レキオ島唄アッチャー

南山崩れとシヌグ祭り、その2

 南山崩れの落武者
 南山崩れの落武者について、親川光繁著『与勝離島の混血たち』から紹介する。
 <南山崩れの落武者を考えてみたい。南山が大混乱して凡そ30年間随処に戦さがあった。30年間というのは、生まれた子供が30才になる迄の年間であるから、その子供はまるで戦さをしにこの世に生れて来たようなものである。
 現代の国と国との戦争は国という組織で計画され実行されるのであるから敗れてもその責任者だけが処刑される。しかし按司時代の戦さは、個人的、家族的、重臣を含める一族的な戦さであったから勝敗が決しても、勝った側は、戦さには勝ったが、後年、又いつ仇討ちされるか分からないという危機感があって、勝ったその時から、負けた相手側の按司や身内の者、或いは重臣まで処刑しておかなければ安全ではないと考えた。それ故に、演劇舞踊などにも見られるように、血まなこになって追跡していた。
                 浜比嘉島
                     浜比嘉島のアマミチューの墓のある小島
 敗けた側もそれ以上で、それこそ命の問題であるから、名を変え、身分をひたかくしにして、敵の眼の届かない処へ逃げかくれていた。そして当時は特に、君臣の義は非常に重んぜられた時代であったから命がけで主人を守り通した。
 そのようなことで、落武者とは隊伍を組んで逃げたのではなく極秘の◆(衣偏に裏)に数名或いは7-8名となって逃げのびたであろう。勝連村誌にある浜比嘉島のシヌグ祭りは面白い祭りだと思う。>
 
 南山崩れについて次のような云い伝えもあるという。
 <南山王国最後の国王・他魯毎(もしくはその家臣ともいわれる)が宮城島の上根(イークン)グスクに逃亡したという言い伝えがあり、彼を祀った「南山お宮」という祭祀殿がある。尚巴志が北山王国を滅亡したとされる1416年、今帰仁から久志按司の妻子が宮城島に逃れ、後に永住したという(「ウィキペディア」)。>

 三山時代に、戦さで勝った側が、相手側の一族、重臣まで血まなこで探したということはよく聞くことである。ある意味では、戦さの世では常のことなのだろう。
 一方では、このブログで、前に書いた今帰仁の北山王の息子たちが津波古に逃れ、生き延びたばかりか、中国へも渡った伝承に見るように、逆のケースもある。これは、勝者となった人物の人間像によって対応が異なったということなのだろうか。
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