レキオ島唄アッチャー

琉球弧の歴史と喜界島(14)、勝連勢力

 喜界島にある勝連家 
 沖縄と喜界島の関係について、福寛美氏はさらに、喜界島には勝連家があり、沖縄本島の勝連勢力とのなんらかのかかわりがあるのではないかと推理する。
 <琉球王国初の文字資料『おもろさうし』…に、勝連勢力が喜界島と奄美大島を地続きにしたい(島々の支配権を得たい)、と望む用例がありました。喜界島白水(しろみ)には実際に勝連とかかわりがある、と考えられる勝連家があります。勝連家には琉球王府発行の辞令書が2通、伝わっています。ある人物が喜界島の手久津久集落の掟(うっち、村落の長)から荒木間切の目差(行政単位間切の庶務管理者)、そして手久津久の大屋子(おおやこ、間切の責任者、大役)へと昇任していくプロセスが辞令書から読み取れます。
           
 また、喜界島の神女たちを統括する女性神役、大阿母(おおあむ)職の継承をめぐる勝連家に有利な文書も残っています。これらの文書は琉球王国成立後、すなわち17世紀以後の文書です。
                  
この喜界島の勝連家と、沖縄島のかつての勝連勢力を結びつける証拠はありません。しかし、活発に海外交易を行い、喜界島の支配権を欲していた勝連勢力と勝連家が無関係である、という証拠もありません。勝連家と勝連勢力の間に何らかの関係があった可能性を考えたいと思います。(『喜界島・鬼の海域 キカイジマ考』)>  
                 027.jpg
 はたして尚徳王が、「倭寇そのもの」であったかろうかは別にして、尚徳王や勝連勢力についての指摘は、喜界島と沖縄との間に深いかかわりがあったことをうかがわせる。勝連城主だった阿麻和利は、大和との交易を盛んに行なっていたことで知られる。喜界島は勝連勢力による大和との交易の上、重要な拠点だったのかもしれない。

 沖縄との関わりといえば、次のような伝承もあるという。
 <喜界島の手久津久というシマ(集落)の中央に朝戸神社は建てられており、沖縄からウツワ船で漂着した兄妹が祭神とされています。この兄弟は沖縄からの追手を逃れ、兄妹でありながら子供を宿し、子供が神の力を授かったという言い伝えがあります(「喜界島酒造株式会社」HP)>。

 これまで喜界島の城久遺跡群の発掘と調査によって明らかにされた歴史像と琉球弧の島々に与えた影響などについて、識者の見解を紹介してきた。そのまま鵜呑みにはできない見解もあれば、とても示唆に富む論考もある。とても刺激的な提起があると思う。今での段階では、この問題について自分の意見をいえるほどの知識はない。とりあえず、簡略な紹介で終わる。

スポンサーサイト

琉球弧の歴史 | コメント:0 | トラックバック:0 |
<<琉球弧の歴史と喜界島(15)、政治権力の基盤について補論 | ホーム | 沖縄科学技術大学院大学を見学>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |