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津波古に移住した北山王・攀安知の子孫、その1

移住600年で攀安知の子孫が祝典

 北山王・攀安知(はんあち)の三男・外間子(ふかましー)、四男・喜屋武久子(ちゃんくしー)が村の元祖とされる南城市佐敷字津波古。攀安知が中山王の尚巴志に討たれ、外間子と喜屋武久子が津波古へ移り住んだ1416年から今年で600年になることを記念し、「攀安知王の三男・外間子、四男・喜屋武久子 移住600年祭」が11月6日、津波古公民館で開かれた。外間子と喜屋武久子の子孫である3門中の約1200人が県内外から集まり、自らのルーツに思いをはせ、時代を超えて交流を深めた。
 これは、「琉球新報」2016年11月23日付の記事である。以下もこの記事による。

 外間子の子孫である桃原門中、安次當(あしどぅ)門中、喜屋武久子の子孫である福増門中は各門中で総会などは開いていたが、三門中が集う企画は初めて。福増門中の伊禮青勝さん(70)が開催を呼び掛け、今年6月に実行委員会が立ち上がった。
実行委員長を務めた伊禮さんによると、尚巴志に滅ぼされた攀安知は歴史上よく描かれないことが多く、門中の中には「北山系」という出自をタブー視する人もいたという。「だが、外間子や喜屋武久子は中国で得た知識を琉球に広めた功績のある人物。その子孫も各方面で活躍している。若い世代には誇りと自信を持ってほしい」と思いを語る。
 くしくも6日は尚巴志ハーフマラソンin南城市大会の開催日。「尚巴志が外間子、喜屋武久子を討たなかったおかげで我々が生れた」と笑う伊禮さん。「(同じく生き延びた)攀安知の次男、五男の子孫たちとも交流を持ちたい」と今後の展望を語った。
                   今帰仁
                  今帰仁城跡

 もう少し詳しく知りたいので、『津波古字誌』を読んでみた。
 「琉球王国時代 津波古の発祥」について、紹介する。
 <津波古は、多和田子(タータシー)、松堂之子(マチドーヌシー)、外間子(フカマシー)、喜屋武久子(チャンクシー)が、上津波古原・見謝原に居を構えてからはじまるといわれる。尚巴志王の頃である。
 多和田子は大里城が中山の察度王統の配下で、大里城東方、当添(トーシ)の港の中国貿易の監督官のような形で派遣されたといわれる。
 松堂之子の祖は、島添大里按司の子寒川親方(スンガーウェーカタ)といわれる。
 1416年(一説には22年)、尚巴志に亡ぼされた攀安知(はんあんち)の三男外間子は7歳、四男喜屋武久子は5歳で捕えられ大里按司に保護される。津波古の村創りは2人が中国留学などの後、1400年代の中頃だと推定される。
 「食栄森之(イームイヌ)大主は、津波古の喜屋武久子・外間子等を尚巴志より助けたといわれる」(旧大里村字大里の南風原の屋号(仲門ヌ前)の祖父宮城精吉氏談)。
 また、次の伝承もある。「外間子と喜屋武久子は、大里(現字大里の西原)ヌンドゥンチに預けられ成人したという。2人は成人すると上津波古に屋敷を与えられて独立した。上津波古原にはその前に、中山から唐船の監督官として派遣された多和田子が移住したといわれる。上津波古原に住居を構えたのが外間子・多和田子・松堂之子の3家、喜屋武久子は少し南側に家を建てた。外間子と喜屋武久子の殿は同じ高さであったという。」(話者・城間周吉氏談、屋号安次當)
 以上の4家が四元(ユムートゥ)といわれ、上津波古原・見謝原すなわち馬天小学校の南西の台地に居を構えた。
(津波古の発祥については別の説もある)>
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