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活発に海外交易を行なった具志頭のグスク、その2。花城按司の海外貿易

 花城按司の海外貿易
<花城按司は、強大な勢力を有し、その城下村の花城村をはじめ統治下の村々では、早くから農耕が発達し、村々はきわめて富み栄えた。
なぜに、花城按司はかくも強大な勢力を有し、かつ統治下の村々は富み栄えたのか。
 琉球歴史家の稲村賢敷氏は、その著「沖縄の古代部落マキヨの研究」の中で次のように述べている。
 鍛冶遺跡は、何れも城と関係があって、当時勢力のあった按司は、遙々日本から鍛冶を招聘して、是を城内に置いて厚遇し又黒鉄を買い入れて、武器を製作し、傍ら農具を製作して城下の住民に分け与えて農耕を勧め、貢租を納めしめ、富国強兵の策をとったものと思われる。この経済面、政治面の方策で成功した按司が即ち勝利者であって、堅固な城郭を築城し、多くの兵を養って附近の弱小勢力を兼併して次第に大をなしたように思われる。
 花城按司も、盛んに海外貿易を行い、また城内にすぐれた鍛冶を置き、鉄材を輸入してそれでもって、武器を作らせて、強大な武力を有し、勢力のある按司となった。
また、それでもって農具を作らせて、統治下の村々の農民に与え、農耕を発達させ、生産を高め、つまり、富国強兵の策によって、ますます勢力の強い按司となり、統治下の村々は富み栄えたと思われる。>
 稲村氏は、勢力のあった按司は、大和から鍛冶工を招き、鉄材を輸入に、城内で武器や農具を作らせており、「鍛冶遺跡はいずれも城と関係があった」と指摘する。その背景には、盛んな海外交易があったのだろう。
                   多々名城
                    多々名城の説明看板
 花城按司が海外貿易を行なった港はどこにあったのか。『具志頭村史』は次のようにのべている。 
<発掘調査の結果、花城按司の居城であった多々名城の城内から、多量の輸入陶器や輸入磁器等が出土していることから考証しても、花城按司が盛んに海外貿易を行なっていたことは明らかである。
それでは、代々の花城按司が、海外貿易を行なった港が、花城按司の統治下のどこかにあったにちがいない。その港はどこかにあったにちがいない。その港はどこにあったのか。
首里王府が編纂した琉球の史書「球陽」に次のような記述がある。…通訳すると次のとおりである。
嘉永5年(1852)1月11日、具志頭間切の沖合に、1隻の異国船があらわれた。
この日、異国船1隻があらわれた。その時、男5名女1名がボートに乗って、親泊港にこぎ入れ上陸した。ことばが通じないので、手まねで、えんどう豆・お茶の葉・生きた豚等との交易を求めた。住民は彼らが欲しているものが何であるかを知り、それらのものと交易して、立ち去らせることにした。それから半時も経たない中に、異国船は帆をあげて、南の方に去って行った。
球陽によると、この頃は沖縄の各地に、異国船が来航した時期である。この異国船は、公益を目的にして来航し、親泊港に上陸したのである。そして、これよりはるか以前から、この親泊港では、海外交易が行われていた。

それでは、この親泊港とは具志頭間切のどこにあったのか。…
現在の具志頭村の海岸と糸満市字摩文仁の海岸の境にあって、沖の方から長い入江になっている。俗に「ワタヤー」と称する所である。この「ワタヤー」が親泊港である。
つまり、この親泊港が、代々の花城按司の異国船との貿易港であり、近くのウシヌマチが、その交易の場所であった。>
「親泊港が花城按司の異国船との貿易港」だったと推定している。
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