レキオ島唄アッチャー

琉球弧の歴史と喜界島(16)、二期作と中城湾岸

 水稲二期作と中城湾岸の経済的発展
 こうした政治的有力者の出現地の移動と農業生産の発展との関係についてもう少し詳しく見ておきたい。安里氏は『考古学からみた琉球史』(下)で次のようにのべている。
 <13、4世紀の沖縄の農業生産の先進形態は、石灰岩台地縁辺地帯での<水稲作+麦作>複合経営から、15、6世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯における<水稲二期作>として展開してきたからである。…13、4世紀には石灰岩台地地帯は農業生産力が高く、集落が濃密に分布し、したがって三山時代の政治権力もそうした石灰岩台地地帯から発生した。ちなみに、中山の英祖・察度王の拠点浦添、山南汪の拠点の高嶺(糸満市)、山北王の拠点の今帰仁はすべて石灰岩台地縁辺地帯にある。
その後、15世紀には沖縄本島中頭・島尻地方13、4世紀の沖縄の農業生産の先進形態は、石灰岩台地縁辺地帯を中心に水稲二期作が広く行われていた…
 13,4世紀には農耕生産の後進地域であった非石灰岩地帯の中城湾岸や南風原・東風平地域は、水稲二期作の導入によって豊かな稲作地帯へと変貌し、そして雨後の筍のように次々と集落が形成されていった。…第一尚氏から第二尚氏時代にいたる15世紀の政治を動かした有力者(尚巴志、阿麻和利、護佐丸、尚円)は、すべてこの中城湾岸地帯を本貫地としているからだ。…当時の政治的展開の背景に、水稲二期作を基礎とした中城湾岸の経済的発展があったことを物語っている。…
グスク時代・三山時代・琉球王国時代の政治勢力の問題をすべて農業生産力の問題に解消することはできないが、農業生産力が政治力の基礎にあったことは疑うことができない。>
                    011[1]
                 中城城跡から見た中城湾岸

 琉球のグスク時代から三山時代、琉球王国にかけて、海外交易による富が政治権力の重要な基盤になったことは確かである。ただ、同時に国内での生産力がどのような段階にあったのか、とりわけ農業生産力の発展を軽視することはできない。農業生産力の発展を抜きにして、グスク時代から三山時代、琉球王国と続くその社会の維持・存続と発展も考えられないからだ。
 安里氏が、政治的有力者の発生地が、「14世紀の石灰岩台地縁辺地帯から15世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯に移っていった」とし、その背景に「沖縄の農業生産の先進形態は、石灰岩台地縁辺地帯での[水稲作+麦作]複合経営から、15、6世紀には中城湾岸のジャーガル低地帯における[水稲二期作]として展開してきた」ことを考察していることは、示唆に富むものだと思う。
もちろん、政治権力の出現をすべて農業生産力に還元することはできない。しかし、13、4世紀の三山時代の政治権力者から15世紀の政治を動かした有力者への推移は、その基盤に農業生産力の発展があるという指摘が、私個人としては合理的な説明がされたように思った。
 終わり   (2016.12.6  文責・沢村昭洋)
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