩を作って暮らすようになった。やがて人も増えて潮平(スンザ)村ができ、攀安知王長女の真亜佳度金は、察度王曾孫の潮平大主と結婚した」

 中山と南山が戦った時「20歳前後になっていた志慶真王子と湧川子は、南山軍に加わり中山軍と戦ったが与座山中で戦死した」
「志慶真王子の子孫は百次(ムンナン)門中(百次姓)で、湧川大主の子孫は名嘉・湧川門中(湧川姓)として、糸満市字潮平を中心に子孫が広がっている。湧川大主の長男の湧川子が玉城名嘉の娘を娶ったので名嘉湧川門中と称しているが、現在は「名加」と表示している。
 今帰仁腹の墓は王子墓とも呼ばれ、大殿内門中と百次門中と名嘉湧川門中で今帰仁腹の墓を共同使用している。」
                 IMG_1803.jpg

 伊敷氏はさらに、攀安知の三男、四男についても次のように記している。
 「二人は母と共に捕虜として大里城に連れて行かれ、成人しても武士にはならないと約束させられ、佐敷間切津波古で百姓として生涯を終えた。外間子と喜屋武久子の母親である今帰仁阿護母志良礼(ナチジンアムシラレ)は、大里城で大里城主の妾にされた。当時の大里城主は、尚巴志王の弟美里大比屋(ンザトゥウーヒャー)であった。大里城には林英公仙芝や林昌公莞爾など「大里五姓国師」がいて、外間子と喜屋武久子に教育を施し中国にも随行させたといわれている。特に、喜屋武久子は中国で琴や三絃・笛などの音楽を習得して帰り、『チャンク チンク』という囃子の元になった」
 
 「攀安知王の五男虎寿金(トゥラジュガニ)は、落城後に生れたので、黄金子(クガニングァ)とも称していた。虎寿金は母親とともに、南風原間切兼城村の内嶺(ウチンミ)按司の捕虜になって、内嶺グスク裏の今帰仁屋敷で暮らしていたという。内嶺按司は刀鍛冶技術者だったので、尚巴志王と同盟を結び武寧王滅亡後に首里から移住して来た。…虎寿金は、第一尚氏が滅んだ後に 、尚円王の引き立てで兼城按司の養子になった。兼城按司になった虎寿金の男子は池原按司になり、その子の勢頭次良金の長男が、応氏(名乗頭「安」)元祖大嶺親雲上安憲である。兼城按司には2人の娘がいて、長女は尚円王の夫人になり男子をもうけ、男子は兼城按司の跡を継いで内嶺按司(ウチンミアンジ)と称した。」

勝連按司の臣下も逃れてきた
落ち延びたといえば、勝連城主の阿麻和利に滅ぼされた按司の臣下も津波古にきたという。『津波古字誌』は次のようにのべている。
 <右の年代から少しあと、勝連城主阿麻和利に亡ぼされた、先の勝連城主「茂知附(もちづき)按司」の臣下(平安座八太郎=ヘンザハッタラー=の子)が勝連を逃れてマーガー(与那原町当添の山手)に居を構えた。この人が現在の大屋(ウフヤ)ビチの祖先である。阿麻和利の死が1458年(尚泰久5年)なので、それ以前の移住と思われる。その後、大屋ビチの祖は「南風原(ヘージー)」(垣元原=カチムトゥバル)に移ってから旧津波古部落(203番地)に入ることになる。
大屋ビチの祖は、外来者だったので、上津波古原に土地が与えられなかったようだ。後年四元の祖がマーガーの親子は「ナサリールムン」(良い人だ)というので、前記の「南風原」に入居させられたようだ。>

 琉球は、三山対立の時代に尚巴志が中山を攻めて、さらに北山、南山を攻略して琉球を統一したが、まだ政権は不安定で、争いが絶えなかった。国内が安定したのは、金丸がクーデターで第一尚氏に代わり、尚円王となって第二尚氏の王統を打ち立て、さらに尚真王が各地に割拠していた按司を首里に集め、武装を解除して中央集権制を強化してからである。それ以前に、争いで敗れてグスクの城主、按司たちの子どもや臣下が、南部や中部、北部に落ち延びた伝承が、各地に残されている。
 津波古の伝承もその一つである。といっても、600年もの歳月を経ても、これだけ明確な形で子孫に語り継がれて、移住の記念を祝うという例は寡聞にして聞いたことがなかった。これまで北山の歴史のなかで攀安知のことを聞いても、歴史の遠い彼方にあったことだという感じだったが、攀安知とその子たちのことが600年の時を超えて、身近なことのように感じられる。それが地域の歴史を学ぶことの意味だろう。
終わり


スポンサーサイト

沖縄の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<ロック調がカッコイイ「芭蕉布」 | ホーム | 津波古に移住した北山王・攀安知の子孫、その2>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |