レキオ島唄アッチャー

津波古に移住した北山王・攀安知の子孫、その2

  攀安知の息子たちの行方
 尚巴志によって攻め滅ぼされた北山の攀安知(はんあんち)王の息子たち行方について、『津波古字誌』から紹介する。

<外間子のこと
 外間子は北山王攀安知の3男で、姓は應(おお)、唐名(カラナ)は興珥で爲藩(イーハン)と名乗る。大里按司と五姓御師賓(ゴセイゴシヒン)という人(唐すなわち中国から来た学者か政治家のようだ)の教育を受け、長じて唐の国に渡り、武勇および漁猟用具の細工、食塩造り、藍(あい、イェー)作りの法を学び、琉球に帰りこの業を広めた。中山王尚巴志は大いに喜び、これに御褒賞として7石の御扶持(俸禄)を給わったという。五姓御師賓とは上森(イームイ、飯森、食栄森)之大主のことだろうともいわれる。(「安次當門中由来記)参照)>

<喜屋武久子のこと
 喜屋武久子は應姓で、唐名は興昌といい、爲寶と名乗った。外間子と同じく大里按司と五姓御師賓の教育を受け、長じて唐の国に渡り、武勇および農耕具の細工と、琴、琵琶、三絃、歌、笛、笙(しょう)などを学んで帰る。音楽を能くすることに長じ、琉球国で最もすぐれていた。それで尚巴志は喜んで御扶持として7石を給わったという。喜屋武久子の子孫は「福増ビチ」ともいい、上福増(77番地)がムートゥドゥクル(元所)で、諸拝所への「お通し」を祀ってある。…>

 <(参考)五男虎寿金(とらじゅがに)について
 母親真加戸金が新里(当時は並里村)で生んだ児が五男虎寿金であり、そこで成人し巫女殿内(ヌンドゥンチ)の祖となった。一説によると兄達のいる安次當(外間家)で出生し、後年、新里に定住したともいう。…
 また『大里村史』には、虎寿金を捕虜にしたと記されている。それに、後記のように南風原間切の兼城按司になったといわれる。
 「…攀安知王の夫人今帰仁アモシラレとその生子外間子(三男)と喜屋武子(四男)、虎寿金(五男)を捕虜にして帰り、母子4人を弟(美里按司)の居る大里城に養育せしめ、成長の後、外間子と喜屋武久子は佐敷間切津波古村に住み、五男虎寿金は美里按司の娘婿とし、南風原間切兼城村に内嶺城を築いて兼城按司と称した。(註・北山征伐の際、攀安知の二男志慶真王子が南山城下に逃亡していたので、これを牽制するため、美里按司は虎寿金を婿とした。)」(『大里村史通史編』39頁)>
                   佐敷、尚巴志の碑
             南城市佐敷の城跡後にある尚巴志の碑
津波古といえば、旧佐敷町。尚巴志の出身地である。今帰仁城を攻略したが、その北山から落ち延びてきた攀安知の子どもたちを、徹底して追い詰め討つのではなく、逆に助けたとは意外である。そればかりか、2人とも中国に留学し、武術や農耕・漁労用具の細工、芸能などを学んで帰り、琉球で広めたので、尚巴志が喜び、褒賞として俸禄を授けたとは、とても驚きである。
 尚巴志は度量が大きかったのだろうか。滅ぼした城主の子孫でも、有能な人材は大いに生かして活用する方が得策であると心得ていたのだろうか。

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